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38話
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欄干に額を押し付けたまま、目を閉じる。
思い出すのは──あの日。
楽屋にいると、遠くで騒ぎが起きた。
坂田瑛人の母親が叫んでいた。
息子の靴に画鋲が入れられ、怪我をしたのだと。
「犯人を探してくれ」ではなく、「探せ」と。
──瑛人は大丈夫なのか。
ペダルを踏めないほどの怪我なら、演奏に支障が出る。
心配して瑛人の楽屋へ向かうと──
──アズサ、君だけアリバイがないんだ。
──本当は君がやったんじゃない?
さっきまで「頑張れ」と肩を叩いてくれた人たちが、同じ口で俺を疑ってきた。
父は仕事、母は体調不良と弟の世話で、誰も俺に付き添ってくれない。
フランスに来てから、そんな環境が当たり前だった。
そんな中でできた、初めての友達。瑛人。
何でも話せる親友だと、信じていた。
「アズサがそんなことするはずない」と言ってくれると、信じていた。
なのに──瑛人は母親の背に隠れるようにして、ただ黙っていた。
あぁ、俺が友達だと思っていたのは、石の像だったんだ。
胸の奥が急に寒くなった。
曲の旋律が、頭からごっそり消えていく。
必死に譜面を目で追っても、紙の上の黒い点は音に変わらなかった。
そして迎えたコンテスト本番。
鍵盤の前に立っても、指は宙で震えるばかりだった。
触れるだけで音が鳴る楽器なのに──一音も出せなかった。
夜。
楽屋に置きっぱなしにしたカバンを抱えて下宿に戻ると、薄暗い部屋の空気はひどく冷たかった。
鳴り続けていた着信音が途切れ、代わりに留守電のランプが点滅している。震える指で再生すると、母の声が溢れた。
「……あずさ……お父さん……死んじゃった……」
耳の奥で、言葉が何度も反響した。
意味が頭に入らない。ただ、母が泣きながら「ごめん…ごめんね…」と繰り返すたび、その音だけが現実になって胸の奥に沈んでいく。
瑛人も失った。
父も失った。
気づけば息が浅くなる。
外では冷たい風が窓を叩き、下宿の灯りを揺らしている。
その揺れに合わせて、足元が崩れていくようだった。
──俺には、もうやり直せるチャンスはない。
そう思った瞬間、口の中に鉄の味が広がった。噛み締めすぎた唇から、じわりと血が滲んでいた。
鏡の中に、見慣れない自分が立っている。
目はどこか焦点が合っておらず、唇の端には暗い赤。
このままじゃ帰れない。
母さんに心配される前に、隠さなきゃ。
気づけば駅前のドラッグストアに向かっていた。以前から見かけていた陳列棚。耳用のピアッサーの隣に、小さなニードルのパックがあったことを思い出す。
「消毒用アルコールと、ニードル……ありますか」
カウンター越しに差し出された袋が、手の中でカチャリと鳴った。
その音が妙に大きく響いた。
部屋に戻り、鏡の前に立つ。
アルコールで唇の端を拭うと、冷たさよりも虚しさの方が先に沁みた。
これをやれば、本当に終わる──心のどこかでそう分かっていた。
でも、終わらせたかった。
いや、終わらせるしかない。
息を止め、一気に押し込む。
鋭い痛みと、鉄の匂い。
赤い雫が唇を伝い、鏡の中でひと筋、線を描いた。
その傷口を隠すように──ピアスを開けた。
もう誰にも裏切られたくない。
もう、あんな思いは二度とごめんだ。
ピアスを開けた日。
俺はピアノを弾いていた記憶ごと、全部を封じた。
後ろを見ないように、ただ前だけを見て歩くために。
…そのはずだった。
ロロの言葉を聞いた瞬間、胸の奥の硬い蓋がカタリと音を立てた気がした。
閉じ込めたはずの旋律が、かすかに漏れ出す。
それを掴もうとすると、すぐに指の隙間から零れ落ちてしまう。
──弾きたい。
そう思った途端、慌てて首を振った。
もう弾かないと決めたじゃないか。
二度と、舞台には戻らないと。
でも──それでも──。
あの日、途切れたと思っていた旋律が、胸の奥でじわりと目を覚ます。
指先に、鍵盤の冷たさと重さがよみがえる。
それは冬の朝の空気みたいに澄んでいて、息を吸うたび、もっと深く入り込んでくる。
忘れたはずの音が、鼓動と同じリズムで、静かに、確かに響きはじめていた。
思い出すのは──あの日。
楽屋にいると、遠くで騒ぎが起きた。
坂田瑛人の母親が叫んでいた。
息子の靴に画鋲が入れられ、怪我をしたのだと。
「犯人を探してくれ」ではなく、「探せ」と。
──瑛人は大丈夫なのか。
ペダルを踏めないほどの怪我なら、演奏に支障が出る。
心配して瑛人の楽屋へ向かうと──
──アズサ、君だけアリバイがないんだ。
──本当は君がやったんじゃない?
さっきまで「頑張れ」と肩を叩いてくれた人たちが、同じ口で俺を疑ってきた。
父は仕事、母は体調不良と弟の世話で、誰も俺に付き添ってくれない。
フランスに来てから、そんな環境が当たり前だった。
そんな中でできた、初めての友達。瑛人。
何でも話せる親友だと、信じていた。
「アズサがそんなことするはずない」と言ってくれると、信じていた。
なのに──瑛人は母親の背に隠れるようにして、ただ黙っていた。
あぁ、俺が友達だと思っていたのは、石の像だったんだ。
胸の奥が急に寒くなった。
曲の旋律が、頭からごっそり消えていく。
必死に譜面を目で追っても、紙の上の黒い点は音に変わらなかった。
そして迎えたコンテスト本番。
鍵盤の前に立っても、指は宙で震えるばかりだった。
触れるだけで音が鳴る楽器なのに──一音も出せなかった。
夜。
楽屋に置きっぱなしにしたカバンを抱えて下宿に戻ると、薄暗い部屋の空気はひどく冷たかった。
鳴り続けていた着信音が途切れ、代わりに留守電のランプが点滅している。震える指で再生すると、母の声が溢れた。
「……あずさ……お父さん……死んじゃった……」
耳の奥で、言葉が何度も反響した。
意味が頭に入らない。ただ、母が泣きながら「ごめん…ごめんね…」と繰り返すたび、その音だけが現実になって胸の奥に沈んでいく。
瑛人も失った。
父も失った。
気づけば息が浅くなる。
外では冷たい風が窓を叩き、下宿の灯りを揺らしている。
その揺れに合わせて、足元が崩れていくようだった。
──俺には、もうやり直せるチャンスはない。
そう思った瞬間、口の中に鉄の味が広がった。噛み締めすぎた唇から、じわりと血が滲んでいた。
鏡の中に、見慣れない自分が立っている。
目はどこか焦点が合っておらず、唇の端には暗い赤。
このままじゃ帰れない。
母さんに心配される前に、隠さなきゃ。
気づけば駅前のドラッグストアに向かっていた。以前から見かけていた陳列棚。耳用のピアッサーの隣に、小さなニードルのパックがあったことを思い出す。
「消毒用アルコールと、ニードル……ありますか」
カウンター越しに差し出された袋が、手の中でカチャリと鳴った。
その音が妙に大きく響いた。
部屋に戻り、鏡の前に立つ。
アルコールで唇の端を拭うと、冷たさよりも虚しさの方が先に沁みた。
これをやれば、本当に終わる──心のどこかでそう分かっていた。
でも、終わらせたかった。
いや、終わらせるしかない。
息を止め、一気に押し込む。
鋭い痛みと、鉄の匂い。
赤い雫が唇を伝い、鏡の中でひと筋、線を描いた。
その傷口を隠すように──ピアスを開けた。
もう誰にも裏切られたくない。
もう、あんな思いは二度とごめんだ。
ピアスを開けた日。
俺はピアノを弾いていた記憶ごと、全部を封じた。
後ろを見ないように、ただ前だけを見て歩くために。
…そのはずだった。
ロロの言葉を聞いた瞬間、胸の奥の硬い蓋がカタリと音を立てた気がした。
閉じ込めたはずの旋律が、かすかに漏れ出す。
それを掴もうとすると、すぐに指の隙間から零れ落ちてしまう。
──弾きたい。
そう思った途端、慌てて首を振った。
もう弾かないと決めたじゃないか。
二度と、舞台には戻らないと。
でも──それでも──。
あの日、途切れたと思っていた旋律が、胸の奥でじわりと目を覚ます。
指先に、鍵盤の冷たさと重さがよみがえる。
それは冬の朝の空気みたいに澄んでいて、息を吸うたび、もっと深く入り込んでくる。
忘れたはずの音が、鼓動と同じリズムで、静かに、確かに響きはじめていた。
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2章、3章も長くなってしまって、分けました。碧依の恋心を丁寧に書き直しました。(2025/9/2 18:40)
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