【完結】Reste, mon étoile. −君にもう一度会いたくて−

豊川夢久

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35話

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ロロが動いたのは、二時間目の音楽の時間だった。
いつも東雲が姿を消す時間。

「どこ行くんだよ」と声をかけると、ロロは振り返らずに言った。
「アズサ、あう」
それだけを残して、音楽室とは反対の廊下へ歩き出す。

ずっと不思議だった。
どうして梓真は、いつも音楽の授業を休むんだろうって。
僕からしたら楽な時間だ。
勉強しなくてもいいし、机に突っ伏して寝ていたっていい。
それなのに、どうしてなんだろうって。

……ピアノの音がするからなんだなって、思った。
鍵盤の上を流れる音は、授業のざわめきよりもずっと鮮やかで、
きっと彼にとっては耐えられないんだ。
弾けなくなった指先に、あの日の音を思い出させてしまうから。

それだけ──梓真にとってピアノは、今でも決意を鈍らせる脅威でしかないんだろう、って。

────

ロロは振り返らない。
まっすぐに、ズンズンと廊下を進んでいく。
その背中を追いながら、俺は行き先も分からないまま階段を上った。

「こんなとこ…あるの知らなかった」
思わず漏らした俺の言葉に、ロロが小さく笑う。
「アズサ、ぼく、おしえて、くれた」

その声には、確信が混じっていた。
ここに来れば、きっと東雲に会える──そう信じて疑っていない声だった。

たどり着いた先は──屋上だった。

鉄製のドアがきしむたびに、古い蝶番が鈍く悲鳴を上げる。
押し開けた瞬間、冷たい風が正面からぶつかってきて、制服の裾を容赦なく揺らした。
夏の名残を含んだ空気に混ざって、どこか錆びの匂いがする。

ここが、東雲が逃げ込むための“最後の砦”。

視界の端に、背中をこちらに向けた人影があった。
手すりのそばに立ち、風に髪を揺らしながら空を見上げている──東雲だ。
無防備な背中なのに、近づく前から刺すような視線を向けられた気がした。

「……お前に教えるんじゃなかったな」
くぐもった声。自嘲の色を含んで、風にさらわれそうに低く響く。

「何だよ」
こっちを振り向き、短く促すように東雲が言った。
目は合わない。けれど、肩越しに放たれる空気は、鋭い棘を含んでいる。

ロロは一歩、また一歩と距離を詰めた。
その瞳には怯えも逡巡もなく、ただ真っ直ぐな光だけが宿っている。

「Azusa」
名前を呼ぶ声は、冬の湖面みたいに澄んでいて、張りつめた空気を一瞬で震わせた。

「Arrête de fuir.」
(もう逃げるのはやめろ)

その一言に、東雲の眉がわずかに動いた。
表情は変わらないのに、その反応だけでロロの言葉を押し返す。
まるで、その黒い瞳の奥に隠された古傷を、無理やりこじ開けようとしているみたいだった。

沈黙が落ちる。
遠くで運動場から聞こえる掛け声と、旗のロープがカンカンと柱に当たる音だけが、やけに鮮明に響いていた。
ロロはその音すら遮るように、低く、噛みしめるように続ける。

「僕は──梓真のピアノを、守る」
その言葉が落ちた瞬間、風の音がやけに遠く感じられた。
屋上の広さなんてたかが知れているのに、二人の間には何十メートルもの距離が横たわっているようだった。

ロロの声は、怒鳴りでも泣きでもなく、淡々としていた。
けれど、その奥底にある感情は、耳に触れるよりも先に、肌に刺さるような熱を持って届いてくる。

東雲の肩が、ほんのわずかに揺れた。
風が制服の裾を大きくはためかせても、その肩は落ちず、顔も変わらない。
ただ、手すりに置いた指先が、かすかに力を込めたのが見えた。

沈黙が降りた。
体育館から漏れてくるブラスバンドの練習音が、かすれた風に乗って流れてくる。
錆びついたフェンスがきしみ、どこかでカラスが一声鳴いた。
それでも、二人の間に漂う空気は一切動かない。

──東雲は答えなかった。

その沈黙は、拒絶のようでもあり、言葉を選んでいるようでもあった。
ただひとつ分かったのは、今この瞬間も、彼がピアノから目を逸らし続けているということだ。

ロロは視線を逸らさないまま、その沈黙を受け止めていた。
彼の足元には影が伸び、東雲の影とほんの少しだけ交わっている。
まるで、そのわずかな接点だけが、二人をつなぎとめている細い糸のように見えた。
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