【完結】Reste, mon étoile. −君にもう一度会いたくて−

豊川夢久

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39話

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気づけば、空は夕暮れの色に染まっていた。
校舎の窓はひとつ、またひとつと闇に沈み、遠くから吹奏楽部のトランペットが、切れ切れに風に乗って届く。
それ以外は、ボールが跳ねる音や掛け声が、薄く広がるだけだった。

長く座り込んで固まった体を、ゆっくりと起こす。
肩や背中がぎしりと軋んだ。

今日の夜も、バイトに行かなきゃいけない。
だけど、足が重い。
地面に吸い付かれたみたいに、一歩を出すたびに躊躇してしまう。


不自然に三つ並んでいた机は、今は間を空けて置かれ、そこにあった形の痕跡すら残っていない。
まるで、最初からそんな配置は存在しなかったかのように。

──俺が、壊したんだ。

カチリ、と小さく音がして、唇の端がきゅっと痛んだ。
あの日以来封じてきた癖が、いつの間にか戻ってきていることに、苦笑がこぼれる。

ふと、左隣の椅子を引く音が耳に届いた気がした。
そこには、金色の髪をさらりと揺らし、小さく笑うロロの姿。
反対側の席には、腕を組んだ田中がいて──「お前、遅いんだよ」と軽口を叩く声までが鮮やかによみがえる。

そんな二人に引っ張られるように、面倒くさそうな顔をしながら真ん中の席に腰を下ろす自分までが、ありありと浮かび上がった。

鼻をスンと啜り、視界のにじみを乱暴に振り払う。
そして踵を返し、そのまま教室を後にした。



父は、いわゆる大企業勤めだった。
家は豪邸というわけじゃないが──それでも、フランス留学を願った息子に「無理だ」とは言わず、叶えてくれるだけの余裕を持っていた。

母は専業主婦。もともと体が強くなく、弟が生まれてからはますます体調を崩す日が増えた。
それでも、「子どもの夢だから」と笑って背中を押してくれた。

俺は、十分すぎるほど夢を追わせてもらった。
これ以上を望むのは、きっと間違いだ。

俺がしてもらった分は、弟にも同じように返したい。
そう思った瞬間、早く大人にならなきゃと焦り始めた。

高卒の肩書ひとつあるかないかで、将来は大きく変わる。
親父のように大企業に入れる自信はなかったけれど、それでも──自分にできることは全部やりたかった。


夜に働けて、そこそこ時給がいいとなると──必然的に選択肢は限られてくる。
学生でも入れる夜勤バイトといえば、コンビニか飲食か、工事現場。

中でも工事現場は、寒さや重労働はあるが、そのぶん時給が段違いだった。
昼間は学校、夜は現場。
眠る時間を削ってでも、少しでも早く金を貯めたかった。

何も考えたくない日に限って、割り振られるのは暇な車両の交通整理だった。
アスファルトが吸い込んだ太陽の名残。
じわじわと足元から上がってくる熱に、立っているだけで汗が背中を伝う。
動きもなければ話す相手もいない。
目の前を時折通る車を、ただ機械的に見送るだけの時間が過ぎていく。

黙っていると、勝手にいらないことばかりが頭に浮かんでくる。
そして──気づけば、ロロの言葉が耳の奥で蘇っていた。

「Je t’ai cherché ! Parce que j’aimais le piano que tu jouais !」
(僕は君を探してたんだ!君の奏でるピアノが好きだったから!)

「Cette statue n’a jamais été ton ami !!」
(石の像は、君の友達なんかじゃなかったんだよ!!)

遮るもののない空の下、ロロの声だけが鮮明に響いて、胸の奥をかき混ぜていく。

あの時、ロロの瞳からこぼれ落ちた涙に、胸が張り裂けそうになった。
それでも、「もう弾かない」と決めたはずだった。

──なのに、どうしてだ。
胸の奥で、消えたはずの旋律が、また息を吹き返していく。




…そのまま家に帰ると、押し入れが少しだけ開いていた。
古びた毛布や季節外れの扇風機の奥に、色あせた箱が見える。

引き寄せてふたを開けると、そこにあったのは──
小さな頃、父に買ってもらったおもちゃのピアノだった。

黄ばんだ鍵盤。
指でなぞれば、あの頃の感触と、夢中で叩いた日々の音が蘇る。

ゆっくりと、その上に指を置く。
ほんの少しだけ、押してみようと力を込め──

“Je croyais avoir un ami, mais c’était une statue.”
(友達だと思っていたけど、あいつは石の像だった)

自分の声が、耳の奥で鮮やかに響いた瞬間、指先から力が抜ける。
音は生まれず、代わりに熱いものが目に溜まり、視界が滲んだ。

──音が出ないのが怖かった。
自分には、もう音を鳴らせない気がして。

息を殺し、そっと鍵盤を押し込む。

ポロン──。

…鳴った。

一瞬、心臓が跳ねる。
怖さが溶け、胸の奥からじんわりと温かさが広がっていく。

当然だろ。
誰でも等しく押せば鳴る。それがピアノなんだから──。

そう、頭ではわかってる。
でも、理屈じゃない。
今、指先から伝わった震えは、音のせいだ。
──それも、ただの音じゃない。


──弾きたい。


その一言が、胸の奥にぽとりと落ちる。
波紋のように広がって、身体の隅々まで熱くしていく。

何年も押し込めていた感情が、堰を切ったみたいにあふれ出す。
指先が、黄ばんだ鍵盤を求めるように震えて──

気づけば、落ちた涙が鍵盤を濡らしていた。
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