【完結】Reste, mon étoile. −君にもう一度会いたくて−

豊川夢久

文字の大きさ
39 / 46

38話

しおりを挟む
欄干に額を押し付けたまま、目を閉じる。
思い出すのは──あの日。

楽屋にいると、遠くで騒ぎが起きた。
坂田瑛人の母親が叫んでいた。
息子の靴に画鋲が入れられ、怪我をしたのだと。
「犯人を探してくれ」ではなく、「探せ」と。

──瑛人は大丈夫なのか。
ペダルを踏めないほどの怪我なら、演奏に支障が出る。
心配して瑛人の楽屋へ向かうと──

──アズサ、君だけアリバイがないんだ。
──本当は君がやったんじゃない?

さっきまで「頑張れ」と肩を叩いてくれた人たちが、同じ口で俺を疑ってきた。
父は仕事、母は体調不良と弟の世話で、誰も俺に付き添ってくれない。
フランスに来てから、そんな環境が当たり前だった。

そんな中でできた、初めての友達。瑛人。
何でも話せる親友だと、信じていた。
「アズサがそんなことするはずない」と言ってくれると、信じていた。

なのに──瑛人は母親の背に隠れるようにして、ただ黙っていた。

あぁ、俺が友達だと思っていたのは、石の像だったんだ。

胸の奥が急に寒くなった。
曲の旋律が、頭からごっそり消えていく。
必死に譜面を目で追っても、紙の上の黒い点は音に変わらなかった。

そして迎えたコンテスト本番。
鍵盤の前に立っても、指は宙で震えるばかりだった。
触れるだけで音が鳴る楽器なのに──一音も出せなかった。

夜。
楽屋に置きっぱなしにしたカバンを抱えて下宿に戻ると、薄暗い部屋の空気はひどく冷たかった。
鳴り続けていた着信音が途切れ、代わりに留守電のランプが点滅している。震える指で再生すると、母の声が溢れた。

「……あずさ……お父さん……死んじゃった……」

耳の奥で、言葉が何度も反響した。
意味が頭に入らない。ただ、母が泣きながら「ごめん…ごめんね…」と繰り返すたび、その音だけが現実になって胸の奥に沈んでいく。

瑛人も失った。
父も失った。

気づけば息が浅くなる。
外では冷たい風が窓を叩き、下宿の灯りを揺らしている。
その揺れに合わせて、足元が崩れていくようだった。

──俺には、もうやり直せるチャンスはない。
そう思った瞬間、口の中に鉄の味が広がった。噛み締めすぎた唇から、じわりと血が滲んでいた。

鏡の中に、見慣れない自分が立っている。
目はどこか焦点が合っておらず、唇の端には暗い赤。

このままじゃ帰れない。
母さんに心配される前に、隠さなきゃ。

気づけば駅前のドラッグストアに向かっていた。以前から見かけていた陳列棚。耳用のピアッサーの隣に、小さなニードルのパックがあったことを思い出す。

「消毒用アルコールと、ニードル……ありますか」

カウンター越しに差し出された袋が、手の中でカチャリと鳴った。
その音が妙に大きく響いた。

部屋に戻り、鏡の前に立つ。

アルコールで唇の端を拭うと、冷たさよりも虚しさの方が先に沁みた。
これをやれば、本当に終わる──心のどこかでそう分かっていた。

でも、終わらせたかった。
いや、終わらせるしかない。

息を止め、一気に押し込む。
鋭い痛みと、鉄の匂い。
赤い雫が唇を伝い、鏡の中でひと筋、線を描いた。

その傷口を隠すように──ピアスを開けた。

もう誰にも裏切られたくない。
もう、あんな思いは二度とごめんだ。


ピアスを開けた日。
俺はピアノを弾いていた記憶ごと、全部を封じた。
後ろを見ないように、ただ前だけを見て歩くために。

…そのはずだった。

ロロの言葉を聞いた瞬間、胸の奥の硬い蓋がカタリと音を立てた気がした。
閉じ込めたはずの旋律が、かすかに漏れ出す。
それを掴もうとすると、すぐに指の隙間から零れ落ちてしまう。

──弾きたい。

そう思った途端、慌てて首を振った。
もう弾かないと決めたじゃないか。
二度と、舞台には戻らないと。

でも──それでも──。

あの日、途切れたと思っていた旋律が、胸の奥でじわりと目を覚ます。
指先に、鍵盤の冷たさと重さがよみがえる。
それは冬の朝の空気みたいに澄んでいて、息を吸うたび、もっと深く入り込んでくる。

忘れたはずの音が、鼓動と同じリズムで、静かに、確かに響きはじめていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

悪役令息ですが破滅回避で主人公を無視したら、高潔な態度だと勘違いされて聖人認定。なぜか溺愛ルートに入りました

水凪しおん
BL
BL小説『銀の瞳の聖者』の悪役令息ルシアンに転生してしまった俺。 原作通りなら、主人公ノエルをいじめ抜き、最後は断罪されて野垂れ死ぬ運命だ。 「そんなの絶対にお断りだ! 俺は平和に長生きしたい!」 破滅フラグを回避するため、俺は決意した。 主人公ノエルを徹底的に避け、関わらず、空気のように生きることを。 しかし、俺の「無視」や「無関心」は、なぜかノエルにポジティブに変換されていく。 「他の人のように欲望の目で見ないなんて、なんて高潔な方なんだ……!」 いじめっ子を視線だけで追い払えば「影から守ってくれた」、雨の日に「臭いから近寄るな」と上着を投げつければ「不器用な優しさ」!? 全力で嫌われようとすればするほど、主人公からの好感度が爆上がりして、聖人認定されてしまう勘違いラブコメディ! 小心者の悪役令息×健気なポジティブ主人公の、すれ違い溺愛ファンタジー、ここに開幕!

聖獣召喚に巻き込まれた俺、モフモフの通訳をしてたら冷徹騎士団長に外堀を埋められました

たら昆布
BL
完璧っぽいエリート騎士×無自覚な愛され系

【完結】男の後輩に告白されたオレと、様子のおかしくなった幼なじみの話

須宮りんこ
BL
【あらすじ】 高校三年生の椿叶太には女子からモテまくりの幼なじみ・五十嵐青がいる。 二人は顔を合わせば絡む仲ではあるものの、叶太にとって青は生意気な幼なじみでしかない。 そんなある日、叶太は北村という一つ下の後輩・北村から告白される。 青いわく友達目線で見ても北村はいい奴らしい。しかも青とは違い、素直で礼儀正しい北村に叶太は好感を持つ。北村の希望もあって、まずは普通の先輩後輩として付き合いをはじめることに。 けれど叶太が北村に告白されたことを知った青の様子が、その日からおかしくなって――? ※本編完結済み。後日談連載中。

アプリで元カノを気にしなくなるくらい魅力的になろうとした結果、彼氏がフリーズしました

あと
BL
「目指せ!!魅力的な彼氏!!」 誰にでも優しいように見えて重い…?攻め×天然な受け ⚠️攻めの元カノが出て来ます。 ⚠️強い執着・ストーカー的表現があります。 ⚠️細かいことが気になる人には向いてません。 合わないと感じた方は自衛をお願いします。 受けは、恋人が元カノと同級生と過去の付き合いについて話している場面に出くわしてしまう。失意の中、人生相談アプリの存在を知る。実は、なぜか苗字呼び、家に入れてもらえない、手を出さないといった不思議がある。こうして、元カノなんか気にしなくなるほど魅力的になろうとするための受けの戦いが始まった…。 攻め:進藤郁也 受け:天野翔 ※誤字脱字・表現の修正はサイレントで行う場合があります。 ※タグは定期的に整理します。 ※批判・中傷コメントはご遠慮ください。

完結|好きから一番遠いはずだった

七角
BL
大学生の石田陽は、石ころみたいな自分に自信がない。酒の力を借りて恋愛のきっかけをつかもうと意気込む。 しかしサークル歴代最高イケメン・星川叶斗が邪魔してくる。恋愛なんて簡単そうなこの後輩、ずるいし、好きじゃない。 なのにあれこれ世話を焼かれる。いや利用されてるだけだ。恋愛相手として最も遠い後輩に、勘違いしない。 …はずだった。

【完結】言えない言葉

未希かずは(Miki)
BL
 双子の弟・水瀬碧依は、明るい兄・翼と比べられ、自信がない引っ込み思案な大学生。  同じゼミの気さくで眩しい如月大和に密かに恋するが、話しかける勇気はない。  ある日、碧依は兄になりすまし、本屋のバイトで大和に近づく大胆な計画を立てる。  兄の笑顔で大和と心を通わせる碧依だが、嘘の自分に葛藤し……。  すれ違いを経て本当の想いを伝える、切なく甘い青春BLストーリー。 第1回青春BLカップ参加作品です。 1章 「出会い」が長くなってしまったので、前後編に分けました。 2章、3章も長くなってしまって、分けました。碧依の恋心を丁寧に書き直しました。(2025/9/2 18:40)

無愛想な氷の貴公子は臆病な僕だけを逃さない~十年の片想いが溶かされるまで~

たら昆布
BL
執着ヤンデレ攻め×一途受け

処理中です...