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29話
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「……それは、あいつがフランスに来て四年目ぐらいのことだった」
月島は少し間を置き、低い声で続けた。
「ある大きなコンテストの日、坂田瑛人の母親が、瑛人の靴に画鋲が入れられていた。そのせいで足が傷ついたと“大騒ぎ”したんだ」
当時も嫌がらせは珍しくなかったが、舞台に立つ前の事故は見過ごせなかった。
“母親が“すぐに瑛人の手当をし、同時に運営による犯人探しが始まった。
「……もっとも、そこにいたほとんどのやつは、あれは母親がやったんだと思ってたよ。やけに芝居がかってたからな」
だが、月島はそこで言葉を切り、苦い吐息を漏らした。
「楽屋の出入りを確認したところ、アリバイの無い人物として、東雲の名前が浮上した。」
他の出場者は家族や友人、ピアノの先生などが付き添っていたが、あいにく東雲には誰もいなかった。
──誰も、東雲のアリバイを証明してくれる奴がいなかったんだ。
「だがな、問題は……瑛人だ」
三年間、互いの部屋を行き来して夜遅くまで練習し合い、
休日には街に出かけ、ピアノ以外の話もした無二の友人。
東雲にとって、唯一“信じてくれる”と疑わなかった相手だった。
「でも瑛人は、東雲を庇わなかった」
月島の声は淡々としているのに、その奥に刺すような鋭さがあった。
「あいつは、目を合わせもしなかった。“こいつは違う”って一言も言わなかった」
証拠がなく、ほとんどのやつが母親の芝居だと分かっていても──
それは友人と慕い、切磋琢磨してきたはずの瑛人が口を開かなかった瞬間に、東雲の中で何かが音を立てて崩れた。
──どうして?
──何で?
たくさんの大人たちに囲まれ、詰められる東雲の背は、誰よりも小さく見えた。
でも、それでも頑なにやったとは認めない東雲。
怪我をさせられたと引かない坂田の母の姿に、大会運営者も頭を悩ませたのだろう。
「一応はグレーってことで大会には出られることになったが……」
月島は小さく首を振る。
「そんな状態で平常心でいられるかよ」
「壇上に上がったあいつは、“いつもの顔”じゃなかった」
月島の声が、わずかに苦くなる。
鍵盤の前に座った東雲は、観客席を一度も見なかった。
目は伏せられ、呼吸が浅い。
譜面台には、いつもなら置かない楽譜が立てられていた。
「……鍵盤に指を置いた瞬間から、指が一本も動かなかった」
会場の時計の針の音すら聞こえそうな沈黙。
客席からは「どうした?」という囁きが波紋のように広がっていく。
それでも、東雲は動かない。
額に汗が滲み、肩がわずかに震える。
まるで、目の前の88鍵が見知らぬ装置に変わってしまったかのように。
──そして、演奏をしないまま壇上を降りていくことになる。
その瞬間、会場は拍手もなく、ただ冷たい空気だけが残った。
月島は拳を握り、ゆっくりと開く仕草をした。
「後から東雲が言ってたよ。指が動かなかった、って」
俺は喉の奥が詰まるのを感じた。
それはただの可哀想な出来事なんかじゃない。
“東雲梓真”という存在が、あの瞬間、何かを失った証のように思えた。
「結局、あいつの記録は棄権扱いになって、坂田瑛人は――完璧な演奏をした。」
月島の声は平板だったが、その奥には皮肉が滲んでいた。
「足……血が出るぐらいの大怪我したんですよね?」
田中が確認すると、月島は短く頷く。
「まぁな。全部出し切ったんじゃないか、とは思うよ。もっとも、怪我の具合を見たのも“母親”だけで、運営もきちんと確認できなかったと言っていたからな。そんな瑛人の結果は3位。そんな微妙な順位じゃ誰もそれ以上、騒ぎ立てる必要ないだろ。だから結局、誰が犯人だったかは有耶無耶になった。」
乾いた笑みが、月島の口端にだけ浮かんだ。
「でも東雲は、あの日を境にフランスを去ることになる。一家を支えていた父親が急逝してな。生活のために、帰国せざるを得なかったんだ」
田中は言葉を失った。ただ、手元のカップから立ちのぼる湯気を、ぼんやりと目で追うことしかできない。
「……ピアノをやめた理由は、それだったんですね」
「そうだな」
短く答えたあと、月島は少し間を置き、唇の端を指先でトントンと叩いた。
「最後にあいつと会った時……ここに目が行ったよ。あいつ、昔からよく下唇の左あたりを噛む癖があった。ミスしたときや、悔しいときにな。……帰国するとき、そこにピアスが開いてた」
「……」
「驚いたよ。なんでそんなところにって聞いたら、“噛まなくて済むように”って言ってた。……だが、本当は逆だ。あいつは忘れたくなかったんだろうよ。“あの日”と、“あの痛み”を」
田中の胸に、じくじくとした棘のようなものが刺さっていた。
ロロが“優しかった”と語ったアズサと、学校で見せる冷たい東雲――。
その二つの姿の間に横たわっているのは、想像よりもずっと大きく、深い傷跡だった。
触れただけで血が滲みそうなほどの。
月島は少し間を置き、低い声で続けた。
「ある大きなコンテストの日、坂田瑛人の母親が、瑛人の靴に画鋲が入れられていた。そのせいで足が傷ついたと“大騒ぎ”したんだ」
当時も嫌がらせは珍しくなかったが、舞台に立つ前の事故は見過ごせなかった。
“母親が“すぐに瑛人の手当をし、同時に運営による犯人探しが始まった。
「……もっとも、そこにいたほとんどのやつは、あれは母親がやったんだと思ってたよ。やけに芝居がかってたからな」
だが、月島はそこで言葉を切り、苦い吐息を漏らした。
「楽屋の出入りを確認したところ、アリバイの無い人物として、東雲の名前が浮上した。」
他の出場者は家族や友人、ピアノの先生などが付き添っていたが、あいにく東雲には誰もいなかった。
──誰も、東雲のアリバイを証明してくれる奴がいなかったんだ。
「だがな、問題は……瑛人だ」
三年間、互いの部屋を行き来して夜遅くまで練習し合い、
休日には街に出かけ、ピアノ以外の話もした無二の友人。
東雲にとって、唯一“信じてくれる”と疑わなかった相手だった。
「でも瑛人は、東雲を庇わなかった」
月島の声は淡々としているのに、その奥に刺すような鋭さがあった。
「あいつは、目を合わせもしなかった。“こいつは違う”って一言も言わなかった」
証拠がなく、ほとんどのやつが母親の芝居だと分かっていても──
それは友人と慕い、切磋琢磨してきたはずの瑛人が口を開かなかった瞬間に、東雲の中で何かが音を立てて崩れた。
──どうして?
──何で?
たくさんの大人たちに囲まれ、詰められる東雲の背は、誰よりも小さく見えた。
でも、それでも頑なにやったとは認めない東雲。
怪我をさせられたと引かない坂田の母の姿に、大会運営者も頭を悩ませたのだろう。
「一応はグレーってことで大会には出られることになったが……」
月島は小さく首を振る。
「そんな状態で平常心でいられるかよ」
「壇上に上がったあいつは、“いつもの顔”じゃなかった」
月島の声が、わずかに苦くなる。
鍵盤の前に座った東雲は、観客席を一度も見なかった。
目は伏せられ、呼吸が浅い。
譜面台には、いつもなら置かない楽譜が立てられていた。
「……鍵盤に指を置いた瞬間から、指が一本も動かなかった」
会場の時計の針の音すら聞こえそうな沈黙。
客席からは「どうした?」という囁きが波紋のように広がっていく。
それでも、東雲は動かない。
額に汗が滲み、肩がわずかに震える。
まるで、目の前の88鍵が見知らぬ装置に変わってしまったかのように。
──そして、演奏をしないまま壇上を降りていくことになる。
その瞬間、会場は拍手もなく、ただ冷たい空気だけが残った。
月島は拳を握り、ゆっくりと開く仕草をした。
「後から東雲が言ってたよ。指が動かなかった、って」
俺は喉の奥が詰まるのを感じた。
それはただの可哀想な出来事なんかじゃない。
“東雲梓真”という存在が、あの瞬間、何かを失った証のように思えた。
「結局、あいつの記録は棄権扱いになって、坂田瑛人は――完璧な演奏をした。」
月島の声は平板だったが、その奥には皮肉が滲んでいた。
「足……血が出るぐらいの大怪我したんですよね?」
田中が確認すると、月島は短く頷く。
「まぁな。全部出し切ったんじゃないか、とは思うよ。もっとも、怪我の具合を見たのも“母親”だけで、運営もきちんと確認できなかったと言っていたからな。そんな瑛人の結果は3位。そんな微妙な順位じゃ誰もそれ以上、騒ぎ立てる必要ないだろ。だから結局、誰が犯人だったかは有耶無耶になった。」
乾いた笑みが、月島の口端にだけ浮かんだ。
「でも東雲は、あの日を境にフランスを去ることになる。一家を支えていた父親が急逝してな。生活のために、帰国せざるを得なかったんだ」
田中は言葉を失った。ただ、手元のカップから立ちのぼる湯気を、ぼんやりと目で追うことしかできない。
「……ピアノをやめた理由は、それだったんですね」
「そうだな」
短く答えたあと、月島は少し間を置き、唇の端を指先でトントンと叩いた。
「最後にあいつと会った時……ここに目が行ったよ。あいつ、昔からよく下唇の左あたりを噛む癖があった。ミスしたときや、悔しいときにな。……帰国するとき、そこにピアスが開いてた」
「……」
「驚いたよ。なんでそんなところにって聞いたら、“噛まなくて済むように”って言ってた。……だが、本当は逆だ。あいつは忘れたくなかったんだろうよ。“あの日”と、“あの痛み”を」
田中の胸に、じくじくとした棘のようなものが刺さっていた。
ロロが“優しかった”と語ったアズサと、学校で見せる冷たい東雲――。
その二つの姿の間に横たわっているのは、想像よりもずっと大きく、深い傷跡だった。
触れただけで血が滲みそうなほどの。
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