40 / 46
39話
しおりを挟む
気づけば、空は夕暮れの色に染まっていた。
校舎の窓はひとつ、またひとつと闇に沈み、遠くから吹奏楽部のトランペットが、切れ切れに風に乗って届く。
それ以外は、ボールが跳ねる音や掛け声が、薄く広がるだけだった。
長く座り込んで固まった体を、ゆっくりと起こす。
肩や背中がぎしりと軋んだ。
今日の夜も、バイトに行かなきゃいけない。
だけど、足が重い。
地面に吸い付かれたみたいに、一歩を出すたびに躊躇してしまう。
不自然に三つ並んでいた机は、今は間を空けて置かれ、そこにあった形の痕跡すら残っていない。
まるで、最初からそんな配置は存在しなかったかのように。
──俺が、壊したんだ。
カチリ、と小さく音がして、唇の端がきゅっと痛んだ。
あの日以来封じてきた癖が、いつの間にか戻ってきていることに、苦笑がこぼれる。
ふと、左隣の椅子を引く音が耳に届いた気がした。
そこには、金色の髪をさらりと揺らし、小さく笑うロロの姿。
反対側の席には、腕を組んだ田中がいて──「お前、遅いんだよ」と軽口を叩く声までが鮮やかによみがえる。
そんな二人に引っ張られるように、面倒くさそうな顔をしながら真ん中の席に腰を下ろす自分までが、ありありと浮かび上がった。
鼻をスンと啜り、視界のにじみを乱暴に振り払う。
そして踵を返し、そのまま教室を後にした。
父は、いわゆる大企業勤めだった。
家は豪邸というわけじゃないが──それでも、フランス留学を願った息子に「無理だ」とは言わず、叶えてくれるだけの余裕を持っていた。
母は専業主婦。もともと体が強くなく、弟が生まれてからはますます体調を崩す日が増えた。
それでも、「子どもの夢だから」と笑って背中を押してくれた。
俺は、十分すぎるほど夢を追わせてもらった。
これ以上を望むのは、きっと間違いだ。
俺がしてもらった分は、弟にも同じように返したい。
そう思った瞬間、早く大人にならなきゃと焦り始めた。
高卒の肩書ひとつあるかないかで、将来は大きく変わる。
親父のように大企業に入れる自信はなかったけれど、それでも──自分にできることは全部やりたかった。
夜に働けて、そこそこ時給がいいとなると──必然的に選択肢は限られてくる。
学生でも入れる夜勤バイトといえば、コンビニか飲食か、工事現場。
中でも工事現場は、寒さや重労働はあるが、そのぶん時給が段違いだった。
昼間は学校、夜は現場。
眠る時間を削ってでも、少しでも早く金を貯めたかった。
何も考えたくない日に限って、割り振られるのは暇な車両の交通整理だった。
アスファルトが吸い込んだ太陽の名残。
じわじわと足元から上がってくる熱に、立っているだけで汗が背中を伝う。
動きもなければ話す相手もいない。
目の前を時折通る車を、ただ機械的に見送るだけの時間が過ぎていく。
黙っていると、勝手にいらないことばかりが頭に浮かんでくる。
そして──気づけば、ロロの言葉が耳の奥で蘇っていた。
「Je t’ai cherché ! Parce que j’aimais le piano que tu jouais !」
(僕は君を探してたんだ!君の奏でるピアノが好きだったから!)
「Cette statue n’a jamais été ton ami !!」
(石の像は、君の友達なんかじゃなかったんだよ!!)
遮るもののない空の下、ロロの声だけが鮮明に響いて、胸の奥をかき混ぜていく。
あの時、ロロの瞳からこぼれ落ちた涙に、胸が張り裂けそうになった。
それでも、「もう弾かない」と決めたはずだった。
──なのに、どうしてだ。
胸の奥で、消えたはずの旋律が、また息を吹き返していく。
…そのまま家に帰ると、押し入れが少しだけ開いていた。
古びた毛布や季節外れの扇風機の奥に、色あせた箱が見える。
引き寄せてふたを開けると、そこにあったのは──
小さな頃、父に買ってもらったおもちゃのピアノだった。
黄ばんだ鍵盤。
指でなぞれば、あの頃の感触と、夢中で叩いた日々の音が蘇る。
ゆっくりと、その上に指を置く。
ほんの少しだけ、押してみようと力を込め──
“Je croyais avoir un ami, mais c’était une statue.”
(友達だと思っていたけど、あいつは石の像だった)
自分の声が、耳の奥で鮮やかに響いた瞬間、指先から力が抜ける。
音は生まれず、代わりに熱いものが目に溜まり、視界が滲んだ。
──音が出ないのが怖かった。
自分には、もう音を鳴らせない気がして。
息を殺し、そっと鍵盤を押し込む。
ポロン──。
…鳴った。
一瞬、心臓が跳ねる。
怖さが溶け、胸の奥からじんわりと温かさが広がっていく。
当然だろ。
誰でも等しく押せば鳴る。それがピアノなんだから──。
そう、頭ではわかってる。
でも、理屈じゃない。
今、指先から伝わった震えは、音のせいだ。
──それも、ただの音じゃない。
──弾きたい。
その一言が、胸の奥にぽとりと落ちる。
波紋のように広がって、身体の隅々まで熱くしていく。
何年も押し込めていた感情が、堰を切ったみたいにあふれ出す。
指先が、黄ばんだ鍵盤を求めるように震えて──
気づけば、落ちた涙が鍵盤を濡らしていた。
校舎の窓はひとつ、またひとつと闇に沈み、遠くから吹奏楽部のトランペットが、切れ切れに風に乗って届く。
それ以外は、ボールが跳ねる音や掛け声が、薄く広がるだけだった。
長く座り込んで固まった体を、ゆっくりと起こす。
肩や背中がぎしりと軋んだ。
今日の夜も、バイトに行かなきゃいけない。
だけど、足が重い。
地面に吸い付かれたみたいに、一歩を出すたびに躊躇してしまう。
不自然に三つ並んでいた机は、今は間を空けて置かれ、そこにあった形の痕跡すら残っていない。
まるで、最初からそんな配置は存在しなかったかのように。
──俺が、壊したんだ。
カチリ、と小さく音がして、唇の端がきゅっと痛んだ。
あの日以来封じてきた癖が、いつの間にか戻ってきていることに、苦笑がこぼれる。
ふと、左隣の椅子を引く音が耳に届いた気がした。
そこには、金色の髪をさらりと揺らし、小さく笑うロロの姿。
反対側の席には、腕を組んだ田中がいて──「お前、遅いんだよ」と軽口を叩く声までが鮮やかによみがえる。
そんな二人に引っ張られるように、面倒くさそうな顔をしながら真ん中の席に腰を下ろす自分までが、ありありと浮かび上がった。
鼻をスンと啜り、視界のにじみを乱暴に振り払う。
そして踵を返し、そのまま教室を後にした。
父は、いわゆる大企業勤めだった。
家は豪邸というわけじゃないが──それでも、フランス留学を願った息子に「無理だ」とは言わず、叶えてくれるだけの余裕を持っていた。
母は専業主婦。もともと体が強くなく、弟が生まれてからはますます体調を崩す日が増えた。
それでも、「子どもの夢だから」と笑って背中を押してくれた。
俺は、十分すぎるほど夢を追わせてもらった。
これ以上を望むのは、きっと間違いだ。
俺がしてもらった分は、弟にも同じように返したい。
そう思った瞬間、早く大人にならなきゃと焦り始めた。
高卒の肩書ひとつあるかないかで、将来は大きく変わる。
親父のように大企業に入れる自信はなかったけれど、それでも──自分にできることは全部やりたかった。
夜に働けて、そこそこ時給がいいとなると──必然的に選択肢は限られてくる。
学生でも入れる夜勤バイトといえば、コンビニか飲食か、工事現場。
中でも工事現場は、寒さや重労働はあるが、そのぶん時給が段違いだった。
昼間は学校、夜は現場。
眠る時間を削ってでも、少しでも早く金を貯めたかった。
何も考えたくない日に限って、割り振られるのは暇な車両の交通整理だった。
アスファルトが吸い込んだ太陽の名残。
じわじわと足元から上がってくる熱に、立っているだけで汗が背中を伝う。
動きもなければ話す相手もいない。
目の前を時折通る車を、ただ機械的に見送るだけの時間が過ぎていく。
黙っていると、勝手にいらないことばかりが頭に浮かんでくる。
そして──気づけば、ロロの言葉が耳の奥で蘇っていた。
「Je t’ai cherché ! Parce que j’aimais le piano que tu jouais !」
(僕は君を探してたんだ!君の奏でるピアノが好きだったから!)
「Cette statue n’a jamais été ton ami !!」
(石の像は、君の友達なんかじゃなかったんだよ!!)
遮るもののない空の下、ロロの声だけが鮮明に響いて、胸の奥をかき混ぜていく。
あの時、ロロの瞳からこぼれ落ちた涙に、胸が張り裂けそうになった。
それでも、「もう弾かない」と決めたはずだった。
──なのに、どうしてだ。
胸の奥で、消えたはずの旋律が、また息を吹き返していく。
…そのまま家に帰ると、押し入れが少しだけ開いていた。
古びた毛布や季節外れの扇風機の奥に、色あせた箱が見える。
引き寄せてふたを開けると、そこにあったのは──
小さな頃、父に買ってもらったおもちゃのピアノだった。
黄ばんだ鍵盤。
指でなぞれば、あの頃の感触と、夢中で叩いた日々の音が蘇る。
ゆっくりと、その上に指を置く。
ほんの少しだけ、押してみようと力を込め──
“Je croyais avoir un ami, mais c’était une statue.”
(友達だと思っていたけど、あいつは石の像だった)
自分の声が、耳の奥で鮮やかに響いた瞬間、指先から力が抜ける。
音は生まれず、代わりに熱いものが目に溜まり、視界が滲んだ。
──音が出ないのが怖かった。
自分には、もう音を鳴らせない気がして。
息を殺し、そっと鍵盤を押し込む。
ポロン──。
…鳴った。
一瞬、心臓が跳ねる。
怖さが溶け、胸の奥からじんわりと温かさが広がっていく。
当然だろ。
誰でも等しく押せば鳴る。それがピアノなんだから──。
そう、頭ではわかってる。
でも、理屈じゃない。
今、指先から伝わった震えは、音のせいだ。
──それも、ただの音じゃない。
──弾きたい。
その一言が、胸の奥にぽとりと落ちる。
波紋のように広がって、身体の隅々まで熱くしていく。
何年も押し込めていた感情が、堰を切ったみたいにあふれ出す。
指先が、黄ばんだ鍵盤を求めるように震えて──
気づけば、落ちた涙が鍵盤を濡らしていた。
0
あなたにおすすめの小説
悪役令息ですが破滅回避で主人公を無視したら、高潔な態度だと勘違いされて聖人認定。なぜか溺愛ルートに入りました
水凪しおん
BL
BL小説『銀の瞳の聖者』の悪役令息ルシアンに転生してしまった俺。
原作通りなら、主人公ノエルをいじめ抜き、最後は断罪されて野垂れ死ぬ運命だ。
「そんなの絶対にお断りだ! 俺は平和に長生きしたい!」
破滅フラグを回避するため、俺は決意した。
主人公ノエルを徹底的に避け、関わらず、空気のように生きることを。
しかし、俺の「無視」や「無関心」は、なぜかノエルにポジティブに変換されていく。
「他の人のように欲望の目で見ないなんて、なんて高潔な方なんだ……!」
いじめっ子を視線だけで追い払えば「影から守ってくれた」、雨の日に「臭いから近寄るな」と上着を投げつければ「不器用な優しさ」!?
全力で嫌われようとすればするほど、主人公からの好感度が爆上がりして、聖人認定されてしまう勘違いラブコメディ!
小心者の悪役令息×健気なポジティブ主人公の、すれ違い溺愛ファンタジー、ここに開幕!
【完結】男の後輩に告白されたオレと、様子のおかしくなった幼なじみの話
須宮りんこ
BL
【あらすじ】
高校三年生の椿叶太には女子からモテまくりの幼なじみ・五十嵐青がいる。
二人は顔を合わせば絡む仲ではあるものの、叶太にとって青は生意気な幼なじみでしかない。
そんなある日、叶太は北村という一つ下の後輩・北村から告白される。
青いわく友達目線で見ても北村はいい奴らしい。しかも青とは違い、素直で礼儀正しい北村に叶太は好感を持つ。北村の希望もあって、まずは普通の先輩後輩として付き合いをはじめることに。
けれど叶太が北村に告白されたことを知った青の様子が、その日からおかしくなって――?
※本編完結済み。後日談連載中。
完結|好きから一番遠いはずだった
七角
BL
大学生の石田陽は、石ころみたいな自分に自信がない。酒の力を借りて恋愛のきっかけをつかもうと意気込む。
しかしサークル歴代最高イケメン・星川叶斗が邪魔してくる。恋愛なんて簡単そうなこの後輩、ずるいし、好きじゃない。
なのにあれこれ世話を焼かれる。いや利用されてるだけだ。恋愛相手として最も遠い後輩に、勘違いしない。
…はずだった。
【完結】言えない言葉
未希かずは(Miki)
BL
双子の弟・水瀬碧依は、明るい兄・翼と比べられ、自信がない引っ込み思案な大学生。
同じゼミの気さくで眩しい如月大和に密かに恋するが、話しかける勇気はない。
ある日、碧依は兄になりすまし、本屋のバイトで大和に近づく大胆な計画を立てる。
兄の笑顔で大和と心を通わせる碧依だが、嘘の自分に葛藤し……。
すれ違いを経て本当の想いを伝える、切なく甘い青春BLストーリー。
第1回青春BLカップ参加作品です。
1章 「出会い」が長くなってしまったので、前後編に分けました。
2章、3章も長くなってしまって、分けました。碧依の恋心を丁寧に書き直しました。(2025/9/2 18:40)
アプリで元カノを気にしなくなるくらい魅力的になろうとした結果、彼氏がフリーズしました
あと
BL
「目指せ!!魅力的な彼氏!!」
誰にでも優しいように見えて重い…?攻め×天然な受け
⚠️攻めの元カノが出て来ます。
⚠️強い執着・ストーカー的表現があります。
⚠️細かいことが気になる人には向いてません。
合わないと感じた方は自衛をお願いします。
受けは、恋人が元カノと同級生と過去の付き合いについて話している場面に出くわしてしまう。失意の中、人生相談アプリの存在を知る。実は、なぜか苗字呼び、家に入れてもらえない、手を出さないといった不思議がある。こうして、元カノなんか気にしなくなるほど魅力的になろうとするための受けの戦いが始まった…。
攻め:進藤郁也
受け:天野翔
※誤字脱字・表現の修正はサイレントで行う場合があります。
※タグは定期的に整理します。
※批判・中傷コメントはご遠慮ください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる