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第1話 夕希
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しおりを挟むどれくらい立ち尽くしてたのだろう。
「…さん、糸井さん」
荒々しく名前を呼ばれて、夕希は漸く声の方を振り返った。
既に何度も呼んでいたのか、琢朗が苦虫を噛み潰した顔で、立ってた。
「…今の女の人、知ってる?」
夕希は曖昧に頷く。知ってるといえば、知ってるし、知らないといえば知らない。峰麻衣香さん。淳弥に手紙を出した本人だろうとは思う。
けれど、彼女と淳弥の関係性は――この期に及んでまだ不明瞭だと言えるのだろうか。
広島から家まで来ていて、淳弥の大きな荷物ごと走り去った。事実を鑑みれば…。
「奥さん、なのかな…?」
家庭のある人だったのかな。
いっつも深夜にお弁当やらお惣菜買ってて、朝ごはんはシリアルで、部屋はとっちらかっていて、いつ行っても女の人の影なんてなくって。
なのに…?
気づかなかった夕希が悪いのか、気づかせなかった淳弥が狡猾なのか。
淳弥の行動のひとつひとつを思い浮かべながら、瞼を閉じたら、自然に涙が押し出された。
知りたくなかった、こんな形で。
涙を拭った手を降ろす前に、がしっと掴まれた。
驚いてる夕希に、琢朗は更に突拍子もない提案を持ちかけた。
「…追っかけよう」
「へ?」
夕希が琢朗の言葉の意味を咀嚼してる間に、琢朗はスマホを取り出して、なにか調べ始める。
「…住所、わかるんだよね」
「え、あ、うん。手紙、あるから」
「じゃあ、行こうよ。元々直談判するつもりだったじゃん」
「行くって何処に…」
「決まってるだろ、あいつの家だよ」
淳弥の行動に打ちひしがれる暇も与えてくれない。琢朗の変貌ぶりに、夕希は若干引き気味になってしまう。
「い、行ってどうするの…?」
行ったところで、絶対に夕希の望むような展開にはなりえない。辛い現実を目の当たりにして帰ってくるだけではないか。
それならば、ほぼ真っ黒に塗りつぶされたキャンバスの、片隅の白い部分を守りたいと考えるのは…卑怯なのだろうか。
夕希はまだ何処かで淳弥を信じてる。さっきの女性は姉か、妹だよ、って淳弥が言ってくれるのを期待してる。
淳弥の言葉が事実かどうかなんて、夕希には関係ない。
「…いいっ」
琢朗の手に掴まれたままだった右手を、ぱっと払いのけた。
「淳さんが戻ってきたら、私ひとりで聞いてみる」
早くひとりになりたかった。
ひとりで、もう一度淳弥のことを考え直したい。それでもきっと、夕希の出した結論に、変わりはないのだろうと思うけれど。
(別れたくない)
真実を知るのが、こんなに怖いことだなんて、夕希は知らなかった。
琢朗との間に距離を開け、夕希は踵を返す。
「上條くん、ありがと。もう…平気だから」
彼に背中を向けたまま、夕希は虚勢を張った。恐らく正義感に燃え、夕希への怒りに満ちてるだろう琢朗と、目を合わせる勇気は持てなかった。
(何処まで卑怯で、何処まで弱いんだろ…私)
自分で自分に呆れるけれど、どうしようもない。
一歩、また一歩と、ゆっくり琢朗から遠ざかる。
歩調を早め、琢朗から一気に距離を開けようとした刹那。
背中から抱きつかれて、夕希の足はまた止まってしまう。
「……っ」
背中に琢朗の胸板が張り付いて、肩と腰に琢朗の腕が回される。何で、どうして急にこんなこと。
「離して…」
「やだ。俺に軽蔑させないでよ、糸井さんのこと」
淳弥のことが理解出来ない。けれど、琢朗の行動も夕希には意味不明過ぎる。こんなことを言われたりされたりする関係じゃ、なかったはずだ。
(どうして男の人って…)
好きだって言えば、女は尻尾振って喜んで、何でも言うこと聞くと思っての?
足元を見られたみたいで、悔しさだけがこみ上げた。
「離して」
夕希はもう一度琢朗に言う。今度は、もうちょっと強い口調で。
琢朗は今度は言われた通りに、夕希から離れた。すっと琢朗の熱と匂いが遠ざかって、夕希を湿気混じりの重たい夜の空気が包む。
「勝手に軽蔑でも何でもすればいいじゃん。上條くんにどう思われても、私は構わないもん」
夕希が言い切ると、琢朗は悲しそうに口角だけ上げる笑顔を作った。
この間と、今日と。流石に琢朗の自分への慕情が汲み取れない夕希ではない。けれど、受け取る余裕なんてない、何処にも。
「…糸井さん」
静かに琢朗が口を開く。夕希を責め立てるのかと身構えた夕希に琢朗は意外なことを話しだした。
「うちの親父も不倫してたんだよね。高校だか中学の同級生だかの女と」
息を呑んだ夕希に気づいて、琢朗は「ごめんね、こんな話」と小さく謝る。でも、まだ琢朗の話は終わらなかった。
「家族にバレてもやめないんだから、すげーいい根性だよね、親父も相手の女も。そんな男捨てりゃいいのに、おふくろは『別れる』とは最後まで言わなかった」
「…最後?」
「3年前に死んだんだ。ばかみたいだろ? 我慢するだけしてさ。あんなしょうもない男にすがりついて…勝手な言い分だけど。俺、糸井さんにはそんな愚かしいことしてほしくない」
琢朗の話は夕希にも衝撃だった。
妻側の痛みを、苦しみを琢朗は間近で見てきてる。
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