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『拝啓、少女の前に座る誰かより。少女の後ろに佇む誰かへ』
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午後の四時半。もう少しで美術館が閉館する。私は一人で絵画を見に来ていた。明治、大正の頃の建築と思われる、洋館風な建物と写実的な絵画たちの親和性の高さがまた如何にもな雰囲気を醸し出している。私は勝手に作者の一人になった気分で一枚一枚の絵画を鑑賞していた。
森の泉に戯れる少女をを描いた幻想的なものから、馬にまたがる騎兵将校、はたまた船乗りが嵐を乗り越える躍動的なものまで、様々な種類の絵画が所狭しと並んでいる。
特に気に入っているのは、風の立ち湧く草原を描いた絵画だ。青空が地平線へ近づくほど薄く白く棚引いて行き、これまた薄く色づいた草原に溶け込む。そして、草原は荒々しく生い茂り、右へ左へ流れる風の流れを描き出している。作者は名前も聞いたことがないくらい無名であるが、ここにいる限り私の中では巨匠である。
館内に閉館まで十五分を告げるアナウンスが流れた。私はそろそろ帰ろうと身を翻し、幾つかの展示コーナーを通り過ぎる。そのとき、私の視界の隅っこの方に不自然なものを確認した。その方へ目を向けると、一枚の裸婦像がスポットライトに照らされていた。
森林を背景に、物の見事な若い娘が一糸も纏わず、後ろ姿を晒して、左足に体を乗せ、小首をやや傾げながら、右斜め上に見返り、右手を花冠を被った頭に添え、左手は後ろ手に腰へ回し、見返る背中にできた肉のひだが、一筋、二筋前へ隠れ、脇の下から覗く乳房が、右乳首が、見えそうで見えない。
はた。と私は立ち止まった。
コツコツ。足音の残響が先へ行った気がした。
いや、これではない。裸婦像自体におかしなものはない。裸婦像を収めている額と壁の隙間だ。隙間に一通の手紙が挟み込まれてある。真っ白な封筒に真っ赤な封蝋の捺されたそれは、美術館の空気に馴染みながらも私を引き留めるだけの奇妙さを持っていた。
私の心臓は、何もしていないのに悪戯を仕込む子供のように早鐘を打つ。どうもあの手紙は私へ向けられたもののような気がしてならない。宛名も差出人も書かれていない手紙であるにも関わらず、私はそう確信した。思わず辺りを見回す。そして、誰もいないことを確認すると、そっと手紙を抜き取った。
やはり、裏も表も変哲のない封筒である。私は封蝋を剥がし、三つ折りにされた便箋を抜いて広げてみた。そこには鉛筆で、
『私は彼女の前にいる』
と走り書きされていた。
「んな馬鹿な」
絵画をまじまじと眺める。そして、口では悪態を吐きながらも、こんな手紙を半ば本気にしている自分に気付かされた。
何をしているのだ私は、と自問してももう遅い。一度芽生えた疑念は、新春に芽吹く若葉のように私の内を瞬く間に覆い尽くす。名前もわからない彼女の輪郭を目で辿り、少しでも彼女の向こうに潜んでいるやも知れない某かの面影に目を凝らした。
が、何も見えるはずもない。元よりこの手紙は誰かの悪戯なのだ。そのようなものに騙されかけた私が恥ずかしい。恥ずかしい筈なのだが、周囲に誰もいないせいか、本当にいないのかどうかもう少しだけ確かめてみたい、という欲求に駈られた。
これはあくまで確認だ、と大義名分をでっち上げ、脳内では無理だと分かっているにも関わらず、裸婦像を右から左から注意深く観察する。案の定何かが見えるわけでもない。背景に見えるのは緑の深い森林であり、それ以外の何物でもない。
俄に、裸婦が脈打った気がした。背景が息衝くのを見た。木々が揺れ動き、葉の擦れる音がする。油絵特有の厚ぼったい筆の跡が消え失せ、瑞々しく透き通った裸婦の肌が浮き出て来た。
何故だか私はこれを受け入れていた。不思議にも不審にも奇妙にも思わずに、さも当たり前のことだと思っていたのだ。今にもこちらを振り向くかもしれない。その、斜めに傾いだ体を艶やかにしならせて、私に目を合わせてくれるかも知れない。
私は完全に飲み込まれていた。これまで、幾枚もの絵画を鑑賞してきた私が、たった一枚の裸婦像に圧倒されていた。誰に、あの九文字がいけない、あの九文字に引きずり込まれたんだと言えよう。だが、それが事実だった。それがなければ私はこの裸婦像を素通りしていたに違いない。この手紙が私を惹き付けたのだ。
して、この手紙の差出人は誰なのであろうか。お世辞にも綺麗とは言えない文字だ。一つ一つのバランスは悪いし、形も歪である。それに、私でも気がつけたくらいには目立つ置き方のされていた訳なのだから、置かれてからそう時間の経っていないことが窺える。
私同様、閉館間際まで残っていた者による仕業だということは容易に想像できる。しかし、このようなことをする意図が読み取れない。私をここまで惹き付けて何をさせたいのだろうか。いや、待つのだ。何もこの手紙は私宛ではないのではないか?
始めの内こそ私宛だと確信していたものの、そう考えてみると途端に自信がなくなってきた。すると、私は誰宛とも知らぬ手紙を勝手に引き抜き、あろうことか中身を盗み見た挙げ句、勝手に裸婦像の虜になったというのか?
実に滑稽な話である。これでは私は道化師ではないか。ハッ! 今にも本当の受取人が来るのではなかろうか。私の持った手紙を指差して、これは私のものだと静かに宣言するのではなかろうか。もしそうなれば、私が見た生ける裸婦像はもう二度と見れなくなってしまうような気がした。それだけではない。裸婦像の向こう側にいる差出人はどうなるのだ? それこそ二度とその面影を探すことすら出来なくなってしまうのでは?
……少し落ち着こう。これはただの裸婦像だ。裸婦の後ろに誰かが描かれている訳がない。描く意味がない。描いたところで表からは見えないのだからな。とはいえ、それがわかっていながら私はここまで執着したのも事実だ。だが、このことはきっぱりと忘れるべきだ。この裸婦像は裸婦像。芸術作品だ。動くわけがない。
私は深呼吸をすると、もう一度裸婦像に向かい合った。手紙を折り畳み、封筒に仕舞う。封だけはどうしようもないのでそのままに、そおっと元の位置に戻した。丁度、閉館五分前を告げるアナウンスが鳴った。私は帰ることにした。
「明日もう一度来て確かめよう」
私は美術館を出た。外は夕焼けの広がる美しい空が広がっていた。
そういえば、あの裸婦像の題名を確認していない。しかし、また明日来るのだから、確認するのはそのときでいいだろう。
◆◇
男が帰ってしばらく後、少し離れた柱の影から一人の老人が現れた。館長である。館長は裸婦像の前までくると、立派な顎髭を幾度かしごいて、戻された手紙を抜き取った。
裸婦像の題名は『拝啓、少女の前に座る誰かより。少女の後ろに佇む誰かへ』。作者は早良義行。館長その人である。この作品は壁と額に挟まった手紙を含めて一つの絵画という珍しい作品であった。
「誰が彼女の前にいるのかは教えてやらんよ。絶対に教えてやらん」
森の泉に戯れる少女をを描いた幻想的なものから、馬にまたがる騎兵将校、はたまた船乗りが嵐を乗り越える躍動的なものまで、様々な種類の絵画が所狭しと並んでいる。
特に気に入っているのは、風の立ち湧く草原を描いた絵画だ。青空が地平線へ近づくほど薄く白く棚引いて行き、これまた薄く色づいた草原に溶け込む。そして、草原は荒々しく生い茂り、右へ左へ流れる風の流れを描き出している。作者は名前も聞いたことがないくらい無名であるが、ここにいる限り私の中では巨匠である。
館内に閉館まで十五分を告げるアナウンスが流れた。私はそろそろ帰ろうと身を翻し、幾つかの展示コーナーを通り過ぎる。そのとき、私の視界の隅っこの方に不自然なものを確認した。その方へ目を向けると、一枚の裸婦像がスポットライトに照らされていた。
森林を背景に、物の見事な若い娘が一糸も纏わず、後ろ姿を晒して、左足に体を乗せ、小首をやや傾げながら、右斜め上に見返り、右手を花冠を被った頭に添え、左手は後ろ手に腰へ回し、見返る背中にできた肉のひだが、一筋、二筋前へ隠れ、脇の下から覗く乳房が、右乳首が、見えそうで見えない。
はた。と私は立ち止まった。
コツコツ。足音の残響が先へ行った気がした。
いや、これではない。裸婦像自体におかしなものはない。裸婦像を収めている額と壁の隙間だ。隙間に一通の手紙が挟み込まれてある。真っ白な封筒に真っ赤な封蝋の捺されたそれは、美術館の空気に馴染みながらも私を引き留めるだけの奇妙さを持っていた。
私の心臓は、何もしていないのに悪戯を仕込む子供のように早鐘を打つ。どうもあの手紙は私へ向けられたもののような気がしてならない。宛名も差出人も書かれていない手紙であるにも関わらず、私はそう確信した。思わず辺りを見回す。そして、誰もいないことを確認すると、そっと手紙を抜き取った。
やはり、裏も表も変哲のない封筒である。私は封蝋を剥がし、三つ折りにされた便箋を抜いて広げてみた。そこには鉛筆で、
『私は彼女の前にいる』
と走り書きされていた。
「んな馬鹿な」
絵画をまじまじと眺める。そして、口では悪態を吐きながらも、こんな手紙を半ば本気にしている自分に気付かされた。
何をしているのだ私は、と自問してももう遅い。一度芽生えた疑念は、新春に芽吹く若葉のように私の内を瞬く間に覆い尽くす。名前もわからない彼女の輪郭を目で辿り、少しでも彼女の向こうに潜んでいるやも知れない某かの面影に目を凝らした。
が、何も見えるはずもない。元よりこの手紙は誰かの悪戯なのだ。そのようなものに騙されかけた私が恥ずかしい。恥ずかしい筈なのだが、周囲に誰もいないせいか、本当にいないのかどうかもう少しだけ確かめてみたい、という欲求に駈られた。
これはあくまで確認だ、と大義名分をでっち上げ、脳内では無理だと分かっているにも関わらず、裸婦像を右から左から注意深く観察する。案の定何かが見えるわけでもない。背景に見えるのは緑の深い森林であり、それ以外の何物でもない。
俄に、裸婦が脈打った気がした。背景が息衝くのを見た。木々が揺れ動き、葉の擦れる音がする。油絵特有の厚ぼったい筆の跡が消え失せ、瑞々しく透き通った裸婦の肌が浮き出て来た。
何故だか私はこれを受け入れていた。不思議にも不審にも奇妙にも思わずに、さも当たり前のことだと思っていたのだ。今にもこちらを振り向くかもしれない。その、斜めに傾いだ体を艶やかにしならせて、私に目を合わせてくれるかも知れない。
私は完全に飲み込まれていた。これまで、幾枚もの絵画を鑑賞してきた私が、たった一枚の裸婦像に圧倒されていた。誰に、あの九文字がいけない、あの九文字に引きずり込まれたんだと言えよう。だが、それが事実だった。それがなければ私はこの裸婦像を素通りしていたに違いない。この手紙が私を惹き付けたのだ。
して、この手紙の差出人は誰なのであろうか。お世辞にも綺麗とは言えない文字だ。一つ一つのバランスは悪いし、形も歪である。それに、私でも気がつけたくらいには目立つ置き方のされていた訳なのだから、置かれてからそう時間の経っていないことが窺える。
私同様、閉館間際まで残っていた者による仕業だということは容易に想像できる。しかし、このようなことをする意図が読み取れない。私をここまで惹き付けて何をさせたいのだろうか。いや、待つのだ。何もこの手紙は私宛ではないのではないか?
始めの内こそ私宛だと確信していたものの、そう考えてみると途端に自信がなくなってきた。すると、私は誰宛とも知らぬ手紙を勝手に引き抜き、あろうことか中身を盗み見た挙げ句、勝手に裸婦像の虜になったというのか?
実に滑稽な話である。これでは私は道化師ではないか。ハッ! 今にも本当の受取人が来るのではなかろうか。私の持った手紙を指差して、これは私のものだと静かに宣言するのではなかろうか。もしそうなれば、私が見た生ける裸婦像はもう二度と見れなくなってしまうような気がした。それだけではない。裸婦像の向こう側にいる差出人はどうなるのだ? それこそ二度とその面影を探すことすら出来なくなってしまうのでは?
……少し落ち着こう。これはただの裸婦像だ。裸婦の後ろに誰かが描かれている訳がない。描く意味がない。描いたところで表からは見えないのだからな。とはいえ、それがわかっていながら私はここまで執着したのも事実だ。だが、このことはきっぱりと忘れるべきだ。この裸婦像は裸婦像。芸術作品だ。動くわけがない。
私は深呼吸をすると、もう一度裸婦像に向かい合った。手紙を折り畳み、封筒に仕舞う。封だけはどうしようもないのでそのままに、そおっと元の位置に戻した。丁度、閉館五分前を告げるアナウンスが鳴った。私は帰ることにした。
「明日もう一度来て確かめよう」
私は美術館を出た。外は夕焼けの広がる美しい空が広がっていた。
そういえば、あの裸婦像の題名を確認していない。しかし、また明日来るのだから、確認するのはそのときでいいだろう。
◆◇
男が帰ってしばらく後、少し離れた柱の影から一人の老人が現れた。館長である。館長は裸婦像の前までくると、立派な顎髭を幾度かしごいて、戻された手紙を抜き取った。
裸婦像の題名は『拝啓、少女の前に座る誰かより。少女の後ろに佇む誰かへ』。作者は早良義行。館長その人である。この作品は壁と額に挟まった手紙を含めて一つの絵画という珍しい作品であった。
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