【完結】Reste, mon étoile. −君にもう一度会いたくて−

豊川夢久

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23話

炎が夜空を赤く染め、パチパチと薪が弾ける音が響いていた。
夜の空気は少し冷たくて、でも炎のぬくもりが頬を温める。
輪になって歌うクラスメイトたちの声も、遠くで打ち上がる花火の音も、全部が文化祭の終わりを告げる合図みたいだった。

僕は梓真の隣で、目を細めながら炎を見つめた。
横顔が、炎の光でやわらかく照らされている。
お化け屋敷で笑っていたときよりも静かで、けれど確かに楽しんでいるような表情。
──こんな顔、去年は見られなかったんだろうな。

去年は参加しなかったって言ってたけど、何かあったのかな。
用事だったのか、それとも……。
善人の話では、生徒は基本みんな参加するらしいし、ちょっと気になったけど──

……まあ、今はどうでもいい。

今こうして、一緒に見ていられるんだから。

そっと、隣にある梓真の指先に自分の指を重ねる。
ひくり、と反応した指先。
でも、離れようとはしなかった。
──それだけで、胸の奥が少し熱くなる。

「アズサ」
名前を呼ぶと、梓真がわずかに顔を向ける。
炎の赤が、瞳に映っていた。

「……ナンデモナイ」
ロロは首を振り、口元だけがほんの少し緩んだ。
その笑みが、炎の揺らめきよりも眩しく見えた。

──その瞬間。
火が弾けたのに驚いた生徒たちが、ワッと下がってくるのに押されるように、暗がりで見えなかった木の根に足を取られ、僕はよろけてしまう。

「……っ!」

とっさに支えたのは当然のことながら梓真だった。
腕を掴まれた衝撃よりも、すぐに「歩けるか?」と低く聞かれたことの方が、僕の胸を熱くする。

「ダイジョ……あっ、イタイ」
軽く笑ってごまかそうとしたものの、右足を着くと痛みが走る。

「……そろそろ終わりだろ。寮まで送る」
そう言って、梓真は自然に僕の腕を肩に回した。
肩幅の広い背中に支えられながら歩くうち、僕の視線は何度も東雲の横顔に向いていた。

(……コレ、ウレシイ)
火の粉が遠くで舞っていた。
夜の風は少し冷たかったけれど、隣の体温はやけに近くて、足の痛みさえ忘れそうになっていた。

「Ça va… ça ne fait presque pas mal.」
(平気、ほとんど痛くないよ)

本当は少し痛むのに、そう言ってしまう。

でも「気にすんな」と言うのに、素直に従ったのは、ただこうして触れていたかったから。


学校の外に出ると、梓真が目の前でしゃがみ込んで、背中を向けた。

「乗れよ。……階段もあるだろ」

ためらいながらも腕を回すと、がっしりとした肩に支えられる。
想像よりずっと広くて、温かい。

「ちゃんと捕まってろよ。落ちたら困るだろ」

胸の前に腕をまわさせるように促されて、僕はそっと首に腕を回した。
──広くて、温かい。
柔軟剤とシャンプーの匂い、首筋の体温、汗の匂い。
息をするたびに胸が熱くなる。

「……ごめんね」
思わずこぼれた声は、かすかに震えていた。
背中越しに伝わる心音まで聞こえそうで、怖いくらい。

「俺のが悪い。ちゃんと支えてやれなかったから。」
耳もとに落ちる低い声に、ロロの心臓が跳ねた。

──やっぱり、梓真が好きだ。


寮に着き、ベッドに下ろしてもらった瞬間、梓真のシャツはしっとり汗で濡れていた。

「……アセ、たくさん……ごめん」
「いい。……慣れてる」

立ち上がろうとした梓真の服に、僕の指が引っかかった。
慌てて手を離そうとしたけれど、胸の奥がざわつく。

──このまま、行かないで。

「あ、あの……よかったら……お茶でも飲んでく? アツい、でしょ」

言った瞬間、心臓がどくんと跳ねた。
変なことを言ったかも──そう思ったそのとき。

「…………なら、ちょっとだけ」

梓真は動きを止め、そのままベッド脇に腰を下ろした。
濡れたシャツの裾を軽く引っ張り、額の汗をぬぐう。

──帰らないんだ。

それだけで胸が熱くなる。
すぐそこにある梓真の気配が、怖いくらい近い。

水を入れた紙コップを手にして、僕は身を乗り出した。
その瞬間、力の入らない足がふらりと崩れる。

「──っ!」

支えてくれた腕に抱き留められる。
目の前に、梓真の顔。

心臓が止まりそうになる。
キスできる距離で、視線が絡まった。

数秒だけ、梓真は目をそらさなかった。
そして、ふいっと顔を背ける。

「……気をつけろよな」

耳の先が、ほんのり赤い。

「……Je suis désolé」
(……ごめんね)

そっと体を離しながらつぶやくと、梓真は小さくこめかみをかいた。

「……いい、気にすんな」

そう言いながら、くしゃりと髪を撫でられる。

その手の温もりも、水を飲む姿も、
ここにいる梓真のすべてが愛しくて。
遠いと思っていた彼が、今はこんなに近い。

「Je peux toucher ta main ?」
(手、触っていい?)

ずっと、ずっと触りたかった。
あの時も、本当は触ってみたかったんだ。

そっと差し出された手に、緊張に震えながらも触れる。

僕の手よりも、一回り大きくて長い指先。
男の人らしく、皮が分厚くて、弾力のある感触。
昔は手だけ大きい気がしたけど、今は身長に見合った大きさに思えた。

この指が、あの音を奏でていたんだ──。

“世界で1番簡単で、1番難しい楽器”
そう評されるのは、本当だと思った。
あの時、アズサが弾いてくれたピアノの音が、いちばん胸に届いた。
いろんな人の曲も、CDを出すようなすごい人のだって聴いた。

──上手だなって思ったけど、それだけだった。

そして、こんな大きな手に似合わない、小さなハート型のアザ。
親指の付け根あたりにあるそれは、忘れようと思っても、忘れられなかった。

初めて会った人の手を見るようになった。
絶対に違うと思う人でも、そっと手を盗み見てしまうのは、ずっと探していたからだ。

あれから、二度と会えなかった彼を──
もしかしたら、あの広場にまた来るかも。
この道を通るかも。

そう思って、帰り道に通ってみたり、休みの日に行ってみたりもした。
だけど、僕はアズサに会えなかった。

「C’est de naissance, cette tache ?」
(これは、生まれつき?)

僕がずっと探していたハート型のアザに、指先でそっと触れる。
盛り上がったりするようなものじゃなく、シミのようにそこだけ色が違っている痕。

ん、と短く声が漏れ、頷く気配──

やっぱり、あの時のアズサは君だったんだ。

そう思う気持ちが、溢れ出しそうになる。
きっと僕が日本に来て、君に会えたのは、運命だった。
1人で勝手に舞い上がってしまった。

だから、僕は──きっと受け入れられると思って。

距離感を、完全に間違えてしまったんだ。



「ねぇ、梓真は……フランスでピアノ弾いてたこと…あるよね…?」

その瞬間──空気がきしむように重くなった気がした。
耳の奥で自分の鼓動だけがやけに大きく響く。
わずかな距離しか離れていないはずなのに、梓真が遠くへ引き離されたように感じられる。

驚きに目を見開いた梓真の視線が、まっすぐこちらに突き刺さる。
肩がびくりと跳ね、息が浅くなる。
それまで穏やかに流れていた時間が、ぴたりと止まったようだった。

どうして──そんな顔をするの。
何がいけなかったの。
僕、変なこと言ってないよね。
胸の奥で、ぐらぐらと不安が揺れる。
さっきまで笑ってくれていたのに、どうして急にこんな冷たい目になるのか、理解できない。

窓の外で鳴く虫の声まで、やけに鮮明に聞こえる。
蛍光灯の白い光が、梓真の横顔に冷たく落ちていた。
さっきまでそこにあった体温まで、ひゅうっと消えてしまったみたいだ。

さっきまで柔らかく笑っていた瞳から、ふっと光が抜け落ちる。
表情が、すっと無音で閉ざされていく。
胸の奥に冷たいものが落ち、そこから広がる重さに、思わず指先が震えた。

「…………」

返事はない。
けれど、その沈黙が答えのように思えてしまう。
まるで目の前で、重い鉄のシャッターが音もなく降りていくのを見ているみたいだった。

「……お前の勘違いだろ」

短く切り捨てられる声。
立ち上がる梓真の背中が、さっきまでよりずっと遠く感じられる。

「え……でも、僕、アズサに会ったことが──」
「……ない」

静かに、けれど確かに拒絶するように。
喉の奥で言葉が固まり、どうしてもそれ以上続けられない。

「水、ありがとな。……おやすみ」

そのまま背を向け、歩き出す。
伸ばしかけた指先は、宙を掻くように力なく落ちた。

引き止める言葉なんて出てこなかった。
目の奥が熱くなるのに、声はもう出ない。
どんな言葉を掛けても、梓真には届かない──そう思ってしまったから。

扉が静かに閉まる音だけが、部屋に残る。

梓真がいなくなって、僕は絶望に襲われていた。

──僕は、完全に間違えてしまったんだ。

(何がいけなかったのかは分からない。けれど、怒らせてしまったのは本当だ。明日、何て言って謝ろう。許してくれるかな。また、いつもみたいに笑ってくれるかな……)

胸の奥がざわつき、息が落ち着かない。
失敗した場面ばかりが、何度も何度も頭の中で巻き戻される。
考えれば考えるほど、背中を押すどころか、足元をすくわれるような不安が膨らんでいった。

そんなソワソワした状態で、眠りは一向に訪れてくれそうになかった。
ベッドに横たわり、暗い天井を見つめる。

「……Pardon, Azusa……」
(……ごめんね、梓真……)

小さくつぶやいた声は、自分の耳にしか届かない。
静まり返った部屋に、寮の外の虫の音だけが響いていた。

──昨日の言葉は、忘れてよ。

そう願っても、眠気は訪れなかった。
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