36 / 46
35話
しおりを挟む
ロロが動いたのは、二時間目の音楽の時間だった。
いつも東雲が姿を消す時間。
「どこ行くんだよ」と声をかけると、ロロは振り返らずに言った。
「アズサ、あう」
それだけを残して、音楽室とは反対の廊下へ歩き出す。
ずっと不思議だった。
どうして梓真は、いつも音楽の授業を休むんだろうって。
僕からしたら楽な時間だ。
勉強しなくてもいいし、机に突っ伏して寝ていたっていい。
それなのに、どうしてなんだろうって。
……ピアノの音がするからなんだなって、思った。
鍵盤の上を流れる音は、授業のざわめきよりもずっと鮮やかで、
きっと彼にとっては耐えられないんだ。
弾けなくなった指先に、あの日の音を思い出させてしまうから。
それだけ──梓真にとってピアノは、今でも決意を鈍らせる脅威でしかないんだろう、って。
────
ロロは振り返らない。
まっすぐに、ズンズンと廊下を進んでいく。
その背中を追いながら、俺は行き先も分からないまま階段を上った。
「こんなとこ…あるの知らなかった」
思わず漏らした俺の言葉に、ロロが小さく笑う。
「アズサ、ぼく、おしえて、くれた」
その声には、確信が混じっていた。
ここに来れば、きっと東雲に会える──そう信じて疑っていない声だった。
たどり着いた先は──屋上だった。
鉄製のドアがきしむたびに、古い蝶番が鈍く悲鳴を上げる。
押し開けた瞬間、冷たい風が正面からぶつかってきて、制服の裾を容赦なく揺らした。
夏の名残を含んだ空気に混ざって、どこか錆びの匂いがする。
ここが、東雲が逃げ込むための“最後の砦”。
視界の端に、背中をこちらに向けた人影があった。
手すりのそばに立ち、風に髪を揺らしながら空を見上げている──東雲だ。
無防備な背中なのに、近づく前から刺すような視線を向けられた気がした。
「……お前に教えるんじゃなかったな」
くぐもった声。自嘲の色を含んで、風にさらわれそうに低く響く。
「何だよ」
こっちを振り向き、短く促すように東雲が言った。
目は合わない。けれど、肩越しに放たれる空気は、鋭い棘を含んでいる。
ロロは一歩、また一歩と距離を詰めた。
その瞳には怯えも逡巡もなく、ただ真っ直ぐな光だけが宿っている。
「Azusa」
名前を呼ぶ声は、冬の湖面みたいに澄んでいて、張りつめた空気を一瞬で震わせた。
「Arrête de fuir.」
(もう逃げるのはやめろ)
その一言に、東雲の眉がわずかに動いた。
表情は変わらないのに、その反応だけでロロの言葉を押し返す。
まるで、その黒い瞳の奥に隠された古傷を、無理やりこじ開けようとしているみたいだった。
沈黙が落ちる。
遠くで運動場から聞こえる掛け声と、旗のロープがカンカンと柱に当たる音だけが、やけに鮮明に響いていた。
ロロはその音すら遮るように、低く、噛みしめるように続ける。
「僕は──梓真のピアノを、守る」
その言葉が落ちた瞬間、風の音がやけに遠く感じられた。
屋上の広さなんてたかが知れているのに、二人の間には何十メートルもの距離が横たわっているようだった。
ロロの声は、怒鳴りでも泣きでもなく、淡々としていた。
けれど、その奥底にある感情は、耳に触れるよりも先に、肌に刺さるような熱を持って届いてくる。
東雲の肩が、ほんのわずかに揺れた。
風が制服の裾を大きくはためかせても、その肩は落ちず、顔も変わらない。
ただ、手すりに置いた指先が、かすかに力を込めたのが見えた。
沈黙が降りた。
体育館から漏れてくるブラスバンドの練習音が、かすれた風に乗って流れてくる。
錆びついたフェンスがきしみ、どこかでカラスが一声鳴いた。
それでも、二人の間に漂う空気は一切動かない。
──東雲は答えなかった。
その沈黙は、拒絶のようでもあり、言葉を選んでいるようでもあった。
ただひとつ分かったのは、今この瞬間も、彼がピアノから目を逸らし続けているということだ。
ロロは視線を逸らさないまま、その沈黙を受け止めていた。
彼の足元には影が伸び、東雲の影とほんの少しだけ交わっている。
まるで、そのわずかな接点だけが、二人をつなぎとめている細い糸のように見えた。
いつも東雲が姿を消す時間。
「どこ行くんだよ」と声をかけると、ロロは振り返らずに言った。
「アズサ、あう」
それだけを残して、音楽室とは反対の廊下へ歩き出す。
ずっと不思議だった。
どうして梓真は、いつも音楽の授業を休むんだろうって。
僕からしたら楽な時間だ。
勉強しなくてもいいし、机に突っ伏して寝ていたっていい。
それなのに、どうしてなんだろうって。
……ピアノの音がするからなんだなって、思った。
鍵盤の上を流れる音は、授業のざわめきよりもずっと鮮やかで、
きっと彼にとっては耐えられないんだ。
弾けなくなった指先に、あの日の音を思い出させてしまうから。
それだけ──梓真にとってピアノは、今でも決意を鈍らせる脅威でしかないんだろう、って。
────
ロロは振り返らない。
まっすぐに、ズンズンと廊下を進んでいく。
その背中を追いながら、俺は行き先も分からないまま階段を上った。
「こんなとこ…あるの知らなかった」
思わず漏らした俺の言葉に、ロロが小さく笑う。
「アズサ、ぼく、おしえて、くれた」
その声には、確信が混じっていた。
ここに来れば、きっと東雲に会える──そう信じて疑っていない声だった。
たどり着いた先は──屋上だった。
鉄製のドアがきしむたびに、古い蝶番が鈍く悲鳴を上げる。
押し開けた瞬間、冷たい風が正面からぶつかってきて、制服の裾を容赦なく揺らした。
夏の名残を含んだ空気に混ざって、どこか錆びの匂いがする。
ここが、東雲が逃げ込むための“最後の砦”。
視界の端に、背中をこちらに向けた人影があった。
手すりのそばに立ち、風に髪を揺らしながら空を見上げている──東雲だ。
無防備な背中なのに、近づく前から刺すような視線を向けられた気がした。
「……お前に教えるんじゃなかったな」
くぐもった声。自嘲の色を含んで、風にさらわれそうに低く響く。
「何だよ」
こっちを振り向き、短く促すように東雲が言った。
目は合わない。けれど、肩越しに放たれる空気は、鋭い棘を含んでいる。
ロロは一歩、また一歩と距離を詰めた。
その瞳には怯えも逡巡もなく、ただ真っ直ぐな光だけが宿っている。
「Azusa」
名前を呼ぶ声は、冬の湖面みたいに澄んでいて、張りつめた空気を一瞬で震わせた。
「Arrête de fuir.」
(もう逃げるのはやめろ)
その一言に、東雲の眉がわずかに動いた。
表情は変わらないのに、その反応だけでロロの言葉を押し返す。
まるで、その黒い瞳の奥に隠された古傷を、無理やりこじ開けようとしているみたいだった。
沈黙が落ちる。
遠くで運動場から聞こえる掛け声と、旗のロープがカンカンと柱に当たる音だけが、やけに鮮明に響いていた。
ロロはその音すら遮るように、低く、噛みしめるように続ける。
「僕は──梓真のピアノを、守る」
その言葉が落ちた瞬間、風の音がやけに遠く感じられた。
屋上の広さなんてたかが知れているのに、二人の間には何十メートルもの距離が横たわっているようだった。
ロロの声は、怒鳴りでも泣きでもなく、淡々としていた。
けれど、その奥底にある感情は、耳に触れるよりも先に、肌に刺さるような熱を持って届いてくる。
東雲の肩が、ほんのわずかに揺れた。
風が制服の裾を大きくはためかせても、その肩は落ちず、顔も変わらない。
ただ、手すりに置いた指先が、かすかに力を込めたのが見えた。
沈黙が降りた。
体育館から漏れてくるブラスバンドの練習音が、かすれた風に乗って流れてくる。
錆びついたフェンスがきしみ、どこかでカラスが一声鳴いた。
それでも、二人の間に漂う空気は一切動かない。
──東雲は答えなかった。
その沈黙は、拒絶のようでもあり、言葉を選んでいるようでもあった。
ただひとつ分かったのは、今この瞬間も、彼がピアノから目を逸らし続けているということだ。
ロロは視線を逸らさないまま、その沈黙を受け止めていた。
彼の足元には影が伸び、東雲の影とほんの少しだけ交わっている。
まるで、そのわずかな接点だけが、二人をつなぎとめている細い糸のように見えた。
0
あなたにおすすめの小説
悪役令息ですが破滅回避で主人公を無視したら、高潔な態度だと勘違いされて聖人認定。なぜか溺愛ルートに入りました
水凪しおん
BL
BL小説『銀の瞳の聖者』の悪役令息ルシアンに転生してしまった俺。
原作通りなら、主人公ノエルをいじめ抜き、最後は断罪されて野垂れ死ぬ運命だ。
「そんなの絶対にお断りだ! 俺は平和に長生きしたい!」
破滅フラグを回避するため、俺は決意した。
主人公ノエルを徹底的に避け、関わらず、空気のように生きることを。
しかし、俺の「無視」や「無関心」は、なぜかノエルにポジティブに変換されていく。
「他の人のように欲望の目で見ないなんて、なんて高潔な方なんだ……!」
いじめっ子を視線だけで追い払えば「影から守ってくれた」、雨の日に「臭いから近寄るな」と上着を投げつければ「不器用な優しさ」!?
全力で嫌われようとすればするほど、主人公からの好感度が爆上がりして、聖人認定されてしまう勘違いラブコメディ!
小心者の悪役令息×健気なポジティブ主人公の、すれ違い溺愛ファンタジー、ここに開幕!
【完結】男の後輩に告白されたオレと、様子のおかしくなった幼なじみの話
須宮りんこ
BL
【あらすじ】
高校三年生の椿叶太には女子からモテまくりの幼なじみ・五十嵐青がいる。
二人は顔を合わせば絡む仲ではあるものの、叶太にとって青は生意気な幼なじみでしかない。
そんなある日、叶太は北村という一つ下の後輩・北村から告白される。
青いわく友達目線で見ても北村はいい奴らしい。しかも青とは違い、素直で礼儀正しい北村に叶太は好感を持つ。北村の希望もあって、まずは普通の先輩後輩として付き合いをはじめることに。
けれど叶太が北村に告白されたことを知った青の様子が、その日からおかしくなって――?
※本編完結済み。後日談連載中。
アプリで元カノを気にしなくなるくらい魅力的になろうとした結果、彼氏がフリーズしました
あと
BL
「目指せ!!魅力的な彼氏!!」
誰にでも優しいように見えて重い…?攻め×天然な受け
⚠️攻めの元カノが出て来ます。
⚠️強い執着・ストーカー的表現があります。
⚠️細かいことが気になる人には向いてません。
合わないと感じた方は自衛をお願いします。
受けは、恋人が元カノと同級生と過去の付き合いについて話している場面に出くわしてしまう。失意の中、人生相談アプリの存在を知る。実は、なぜか苗字呼び、家に入れてもらえない、手を出さないといった不思議がある。こうして、元カノなんか気にしなくなるほど魅力的になろうとするための受けの戦いが始まった…。
攻め:進藤郁也
受け:天野翔
※誤字脱字・表現の修正はサイレントで行う場合があります。
※タグは定期的に整理します。
※批判・中傷コメントはご遠慮ください。
完結|好きから一番遠いはずだった
七角
BL
大学生の石田陽は、石ころみたいな自分に自信がない。酒の力を借りて恋愛のきっかけをつかもうと意気込む。
しかしサークル歴代最高イケメン・星川叶斗が邪魔してくる。恋愛なんて簡単そうなこの後輩、ずるいし、好きじゃない。
なのにあれこれ世話を焼かれる。いや利用されてるだけだ。恋愛相手として最も遠い後輩に、勘違いしない。
…はずだった。
【完結】言えない言葉
未希かずは(Miki)
BL
双子の弟・水瀬碧依は、明るい兄・翼と比べられ、自信がない引っ込み思案な大学生。
同じゼミの気さくで眩しい如月大和に密かに恋するが、話しかける勇気はない。
ある日、碧依は兄になりすまし、本屋のバイトで大和に近づく大胆な計画を立てる。
兄の笑顔で大和と心を通わせる碧依だが、嘘の自分に葛藤し……。
すれ違いを経て本当の想いを伝える、切なく甘い青春BLストーリー。
第1回青春BLカップ参加作品です。
1章 「出会い」が長くなってしまったので、前後編に分けました。
2章、3章も長くなってしまって、分けました。碧依の恋心を丁寧に書き直しました。(2025/9/2 18:40)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる