38 / 63
第2話 淳弥
8
しおりを挟む
「お前のせいじゃないよ。前々からやめるやめる言ってたのを、俺も何度も引き止めたからさ」
と伊藤は淳弥をかばって、励ますように肩を叩かれた。
その後、社内で東京支社への転勤の募集があり、淳弥は迷わず応募した。仕事への意欲というより、麻衣香から逃げ出したかったに他ならない。
「東京? 何、それ私、聞いてない」
正式な辞令が出てから、麻衣香に告げると、案の定麻衣香は声を荒げた。近頃、喃語が人の言葉になりつつある結衣が「ま…」と言ったまま、怯えたように固まった。
結衣を安心させるように膝の上に、淳弥は抱き上げる。
「再来月には、私、仕事復帰する予定なのよ?」
「わかってる。君の仕事の邪魔をするつもりはないよ。単身赴任者や独身の人のために会社が借り上げてるアパートがいくつかあるから、そこに住むつもりだ」
「そんな…」
「――その方がいいだろ?」
珍しく、強引に淳弥は話を結論づける。俺にとっても、君にとっても、離れた方がいい。
『別れよう』
そんな言葉も胸には渦巻いていたが、結局膝の上の我が子の重みを考えたら切り出せなかった。
~★~☆~★~☆~
「峰」
伊藤に名を呼ばれて、淳弥ははっと我に返った。森崎佳苗の名が出たことで、随分長いこと黙りこんでしまっていたらしい。
「あ、ああ…すみません」
額を掻いて、それからもう一度先ほど伊藤が放った台詞を咀嚼した。
佳苗の結婚。
「…あの子なら、きっといい奥さんになるでしょうね」
「だろうな」
そう、良かった。本当に良かった。心からそう思う。
「お前のとこにも来なかったか? ハガキ」
「…あー」
淳弥は佳苗に東京の住所は知らせていない。これまでの経緯から、麻衣香の気持ちを必要以上に刺激することを恐れて、佳苗が遠慮したか、麻衣香が握りつぶしたかどちらかだろう。
一度、怒りに火をつけてしまったら、麻衣香は何をするかわからない。
自らを納得させるように、淳弥は言う。
「俺のとこには来なかったっすね。けど、いいです」
幸せになったのならそれで。
紛れも無い本心だった。
そして、それは糸井夕希に対しても、同じ思いだった。
麻衣香に知られたら、絶対に麻衣香は夕希を追い詰める。巻き込みたくはない。自分で引きずりこんでおきながら、淳哉は身勝手なことを願う。犯してしまった罪の大きさ。ふたりの女性に対しての自分の不誠実な態度。今更悔いても、やってしまった事実は覆らない。
ならばせめて――夕希には、自分とは関係のないところで幸せになって欲しいのだ。他に淳哉が夕希に対して出来ることなんて、何も残っていない。
夢は終わってしまった。だから――あと、淳哉に出来るのは、麻衣香から夕希を守ることと、この嘘まみれの恋を、嘘のまま終わらせることだった。
「こんな処まで…ルール違反だよ、夕希ちゃん」
「だったら…淳さんだって、ずるいです。私に本当のこと、教えてくれなかった…。奥さんも子どももいたなんて」
「聞かなかったじゃん」
悪いのは自分なのに、夕希に責を被せるように言う。
「…麻衣は妻としては申し分ないけれど…。女性として愛せるか、って言ったら、ちょっと違うんだ。それに単身赴任で寂しかったから、かな? 夕希ちゃんといる時はこっちの家族のことなんて忘れてた。パラレルワールドみたいに、東京と広島。ふたり俺がいればいいのに…って、何度も何度も思ったよ」
自分でもあきれるくらい、身勝手な意見を並べると、夕希の顔は絶望に満ちたものになる。そうじゃなくて、彼女に対する謝罪とか、奥さんに対する良心の呵責とか。最後、夕希が淳弥に求めているものは、そういう誠実な対応だとわかっていて、わざと逸らした。
そもそも誠実な人間だったら、最初から不倫なんかしないし、夕希にも最初に打ち明けている。
(最後だけ誠実になったってそんなの…結局自己満足でしかない)
徹頭徹尾、淳弥はサイテーな男だったのだ。この恋は間違いで、夕希は騙されただけの被害者。そう、夕希に信じこませたかった。
「…日本の法律は妻以外に恋人を持つことは禁じてます。生涯、奥さんを愛して守っていくのが、いい男の人だと私も思います」
「俺はずるくて弱い。サイテーの人間だね。…けど、夕希ちゃんのこと、本気で好きだったよ」
最後にひとかけだけ真実を織り込むと、夕希の瞳に漣が立つ。静かに瞼を伏せて、涙を押し流すと、夕希は言った。
「…さようなら…」
夕希と別れ、家に戻ってきたあとのことは、よく憶えていない。
麻衣香があれこれ聞きたげだったが、夜通しのドライブで疲れたから…と言って、仮眠を取るふりをして、ベッドに潜り込んだ。
と伊藤は淳弥をかばって、励ますように肩を叩かれた。
その後、社内で東京支社への転勤の募集があり、淳弥は迷わず応募した。仕事への意欲というより、麻衣香から逃げ出したかったに他ならない。
「東京? 何、それ私、聞いてない」
正式な辞令が出てから、麻衣香に告げると、案の定麻衣香は声を荒げた。近頃、喃語が人の言葉になりつつある結衣が「ま…」と言ったまま、怯えたように固まった。
結衣を安心させるように膝の上に、淳弥は抱き上げる。
「再来月には、私、仕事復帰する予定なのよ?」
「わかってる。君の仕事の邪魔をするつもりはないよ。単身赴任者や独身の人のために会社が借り上げてるアパートがいくつかあるから、そこに住むつもりだ」
「そんな…」
「――その方がいいだろ?」
珍しく、強引に淳弥は話を結論づける。俺にとっても、君にとっても、離れた方がいい。
『別れよう』
そんな言葉も胸には渦巻いていたが、結局膝の上の我が子の重みを考えたら切り出せなかった。
~★~☆~★~☆~
「峰」
伊藤に名を呼ばれて、淳弥ははっと我に返った。森崎佳苗の名が出たことで、随分長いこと黙りこんでしまっていたらしい。
「あ、ああ…すみません」
額を掻いて、それからもう一度先ほど伊藤が放った台詞を咀嚼した。
佳苗の結婚。
「…あの子なら、きっといい奥さんになるでしょうね」
「だろうな」
そう、良かった。本当に良かった。心からそう思う。
「お前のとこにも来なかったか? ハガキ」
「…あー」
淳弥は佳苗に東京の住所は知らせていない。これまでの経緯から、麻衣香の気持ちを必要以上に刺激することを恐れて、佳苗が遠慮したか、麻衣香が握りつぶしたかどちらかだろう。
一度、怒りに火をつけてしまったら、麻衣香は何をするかわからない。
自らを納得させるように、淳弥は言う。
「俺のとこには来なかったっすね。けど、いいです」
幸せになったのならそれで。
紛れも無い本心だった。
そして、それは糸井夕希に対しても、同じ思いだった。
麻衣香に知られたら、絶対に麻衣香は夕希を追い詰める。巻き込みたくはない。自分で引きずりこんでおきながら、淳哉は身勝手なことを願う。犯してしまった罪の大きさ。ふたりの女性に対しての自分の不誠実な態度。今更悔いても、やってしまった事実は覆らない。
ならばせめて――夕希には、自分とは関係のないところで幸せになって欲しいのだ。他に淳哉が夕希に対して出来ることなんて、何も残っていない。
夢は終わってしまった。だから――あと、淳哉に出来るのは、麻衣香から夕希を守ることと、この嘘まみれの恋を、嘘のまま終わらせることだった。
「こんな処まで…ルール違反だよ、夕希ちゃん」
「だったら…淳さんだって、ずるいです。私に本当のこと、教えてくれなかった…。奥さんも子どももいたなんて」
「聞かなかったじゃん」
悪いのは自分なのに、夕希に責を被せるように言う。
「…麻衣は妻としては申し分ないけれど…。女性として愛せるか、って言ったら、ちょっと違うんだ。それに単身赴任で寂しかったから、かな? 夕希ちゃんといる時はこっちの家族のことなんて忘れてた。パラレルワールドみたいに、東京と広島。ふたり俺がいればいいのに…って、何度も何度も思ったよ」
自分でもあきれるくらい、身勝手な意見を並べると、夕希の顔は絶望に満ちたものになる。そうじゃなくて、彼女に対する謝罪とか、奥さんに対する良心の呵責とか。最後、夕希が淳弥に求めているものは、そういう誠実な対応だとわかっていて、わざと逸らした。
そもそも誠実な人間だったら、最初から不倫なんかしないし、夕希にも最初に打ち明けている。
(最後だけ誠実になったってそんなの…結局自己満足でしかない)
徹頭徹尾、淳弥はサイテーな男だったのだ。この恋は間違いで、夕希は騙されただけの被害者。そう、夕希に信じこませたかった。
「…日本の法律は妻以外に恋人を持つことは禁じてます。生涯、奥さんを愛して守っていくのが、いい男の人だと私も思います」
「俺はずるくて弱い。サイテーの人間だね。…けど、夕希ちゃんのこと、本気で好きだったよ」
最後にひとかけだけ真実を織り込むと、夕希の瞳に漣が立つ。静かに瞼を伏せて、涙を押し流すと、夕希は言った。
「…さようなら…」
夕希と別れ、家に戻ってきたあとのことは、よく憶えていない。
麻衣香があれこれ聞きたげだったが、夜通しのドライブで疲れたから…と言って、仮眠を取るふりをして、ベッドに潜り込んだ。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。
石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。
自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。
そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。
好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。
この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
【完結】離縁されたので実家には戻らずに自由にさせて貰います!
山葵
恋愛
「キリア、俺と離縁してくれ。ライラの御腹には俺の子が居る。産まれてくる子を庶子としたくない。お前に子供が授からなかったのも悪いのだ。慰謝料は払うから、離婚届にサインをして出て行ってくれ!」
夫のカイロは、自分の横にライラさんを座らせ、向かいに座る私に離婚届を差し出した。
可愛らしい人
はるきりょう
恋愛
「でも、ライアン様には、エレナ様がいらっしゃるのでは?」
「ああ、エレナね。よく勘違いされるんだけど、エレナとは婚約者でも何でもないんだ。ただの幼馴染み」
「それにあいつはひとりで生きていけるから」
女性ながらに剣術を学ぶエレナは可愛げがないという理由で、ほとんど婚約者同然の幼馴染から捨てられる。
けれど、
「エレナ嬢」
「なんでしょうか?」
「今日の夜会のパートナーはお決まりですか?」
その言葉でパートナー同伴の夜会に招待されていたことを思い出した。いつものとおりライアンと一緒に行くと思っていたので参加の返事を出していたのだ。
「……いいえ」
当日の欠席は著しく評価を下げる。今後、家庭教師として仕事をしていきたいと考えるのであれば、父親か兄に頼んででも行った方がいいだろう。
「よければ僕と一緒に行きませんか?」
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる