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第3話 琢朗
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帰りの新幹線の中はお通夜みたいな空気だった。
「寝ていいよ。上條くん」
夕希は小さな声で言う。きっと眠っててくれた方が、夕希も気が楽なのだろう。怒りで眠気なんて吹っ飛んでいたけれど、琢朗は瞳を閉じた。
しばらくすると、夕希の嗚咽を堪える声が聞こえてくる。…行かない方が良かったのだろうか、広島に。
それにしても…と、琢朗はほんの数時間前の出来事を思い返す。
ある程度のことは想像していたが、峰淳弥は琢朗の想像を遥かに超えるクズっぷりだった。
自分が結婚していることを、交際相手の夕希には黙っていただけではなく、夕希と琢朗が妻子の住む彼の自宅に押しかけると、夕希を会社の事務の子だと、手のひらを返す。
せめて、誠意ある謝罪でも欲しかったのに、彼の口から出たのは、保身のための嘘ばかりだった。
殴り飛ばしたいと血気にはやる琢朗を、夕希は本気で止める。わかってる。暴力で解決する問題なんて、実は多くない。いっとき、スカッとしても、傷害罪とか暴行罪とか、自分の首を締めるだけだ。
琢朗はこの時ほど、弁護士バッチを切望したことはない。
淳弥に別れを告げたあとの夕希は、掛ける言葉に困るくらい、落ち込んでいた。凪いだ瀬戸の海を見つめて、時折ぎゅっと下唇を噛むのは、きっと涙をこらえているのだろう。
(あんなサイテー男、とっとと忘れちまえよ)
あんなやつのためにこぼす涙の一滴すら、もったいない。琢朗にはそのくらい憎々しい男だが、夕希にはまた違うのだろう。
こうなったら観光でもして帰ろうかと思ったが、生憎夕希の心が紛れるような施設はなく、広島駅に戻って、帰りの新幹線に乗るまでの時間潰しに、お好み焼きを食べに行った。焼きそばをサンドイッチして、上手に焼かれたまん丸のお好み焼きの、夕希は半分も食べなくて、残りを琢朗が平らげたのだが。
トンネルを通過中の暗くなった車内で、こっそりと片目を開けてみると、糸井夕希は下唇をぎゅうっと噛みしめて、涙をせき止めてる。
「泣いていいよ」って起きて言うべきか、「あんなやつのために泣くなよ」って言うべきか、逡巡して、琢朗は再びまた瞳を閉じた。
糸井夕希と自分は友達だ。修羅場に同行することは出来ても、彼女の涙を晴らすことは出来ない。
(あんなやつより俺のがずっと…)
その言葉の続きを、未だ本人には伝えかねているけれど。
東京に戻ったのは、夕方だった。お昼前に向こうを出たのに。流石に、広島までのとんぼ返りはキツイ。
「上條くんありがと」
虚ろな目のまま、夕希はぺこりと頭を下げる。
「…気をつけて帰ってね、糸井さん」
こんなありきたりな言葉しか掛けてやれない自分がもどかしい。元々琢朗は、女の子が喜びそうな言葉なんて、言えないタイプだ。
「うん、平気」
「また学校で」
「うん」
多恵子に電話してから帰る…と、琢朗とは反対方向に歩いて行く夕希は、魂の抜け殻みたいに儚く見えた。
学生時代の友人の多恵子は、確か丸の内で働いてる。帰りに会って愚痴でもこぼせば、少しは気が軽くなるのだろうか…。
付き合っていた男に妻子がいた。裏切られたショックに加えて、夕希は知らない間に罪を犯していたことになるのだ。
(うすうす感づいていたとしたって…)
そのショックは計り知れないだろう。
琢朗が家に帰ると、ひとりの女がクローゼットを物色していた。妻気取りで、父の衣服をあれこれ引っ張り出しているのは、池上芙美。父の愛人だ。いつからの付き合いか、琢朗は知らないが、琢朗が中学の時には、この家はもういろいろおかしかった。
父は滅多に帰ってこないし、母は変な宗教に入れあげてしまうし。
父とひとまわり違う彼女は今、四十代に差し掛かるところ。色が白く黒目が大きい。胸とお尻に肉が付き過ぎな気がするが、美人の部類に入るのだろう。琢朗の好みではないけれど。
一緒に暮らしているわけではないが、琢朗の父は今、入院中だ。妻はとっくに他界してるし、琢朗は入院中の父の世話をあれこれやってやる程暇ではないし、やる気もない。
自然、父にいちばん近い他人のこの女が、世話をしてるのだ。
(よりによって…)
苛つきを助長するような彼女の来訪に、琢朗は堂々と舌打ちしてみせる。しかし、女の方も琢朗に遠慮して、すぐに出て行ったりするような真似はしなかった。当たり前だ、こんなことで遠慮するくらいの女なら、不倫なんて続けられまい。
「…琢朗くん、昨日家に帰らなかったでしょ」
人としてもっとも最低なことをしてきた女に、成人もしたっていうのに、そんなことで咎められるのが、更に琢朗の勘に障った。
「親父もしょっちゅう外泊してたぜ。何処にいたかは、あんたのが知ってるんだろうけど」
ダイニングのテーブルの上には、昨日家政婦さんが来て、作っていってくれたらしい煮物と焼き魚。それにお椀とお茶碗がセットされている。これが手付かずだったから、外泊がバレたのか。
冷えきった里芋を指でつまんで口に放り込む。
「やだ。食べない方がいいわよ。今、いちばん食中毒が起きやすい時期なんだから。山田さんも気が利かないわよね。冷蔵庫に入れていってくれたらいいのに」
「…平気だよ」
「ま、私は食べないからいいけど」
琢朗の健康なんて預かり知らないとばかりに無責任に言って、芙美は手にしてた服を紙袋に詰め込む。
「…親父、どうなの? まだ帰ってこれなそうなの?」
父は先日胃の下部に出来た悪性腫瘍を摘出する手術をした。抗癌剤の投与も行っている。あとは――転移がなく、このまま腫瘍マーカーが下がってくれるのを祈るばかりだ。
「…心配なら、自分で病院来たらいいのに」
ふくらんで紙袋の外に出てしまったカーディガンを、ぎゅっぎゅっと押し込んで、芙美は琢朗の要求を突き放す。確かに彼女の言うとおりだ。けれど、琢朗の方にも、それをしたくない出来ない事情はある。
「…その服、母さんが親父にプレゼントしたやつだ」
我ながら性格が悪いと呆れるが、言わずもがななことをわざわざ指摘すると。
「やだ」
と、まるで虫でもついていたかのように、つまみ上げて放り出した。自分が壊した家庭の遺物は気に入らないらしい。所有権はとっくに母の律子から、父に移っているのに。
「でも羽織ものでちょうどいいの、なかったんだよねえ…いいや、途中で買ってこ」
独り言を呟いてから。
「じゃあね、琢朗くん。戸締まりしっかりね」
と、ばたばたと玄関を出て行く。
人のものを奪って平気でいる女。
琢朗は芙美が嫌いだ。芙美も、琢朗に憎まれてることを承知でいる。
父は、あの女と再婚したいらしいが、琢朗が認めないから、していない。
(結婚ってなんなんだろうな…)
父の顔と峰淳弥の顔が、タブって見えた。
「寝ていいよ。上條くん」
夕希は小さな声で言う。きっと眠っててくれた方が、夕希も気が楽なのだろう。怒りで眠気なんて吹っ飛んでいたけれど、琢朗は瞳を閉じた。
しばらくすると、夕希の嗚咽を堪える声が聞こえてくる。…行かない方が良かったのだろうか、広島に。
それにしても…と、琢朗はほんの数時間前の出来事を思い返す。
ある程度のことは想像していたが、峰淳弥は琢朗の想像を遥かに超えるクズっぷりだった。
自分が結婚していることを、交際相手の夕希には黙っていただけではなく、夕希と琢朗が妻子の住む彼の自宅に押しかけると、夕希を会社の事務の子だと、手のひらを返す。
せめて、誠意ある謝罪でも欲しかったのに、彼の口から出たのは、保身のための嘘ばかりだった。
殴り飛ばしたいと血気にはやる琢朗を、夕希は本気で止める。わかってる。暴力で解決する問題なんて、実は多くない。いっとき、スカッとしても、傷害罪とか暴行罪とか、自分の首を締めるだけだ。
琢朗はこの時ほど、弁護士バッチを切望したことはない。
淳弥に別れを告げたあとの夕希は、掛ける言葉に困るくらい、落ち込んでいた。凪いだ瀬戸の海を見つめて、時折ぎゅっと下唇を噛むのは、きっと涙をこらえているのだろう。
(あんなサイテー男、とっとと忘れちまえよ)
あんなやつのためにこぼす涙の一滴すら、もったいない。琢朗にはそのくらい憎々しい男だが、夕希にはまた違うのだろう。
こうなったら観光でもして帰ろうかと思ったが、生憎夕希の心が紛れるような施設はなく、広島駅に戻って、帰りの新幹線に乗るまでの時間潰しに、お好み焼きを食べに行った。焼きそばをサンドイッチして、上手に焼かれたまん丸のお好み焼きの、夕希は半分も食べなくて、残りを琢朗が平らげたのだが。
トンネルを通過中の暗くなった車内で、こっそりと片目を開けてみると、糸井夕希は下唇をぎゅうっと噛みしめて、涙をせき止めてる。
「泣いていいよ」って起きて言うべきか、「あんなやつのために泣くなよ」って言うべきか、逡巡して、琢朗は再びまた瞳を閉じた。
糸井夕希と自分は友達だ。修羅場に同行することは出来ても、彼女の涙を晴らすことは出来ない。
(あんなやつより俺のがずっと…)
その言葉の続きを、未だ本人には伝えかねているけれど。
東京に戻ったのは、夕方だった。お昼前に向こうを出たのに。流石に、広島までのとんぼ返りはキツイ。
「上條くんありがと」
虚ろな目のまま、夕希はぺこりと頭を下げる。
「…気をつけて帰ってね、糸井さん」
こんなありきたりな言葉しか掛けてやれない自分がもどかしい。元々琢朗は、女の子が喜びそうな言葉なんて、言えないタイプだ。
「うん、平気」
「また学校で」
「うん」
多恵子に電話してから帰る…と、琢朗とは反対方向に歩いて行く夕希は、魂の抜け殻みたいに儚く見えた。
学生時代の友人の多恵子は、確か丸の内で働いてる。帰りに会って愚痴でもこぼせば、少しは気が軽くなるのだろうか…。
付き合っていた男に妻子がいた。裏切られたショックに加えて、夕希は知らない間に罪を犯していたことになるのだ。
(うすうす感づいていたとしたって…)
そのショックは計り知れないだろう。
琢朗が家に帰ると、ひとりの女がクローゼットを物色していた。妻気取りで、父の衣服をあれこれ引っ張り出しているのは、池上芙美。父の愛人だ。いつからの付き合いか、琢朗は知らないが、琢朗が中学の時には、この家はもういろいろおかしかった。
父は滅多に帰ってこないし、母は変な宗教に入れあげてしまうし。
父とひとまわり違う彼女は今、四十代に差し掛かるところ。色が白く黒目が大きい。胸とお尻に肉が付き過ぎな気がするが、美人の部類に入るのだろう。琢朗の好みではないけれど。
一緒に暮らしているわけではないが、琢朗の父は今、入院中だ。妻はとっくに他界してるし、琢朗は入院中の父の世話をあれこれやってやる程暇ではないし、やる気もない。
自然、父にいちばん近い他人のこの女が、世話をしてるのだ。
(よりによって…)
苛つきを助長するような彼女の来訪に、琢朗は堂々と舌打ちしてみせる。しかし、女の方も琢朗に遠慮して、すぐに出て行ったりするような真似はしなかった。当たり前だ、こんなことで遠慮するくらいの女なら、不倫なんて続けられまい。
「…琢朗くん、昨日家に帰らなかったでしょ」
人としてもっとも最低なことをしてきた女に、成人もしたっていうのに、そんなことで咎められるのが、更に琢朗の勘に障った。
「親父もしょっちゅう外泊してたぜ。何処にいたかは、あんたのが知ってるんだろうけど」
ダイニングのテーブルの上には、昨日家政婦さんが来て、作っていってくれたらしい煮物と焼き魚。それにお椀とお茶碗がセットされている。これが手付かずだったから、外泊がバレたのか。
冷えきった里芋を指でつまんで口に放り込む。
「やだ。食べない方がいいわよ。今、いちばん食中毒が起きやすい時期なんだから。山田さんも気が利かないわよね。冷蔵庫に入れていってくれたらいいのに」
「…平気だよ」
「ま、私は食べないからいいけど」
琢朗の健康なんて預かり知らないとばかりに無責任に言って、芙美は手にしてた服を紙袋に詰め込む。
「…親父、どうなの? まだ帰ってこれなそうなの?」
父は先日胃の下部に出来た悪性腫瘍を摘出する手術をした。抗癌剤の投与も行っている。あとは――転移がなく、このまま腫瘍マーカーが下がってくれるのを祈るばかりだ。
「…心配なら、自分で病院来たらいいのに」
ふくらんで紙袋の外に出てしまったカーディガンを、ぎゅっぎゅっと押し込んで、芙美は琢朗の要求を突き放す。確かに彼女の言うとおりだ。けれど、琢朗の方にも、それをしたくない出来ない事情はある。
「…その服、母さんが親父にプレゼントしたやつだ」
我ながら性格が悪いと呆れるが、言わずもがななことをわざわざ指摘すると。
「やだ」
と、まるで虫でもついていたかのように、つまみ上げて放り出した。自分が壊した家庭の遺物は気に入らないらしい。所有権はとっくに母の律子から、父に移っているのに。
「でも羽織ものでちょうどいいの、なかったんだよねえ…いいや、途中で買ってこ」
独り言を呟いてから。
「じゃあね、琢朗くん。戸締まりしっかりね」
と、ばたばたと玄関を出て行く。
人のものを奪って平気でいる女。
琢朗は芙美が嫌いだ。芙美も、琢朗に憎まれてることを承知でいる。
父は、あの女と再婚したいらしいが、琢朗が認めないから、していない。
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