45 / 63
第3話 琢朗
2
しおりを挟む
彼女の身に、どんな悲しい出来事が起きても、時間は淡々と流れていく。司法試験の日程は変わらないし、学校だってスケジュールどおりだし、バイトだって、彼女がいなければ穴があいてしまうのだ。
広島から戻ってきて二週間も経っていた…。
無表情で学校に来て、無心に試験の勉強に勤しむ夕希は、そうすることで淳弥のことを考えずにいるように、琢朗からは見えた。必死になって、その存在を脳から追いだそうとするということは、まだ全然忘れてないということに他ならないのだけれど。
痛々しくさえ見える彼女を、それでも琢朗は見守るしか出来ない。しかし、天は彼女に更なる試練を与えた。
連日暑くって、毎日熱中症患者が何人出ただの、全国でその日いちばん暑かったのはこの街で、その記録は何度まで上がっただの。そういったニュースが毎日のように放送されるようになったある日。
いつものように琢朗が教室に入ると、最後列のはじっこの席で、机に突っ伏してる夕希の姿が目に入った。
「糸井さん?」
肩から提げてたショルダーバッグを彼女の机の横に置き、琢朗は夕希に話しかける。夕希はだるそうに首だけを琢朗の方に向けた。
「具合悪いの?」
「…平気…」
平気そうに見えないから言ってるのに。
夕希の遠慮を無視して、琢朗は彼女を医務室に連れて行く。貧血と偏頭痛。看護の先生が処置した薬を、夕希は頑なに拒否した。
怪訝そうな顔をしながらも、看護の先生は夕希に少し休んでいくように言って、自分は部屋を出る。
カーテンで仕切られた狭い空間に、夕希とふたりだけで取り残される。琢朗に背中を向けたまま、夕希はか細い声で言った。
「…私、淳さんの子ども、妊娠してる…どうやったら生めるか、この間からそればっかり考えてるの」
「ば…か…なの? 糸井さん」
彼女が告げた言葉に、思わず琢朗は口走っていた。何かにつけ、直情傾向で思ったことを口にしてしまうのは、彼の悪い癖だ。罵倒された彼女は、けれど、にっこりと笑ってみせた。
「わかってる。特に上條くんはそう言うと思ってた」
自らの人生に多大な影響を与えるっていうのに、どうしてこういう時女性は感情に走るのだろう…いや、違うのだろうか。感情的になっているのは、俺の方か?
糸井夕希は、上條琢朗の法科大学院のクラスメートだ。友人でしかない。そんな自分が彼女にあれこれ言える立場ではないのは、琢朗だって百も承知だ。けれど、お節介だと煙たがられようと、僭越だと罵られようと、このまま黙って彼女の決断を見過ごすことなんて出来ない。
父親にその存在を伝えられない子どもを生もうなんて言う決断は。
俯瞰的に自分を眺め、冷静さを取り戻してから、琢朗は再び夕希の説得を始める。
「…試験…」
「え?」
「司法試験どうするの。あと、1年ないんだぜ? 赤ん坊抱えて受けるつもり?」
「…それは…」
琢朗が夕希の腕を掴んで問い詰めると、夕希も困ったように目を泳がせた。出産と子育てと。両立出来る程、司法試験は甘くない。
「私にやれるだけのことはやる」
「落ちるに決まってるだろ。何が出来んのさ。でっかい腹抱えて」
「まだ大きくなってないもん」
「そういう問題じゃねえだろ? 何で生むなんて決意出来んだよ。頑張ってきたこと、全部無駄になるんだぜ、あんな男のために」
夕希の肩を揺さぶって、琢朗は正論と自分の本音をぶつける。気まずいのか、夕希は琢朗から目を逸らした。
「でも…あかちゃん殺せないよ…」
悩みに悩んで、出した結論がそれなのだろう。宿る命に罪はない。夕希の気持だって、全く汲めない琢朗ではない。けれど。
「堕胎は殺人じゃないよ」
しかも、妻帯者だったなんて知らなかった男との間の、意図せぬ妊娠。糸井夕希にだって、罪はない。
「糸井さん、このあと暇?」
「…うん」
夕希が頷くと、琢朗はちらっと腕時計を気にする。
「ちょっと付き合ってもらいたいところがあるんだ」
夕希の手を引いて、琢朗が歩き出すと、夕希はつんのめりそうになりながら、ついてきた。
琢朗が夕希を連れて行ったのは、琢朗の最寄り駅だと言った駅と大学のちょうど中間に当たる街の中にある病院だった。悠に10階以上はありそうな高いビルは、真っ白で清潔感を通り越して、威圧感さえ覚えさせる。受付を素通りして、琢朗はいつものようにエレベーターに乗り込んで、8階のボタンを押す。
「上條くん…」
何の説明も加えずにこんな場所に連れてきたからか、夕希は訝しげに琢朗に呼びかける。もしかしたら、自分が診察されると恐れてるのかもしれない。
「身内が入院してるんだ。って言っても、今日糸井さんに会って欲しいのは、別の人なんだけど」
琢朗の答えに、夕希はそれ以上口を挟まなかった。足音の響く程静かな長い廊下を、無言で進む。面会の終了時刻が迫ってるせいか、人けは少ない。
フロアのいちばん奥の病室に入ると、消毒薬の匂いが今日はやけに鼻についた。
広島から戻ってきて二週間も経っていた…。
無表情で学校に来て、無心に試験の勉強に勤しむ夕希は、そうすることで淳弥のことを考えずにいるように、琢朗からは見えた。必死になって、その存在を脳から追いだそうとするということは、まだ全然忘れてないということに他ならないのだけれど。
痛々しくさえ見える彼女を、それでも琢朗は見守るしか出来ない。しかし、天は彼女に更なる試練を与えた。
連日暑くって、毎日熱中症患者が何人出ただの、全国でその日いちばん暑かったのはこの街で、その記録は何度まで上がっただの。そういったニュースが毎日のように放送されるようになったある日。
いつものように琢朗が教室に入ると、最後列のはじっこの席で、机に突っ伏してる夕希の姿が目に入った。
「糸井さん?」
肩から提げてたショルダーバッグを彼女の机の横に置き、琢朗は夕希に話しかける。夕希はだるそうに首だけを琢朗の方に向けた。
「具合悪いの?」
「…平気…」
平気そうに見えないから言ってるのに。
夕希の遠慮を無視して、琢朗は彼女を医務室に連れて行く。貧血と偏頭痛。看護の先生が処置した薬を、夕希は頑なに拒否した。
怪訝そうな顔をしながらも、看護の先生は夕希に少し休んでいくように言って、自分は部屋を出る。
カーテンで仕切られた狭い空間に、夕希とふたりだけで取り残される。琢朗に背中を向けたまま、夕希はか細い声で言った。
「…私、淳さんの子ども、妊娠してる…どうやったら生めるか、この間からそればっかり考えてるの」
「ば…か…なの? 糸井さん」
彼女が告げた言葉に、思わず琢朗は口走っていた。何かにつけ、直情傾向で思ったことを口にしてしまうのは、彼の悪い癖だ。罵倒された彼女は、けれど、にっこりと笑ってみせた。
「わかってる。特に上條くんはそう言うと思ってた」
自らの人生に多大な影響を与えるっていうのに、どうしてこういう時女性は感情に走るのだろう…いや、違うのだろうか。感情的になっているのは、俺の方か?
糸井夕希は、上條琢朗の法科大学院のクラスメートだ。友人でしかない。そんな自分が彼女にあれこれ言える立場ではないのは、琢朗だって百も承知だ。けれど、お節介だと煙たがられようと、僭越だと罵られようと、このまま黙って彼女の決断を見過ごすことなんて出来ない。
父親にその存在を伝えられない子どもを生もうなんて言う決断は。
俯瞰的に自分を眺め、冷静さを取り戻してから、琢朗は再び夕希の説得を始める。
「…試験…」
「え?」
「司法試験どうするの。あと、1年ないんだぜ? 赤ん坊抱えて受けるつもり?」
「…それは…」
琢朗が夕希の腕を掴んで問い詰めると、夕希も困ったように目を泳がせた。出産と子育てと。両立出来る程、司法試験は甘くない。
「私にやれるだけのことはやる」
「落ちるに決まってるだろ。何が出来んのさ。でっかい腹抱えて」
「まだ大きくなってないもん」
「そういう問題じゃねえだろ? 何で生むなんて決意出来んだよ。頑張ってきたこと、全部無駄になるんだぜ、あんな男のために」
夕希の肩を揺さぶって、琢朗は正論と自分の本音をぶつける。気まずいのか、夕希は琢朗から目を逸らした。
「でも…あかちゃん殺せないよ…」
悩みに悩んで、出した結論がそれなのだろう。宿る命に罪はない。夕希の気持だって、全く汲めない琢朗ではない。けれど。
「堕胎は殺人じゃないよ」
しかも、妻帯者だったなんて知らなかった男との間の、意図せぬ妊娠。糸井夕希にだって、罪はない。
「糸井さん、このあと暇?」
「…うん」
夕希が頷くと、琢朗はちらっと腕時計を気にする。
「ちょっと付き合ってもらいたいところがあるんだ」
夕希の手を引いて、琢朗が歩き出すと、夕希はつんのめりそうになりながら、ついてきた。
琢朗が夕希を連れて行ったのは、琢朗の最寄り駅だと言った駅と大学のちょうど中間に当たる街の中にある病院だった。悠に10階以上はありそうな高いビルは、真っ白で清潔感を通り越して、威圧感さえ覚えさせる。受付を素通りして、琢朗はいつものようにエレベーターに乗り込んで、8階のボタンを押す。
「上條くん…」
何の説明も加えずにこんな場所に連れてきたからか、夕希は訝しげに琢朗に呼びかける。もしかしたら、自分が診察されると恐れてるのかもしれない。
「身内が入院してるんだ。って言っても、今日糸井さんに会って欲しいのは、別の人なんだけど」
琢朗の答えに、夕希はそれ以上口を挟まなかった。足音の響く程静かな長い廊下を、無言で進む。面会の終了時刻が迫ってるせいか、人けは少ない。
フロアのいちばん奥の病室に入ると、消毒薬の匂いが今日はやけに鼻についた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。
石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。
自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。
そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。
好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。
この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
【完結】離縁されたので実家には戻らずに自由にさせて貰います!
山葵
恋愛
「キリア、俺と離縁してくれ。ライラの御腹には俺の子が居る。産まれてくる子を庶子としたくない。お前に子供が授からなかったのも悪いのだ。慰謝料は払うから、離婚届にサインをして出て行ってくれ!」
夫のカイロは、自分の横にライラさんを座らせ、向かいに座る私に離婚届を差し出した。
可愛らしい人
はるきりょう
恋愛
「でも、ライアン様には、エレナ様がいらっしゃるのでは?」
「ああ、エレナね。よく勘違いされるんだけど、エレナとは婚約者でも何でもないんだ。ただの幼馴染み」
「それにあいつはひとりで生きていけるから」
女性ながらに剣術を学ぶエレナは可愛げがないという理由で、ほとんど婚約者同然の幼馴染から捨てられる。
けれど、
「エレナ嬢」
「なんでしょうか?」
「今日の夜会のパートナーはお決まりですか?」
その言葉でパートナー同伴の夜会に招待されていたことを思い出した。いつものとおりライアンと一緒に行くと思っていたので参加の返事を出していたのだ。
「……いいえ」
当日の欠席は著しく評価を下げる。今後、家庭教師として仕事をしていきたいと考えるのであれば、父親か兄に頼んででも行った方がいいだろう。
「よければ僕と一緒に行きませんか?」
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる