【完結】Reste, mon étoile. −君にもう一度会いたくて−

豊川夢久

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45話

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ロロは、出発ゲートに向かう途中で足を止めた。
ざわめく空港の中、ふと耳に飛び込んできた音に、懐かしさを覚えたからだ。

──ピアノの音だ。

空港内のBGMではない、生の音。
誰かが今まさに弾いている旋律が、空気を震わせて耳に届く。
その音に吸い寄せられるように、足は自然と方向を変えていた。

幾重にも巻かれた人垣の向こう。
黒いグランドピアノの天板がちらりと見える。
隙間から見えたのはペダルを踏む足だけ。
──どんな人が弾いているんだろう。

それは小さな好奇心。
有名な曲に変わったのに合わせて、少しずつ場所を移動していく。

軽やかなフレーズが力強い和音へと変わり、空気が一段と熱を帯びる。
指先が描き出す力強さに、背筋がぞくりと震えた。
その力強さが一転して、今度は流れるような旋律が滑り出す。
ピアノらしい優雅さと透明な響きが、空港の喧騒を一瞬忘れさせる。

さっきの靴もそうだったけど、チラチラと見える手は男の人のもの。
力強く鍵盤を弾く指先に、その場の空気までもが震えるようだった。

人と人の隙間を縫って進んでも、弾き手の顔は見えない。
やがて視界が開け、一瞬だけ、椅子に座る人物の背中がはっきりと見えた。

黒いTシャツに、トリコールの派手な手形が三つ。
それはこの広い世界で、たった一つしかない、特別なもの。

次の瞬間、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
手にしていた搭乗券がわずかに震える。

記憶の中で色褪せることのなかったあの日の光景が、音に導かれるように鮮やかに蘇る。

涙腺が熱くなる。視界がじわりと滲む。
息が浅くなり、胸が苦しい。
それでも、止まれなかった。

やがて、広場の中央。
生垣を縫って進んだ先に現れたのは、漆黒のピアノと──
鍵盤に吸い込まれるように顔を伏せる、大好きな背中だった。

その音が、ふと変わる。
軽やかなリズムが落ち着き、柔らかく、切なく──
僕のために彼が弾いてくれた、あの異国のメロディへと変わっていった。

また弾けるようになったんだ。
僕のこと、思い出してくれたんだ。

鍵盤からこぼれる一音一音が、胸の奥に触れる。
息をするたび、熱く滲んだ視界が揺れる。

そう思うと、涙が止まらなかった。

この音に。
そう、僕はこの音に救われたんだ──。

やがて、最後の音が空気に溶け、広場が静まり返る。
誰かの小さな拍手が連鎖していき、人々が惜しみない拍手を送った。

その中で、僕は一歩だけ前に進む。
胸の奥に溜め込んでいた息を吐き出すように、名前を呼んだ。

「……アズサ」

弾き終えた彼の肩が、わずかに震えた。
ゆっくりと顔を上げる。
驚きと戸惑い、そして信じられないという色が、彼の瞳に浮かんだ。

互いの視線が、喧騒の中でまっすぐに絡み合う。
時間が止まったような感覚に、胸が熱くなった。


次の瞬間、僕は走っていた。
散り散りになっていく観客の合間を抜け、拍手の中を駆け抜け、ピアノの横へ。

「アズサ!」

呼びながら腕を伸ばす。
彼も立ち上がっていた。
互いに止まることなく、勢いのまま抱き合った。

鼓動がぶつかり、震える呼吸が混ざる。
周囲の喧騒なんて、もう何も耳に入らなかった。


「Merci, Azusa… C’était incroyable.」
(ありがとう、梓真…信じられないくらい素晴らしかったよ)

言葉を絞り出しながらも、嗚咽に塗れ、ロロの目からは涙がとめどなく溢れていく。

「Tu restes le meilleur pianiste.」
(君はやっぱり最高のピアニストのままだ)

すりとシャツに顔を擦り付けるロロの体を抱きしめながら、それに応えるように、東雲は小さく息を吐き出した。

「……お前のせいだからな──お前が…俺をここに引き戻したんだ」

「うん、」

「──悪かった…ごめん、傷つけた」

「ううん、僕、うれし…、」
言葉の途中で、声が涙に呑まれて途切れる。

東雲はその背中を、もう一度しっかりと抱き寄せた。




「あぁ、ちくしょう! 何で俺はあそこにいないんだろうな……」

空港ラウンジの2階。
吹き抜けの手すりから見下ろした先に、二人の姿があった。
田中は涙で滲む視界のまま、悔しさを噛みしめるように呟く。

でも──東雲の背に回されたロロの手に、
まるで俺が押したインクの手形に触れているように見えた。

「……ま、あれでヨシとするか」

ひとつ息を吐き、くるりと背を向ける。
遠くで響くアナウンスと、途切れ途切れのざわめき。
その下で、広場の真ん中。
そっと二つの影が重なっていた。




「それで? ロロ、お前……帰ってくんのか?」

搭乗口の前。
三人そろって泣き腫らした顔のまま、互いに目を合わせた。

「──ナツヤスミ、おわったら、またくる」

「大丈夫か? 留学、辞めるって言ってたんじゃないのかよ」

「……はやくカエル、いっただけ! たぶん…」

「まぁ、なら頑張って、何とかしろよな。待ってるからよ」

「アズサのピアノ、キキにゼッタイ、クル」

「──次に来る時には、もっと上手くなってるから」

その言葉に、ロロが嬉しそうに目を細めた。

「アリガト!!ダイスキ!!」

東雲がふっと笑みを浮かべる。
その笑顔を見て、田中が小さく鼻を鳴らした。

「……まったく。空港でまた泣かされるとはな。俺もピアノ習おうかな」

「お前は、さっさとギター弾けるようになれよ」

軽口と笑い声が交わる。
ゲートのアナウンスが流れ、別れの時が近づいていた。

ロロは搭乗券を握りしめたまま、ゲートへと歩き出す。
その背中が人波に紛れる直前、ふいに立ち止まった。

振り返り、涙を浮かべたまま、力いっぱい手を振る。
東雲と田中も、同じように大きく手を振り返した。

笑顔と涙が交じり合う中、ロロの姿はゆっくりとゲートの向こうへ消えていった。



ターミナルの屋上デッキ。
金網越しに見える滑走路を、白い機体がゆっくりと走り出す。

「あれだな」
田中がつぶやく。隣に立つ東雲は無言のまま、離陸していく機体を目で追った。

やがて機体が浮き上がり、真っ青な空に向かって高度を上げていく。
その尾を引く白い雲が、夏の陽光にきらめいた。

「……戻ってくるのは…1ヶ月後かぁ…」
田中の声は、エンジン音にかき消されそうなほど小さい。

東雲は一度だけ頷き、最後まで機影を見送った。

「……あぁ、またすぐだ」
東雲の声は短く、それでも揺るぎなかった。

やがて小さくなった飛行機は雲の向こうへ消えていき──
残された二人は、まだしばらくその空を見上げていた。


「俺のギターも付き合ってよ」
「俺はピアノで忙しいんだよ」

「──ロロのために、だろ?」
田中がニヤリと笑う。

東雲は少しだけ口元を緩めた。
「……当然だ」

「まー!開き直って羨ましい!今度は絶対邪魔してやるからな!!」
「はいはい言ってろ、お人好し」

そうやって並んで空を見上げる俺たちの頭上、ロロを乗せた飛行機は小さくなって雲に溶けた。

──そう、やっぱりこの物語の主人公は俺じゃない。
だけど、この物語の結末を一番近くで見られたのは、きっと俺だけだ。

どうせまた、そのうち戻ってきたロロと東雲の厄介ごとに巻き込まれて──俺が何とかしてやる羽目になるんだろうな。

「元気出せ!!ロロが帰ってくるまで俺が相手してやるからよ!」
そう言って、トリコロールの派手なシャツの背を叩いてやった。

「────…」

「何その不満そうな顔」

「思い出したんだよ。」

「何を。」

「あの日、俺がロロに声を掛けた理由」

「えっ、何だったの!?」

「……言わないけどな」

「えっ、何それ!!」

田中が食い下がるのをかわしながら、胸の内でつぶやく。
──言えるわけないだろ。
あまりにも可愛くて、柄じゃないのに、緊張に震えながらも、必死で声をかけたなんて。そんな恥ずかしい話。

だけど、そんな俺のことを覚えててくれて。
追いかけてきてくれるなんて思ってもみなかった。

そして、またこの世界に引き戻してくれるなんて──。

雲の向こう、遠い空の下でロロは笑っているだろうか。
またすぐ会える──そう信じて、ふと耳の奥にあの笑い声がよみがえる。
あの笑顔を胸に、今日も俺は鍵盤に指を落とした。


──今度は俺が、君を待つ番だ。



FIN
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