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44話
すぐ後ろを走っていたはずの足音が、少しずつ遠ざかっていくのには気づいていた。
それでも東雲は前だけを見ていた──が、背後から「ちくしょーっ!!」という田中の叫びが響いた。
「……はぁっ……はぁっ……やっぱ俺は短距離走向けだ!ッ無理!!」
途中で足を止め、膝に手をついて息を荒げる田中。
「俺のことは放って先に行け! お前なら間に合うだろ!」
途切れがちな息の合間に、それでも力を込めて叫ぶ。
東雲はほんの一瞬だけ振り返った。
見送る田中の目は、笑っているようで、必死に祈っているようだった。
「絶対に間に合えよ!! 絶対だぞ!!」
その声が鋭く背中を押す。
唇を噛み、足に力を込める。
アスファルトを蹴るたび、胸の奥まで響くような鼓動。
耳に入るのは、風を裂く音と自分の呼吸だけ。
ただ、空港までの道のりをひたすらに駆け抜けた。
心臓が破れそうなほどに脈打ち、肺が焼けるように痛む。
全身が「もう限界だ」と悲鳴を上げているのに、足は止まらなかった。
空港の建物が視界に入った瞬間、胸の奥で何かが弾ける。
──もう少し。あと、ほんの少し。
けれど、エントランスに近づくにつれ、視界いっぱいに人、人、人。
スーツケースを引く旅行客、列を作る団体客、行き交う声とざわめき。
その波に阻まれ、思わず足を止めざるを得なかった。
荒い呼吸を整える間もなく、周囲の喧騒に飲み込まれていく。
視線は必死に人の隙間を探す。
視界がぶれて、足元がふらつきそうになる。
──ピアノだ。
ピアノはどこだ。
音を確かめる前に、ロロを見つける前に、まずはピアノがなければ何も始まらない。
ロビーの端、吹き抜けの中央、ガラス越しの奥──目を走らせるたび、焦燥が喉を締めつける。
スーツケースの山、カートを押す家族連れ、土産袋を抱えた人々が視界を塞ぐ。
どこにも、黒い影は見えない。
時間だけが刻一刻と削られていく。
人混みを押し分けながら進んだその時──
視界の向こうに、艶やかな黒が一瞬だけ覗いた。
「……あった」
胸の奥で何かが弾ける音がした。
たったそれだけのことで、全身に新しい血が巡ったように、足がまた前へ動き出す。
息苦しさも、足の重さも、もう気にならなかった。
(間に合う──間に合わせる!)
東雲は人波を裂くように、その黒い影へ向かって駆け抜けた。
光を弾く漆黒の王者たるグランドピアノ。
空港の喧騒の中、そこだけが異世界のように静まり返っていた。
誰も座っていないベンチのように、ぽつりと取り残されたその存在は、
まるで「ここだ」と告げるために、ずっと待ち続けていたかのようだった。
東雲は、息を整えることも忘れて立ち尽くす。
震える指先が、わずかに宙を彷徨う。
──この黒鍵と白鍵の並びが、全てを繋ぐ鍵。
(やれるのか……? 今、この場で)
胸の奥から、熱とも痛みともつかぬ感覚が込み上げる。
けれど、ためらっている時間はない。
東雲はゆっくりと歩み寄り、ピアノにそっと触れる。
ロロの笑顔が、あの日の陽の光とともに脳裏に浮かぶ。
羽織っていたシャツを脱ぎ捨てると、椅子の高さを調整する。
落ち着け、落ち着け、と心で祈るように、息を吐く。
指先は、さっきまでの全力疾走に小刻みに震えていた。
演奏なんかできる状態じゃないことぐらい、自分でも痛い程よく分かってる。
──ここから先は、ただ音を届けるだけだ。
心臓の鼓動が、やがて拍子を刻むドラムのように変わっていく。
遠くのアナウンスも、足音も、ざわめきも、すべて薄れていく。
残るのは、黒と白の鍵盤と、自分の指先だけ。
指が鍵盤に触れた。
その瞬間、震えは消えた。
全身の血が、音に変わって流れ出すようだった。
最初の一音が空港の天井に跳ね返り、
まるでそこから物語が始まると告げるように、澄んだ響きが広がった。
最初は遠くで聞こえていた搭乗アナウンスや、
スーツケースを転がす車輪の音、
せわしない足音が入り混じっていた。
けれど、音を重ねるごとに、それらは少しずつ遠のいていく。
周囲のざわめきが、波のように引いていき、
やがてこの空間には、東雲の奏でる旋律だけが満ちていった。
聞いている人がいるかどうかなんて、もう分からない。
ただ、鍵盤の先にいる“ロロ”だけを思って弾く。
目を閉じれば、あの日の石畳の街角が、
色と光を取り戻しながら目の前に広がっていく。
突如として始まった演奏に、通りかかった人々が足を止めた。
「誰かピアノ弾いてるの?」
「どこから聞こえるんだろう」
囁き声があちこちから漏れ、音の方へと人の流れが少しずつ集まってくる。
あぁ、ちくしょう。また間違えた。
こんな演奏、最低最悪の部類だ。
思った通りに指が動かないことが、ただ悔しい。
──なのに。
すごく、楽しい。
自分でも信じられないほど、胸が熱くなっていく。
今、鍵盤の上で流れる音は、ただの練習曲でも完璧な演奏でもない。
それでも、東雲にとっては確かに“ロロへ届けたい音”だった。
やがて、ざわめきが遠のいていく。
空港の喧騒が薄皮一枚隔てられたように、音だけが空間を満たしていく。
足を止めた人々が、言葉を失い、ただ耳を澄ます。
東雲はその視線にも気づかず、ただ鍵盤に向かって、指先を走らせ続けた。
それでも東雲は前だけを見ていた──が、背後から「ちくしょーっ!!」という田中の叫びが響いた。
「……はぁっ……はぁっ……やっぱ俺は短距離走向けだ!ッ無理!!」
途中で足を止め、膝に手をついて息を荒げる田中。
「俺のことは放って先に行け! お前なら間に合うだろ!」
途切れがちな息の合間に、それでも力を込めて叫ぶ。
東雲はほんの一瞬だけ振り返った。
見送る田中の目は、笑っているようで、必死に祈っているようだった。
「絶対に間に合えよ!! 絶対だぞ!!」
その声が鋭く背中を押す。
唇を噛み、足に力を込める。
アスファルトを蹴るたび、胸の奥まで響くような鼓動。
耳に入るのは、風を裂く音と自分の呼吸だけ。
ただ、空港までの道のりをひたすらに駆け抜けた。
心臓が破れそうなほどに脈打ち、肺が焼けるように痛む。
全身が「もう限界だ」と悲鳴を上げているのに、足は止まらなかった。
空港の建物が視界に入った瞬間、胸の奥で何かが弾ける。
──もう少し。あと、ほんの少し。
けれど、エントランスに近づくにつれ、視界いっぱいに人、人、人。
スーツケースを引く旅行客、列を作る団体客、行き交う声とざわめき。
その波に阻まれ、思わず足を止めざるを得なかった。
荒い呼吸を整える間もなく、周囲の喧騒に飲み込まれていく。
視線は必死に人の隙間を探す。
視界がぶれて、足元がふらつきそうになる。
──ピアノだ。
ピアノはどこだ。
音を確かめる前に、ロロを見つける前に、まずはピアノがなければ何も始まらない。
ロビーの端、吹き抜けの中央、ガラス越しの奥──目を走らせるたび、焦燥が喉を締めつける。
スーツケースの山、カートを押す家族連れ、土産袋を抱えた人々が視界を塞ぐ。
どこにも、黒い影は見えない。
時間だけが刻一刻と削られていく。
人混みを押し分けながら進んだその時──
視界の向こうに、艶やかな黒が一瞬だけ覗いた。
「……あった」
胸の奥で何かが弾ける音がした。
たったそれだけのことで、全身に新しい血が巡ったように、足がまた前へ動き出す。
息苦しさも、足の重さも、もう気にならなかった。
(間に合う──間に合わせる!)
東雲は人波を裂くように、その黒い影へ向かって駆け抜けた。
光を弾く漆黒の王者たるグランドピアノ。
空港の喧騒の中、そこだけが異世界のように静まり返っていた。
誰も座っていないベンチのように、ぽつりと取り残されたその存在は、
まるで「ここだ」と告げるために、ずっと待ち続けていたかのようだった。
東雲は、息を整えることも忘れて立ち尽くす。
震える指先が、わずかに宙を彷徨う。
──この黒鍵と白鍵の並びが、全てを繋ぐ鍵。
(やれるのか……? 今、この場で)
胸の奥から、熱とも痛みともつかぬ感覚が込み上げる。
けれど、ためらっている時間はない。
東雲はゆっくりと歩み寄り、ピアノにそっと触れる。
ロロの笑顔が、あの日の陽の光とともに脳裏に浮かぶ。
羽織っていたシャツを脱ぎ捨てると、椅子の高さを調整する。
落ち着け、落ち着け、と心で祈るように、息を吐く。
指先は、さっきまでの全力疾走に小刻みに震えていた。
演奏なんかできる状態じゃないことぐらい、自分でも痛い程よく分かってる。
──ここから先は、ただ音を届けるだけだ。
心臓の鼓動が、やがて拍子を刻むドラムのように変わっていく。
遠くのアナウンスも、足音も、ざわめきも、すべて薄れていく。
残るのは、黒と白の鍵盤と、自分の指先だけ。
指が鍵盤に触れた。
その瞬間、震えは消えた。
全身の血が、音に変わって流れ出すようだった。
最初の一音が空港の天井に跳ね返り、
まるでそこから物語が始まると告げるように、澄んだ響きが広がった。
最初は遠くで聞こえていた搭乗アナウンスや、
スーツケースを転がす車輪の音、
せわしない足音が入り混じっていた。
けれど、音を重ねるごとに、それらは少しずつ遠のいていく。
周囲のざわめきが、波のように引いていき、
やがてこの空間には、東雲の奏でる旋律だけが満ちていった。
聞いている人がいるかどうかなんて、もう分からない。
ただ、鍵盤の先にいる“ロロ”だけを思って弾く。
目を閉じれば、あの日の石畳の街角が、
色と光を取り戻しながら目の前に広がっていく。
突如として始まった演奏に、通りかかった人々が足を止めた。
「誰かピアノ弾いてるの?」
「どこから聞こえるんだろう」
囁き声があちこちから漏れ、音の方へと人の流れが少しずつ集まってくる。
あぁ、ちくしょう。また間違えた。
こんな演奏、最低最悪の部類だ。
思った通りに指が動かないことが、ただ悔しい。
──なのに。
すごく、楽しい。
自分でも信じられないほど、胸が熱くなっていく。
今、鍵盤の上で流れる音は、ただの練習曲でも完璧な演奏でもない。
それでも、東雲にとっては確かに“ロロへ届けたい音”だった。
やがて、ざわめきが遠のいていく。
空港の喧騒が薄皮一枚隔てられたように、音だけが空間を満たしていく。
足を止めた人々が、言葉を失い、ただ耳を澄ます。
東雲はその視線にも気づかず、ただ鍵盤に向かって、指先を走らせ続けた。
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