【完結】Reste, mon étoile. −君にもう一度会いたくて−

豊川夢久

文字の大きさ
45 / 46

44話

すぐ後ろを走っていたはずの足音が、少しずつ遠ざかっていくのには気づいていた。
それでも東雲は前だけを見ていた──が、背後から「ちくしょーっ!!」という田中の叫びが響いた。

「……はぁっ……はぁっ……やっぱ俺は短距離走向けだ!ッ無理!!」
途中で足を止め、膝に手をついて息を荒げる田中。

「俺のことは放って先に行け! お前なら間に合うだろ!」
途切れがちな息の合間に、それでも力を込めて叫ぶ。

東雲はほんの一瞬だけ振り返った。
見送る田中の目は、笑っているようで、必死に祈っているようだった。

「絶対に間に合えよ!! 絶対だぞ!!」
その声が鋭く背中を押す。

唇を噛み、足に力を込める。
アスファルトを蹴るたび、胸の奥まで響くような鼓動。
耳に入るのは、風を裂く音と自分の呼吸だけ。
ただ、空港までの道のりをひたすらに駆け抜けた。

心臓が破れそうなほどに脈打ち、肺が焼けるように痛む。
全身が「もう限界だ」と悲鳴を上げているのに、足は止まらなかった。

空港の建物が視界に入った瞬間、胸の奥で何かが弾ける。
──もう少し。あと、ほんの少し。

けれど、エントランスに近づくにつれ、視界いっぱいに人、人、人。
スーツケースを引く旅行客、列を作る団体客、行き交う声とざわめき。
その波に阻まれ、思わず足を止めざるを得なかった。

荒い呼吸を整える間もなく、周囲の喧騒に飲み込まれていく。
視線は必死に人の隙間を探す。
視界がぶれて、足元がふらつきそうになる。

──ピアノだ。
ピアノはどこだ。

音を確かめる前に、ロロを見つける前に、まずはピアノがなければ何も始まらない。
ロビーの端、吹き抜けの中央、ガラス越しの奥──目を走らせるたび、焦燥が喉を締めつける。

スーツケースの山、カートを押す家族連れ、土産袋を抱えた人々が視界を塞ぐ。
どこにも、黒い影は見えない。
時間だけが刻一刻と削られていく。

人混みを押し分けながら進んだその時──
視界の向こうに、艶やかな黒が一瞬だけ覗いた。

「……あった」

胸の奥で何かが弾ける音がした。
たったそれだけのことで、全身に新しい血が巡ったように、足がまた前へ動き出す。
息苦しさも、足の重さも、もう気にならなかった。

(間に合う──間に合わせる!)

東雲は人波を裂くように、その黒い影へ向かって駆け抜けた。


光を弾く漆黒の王者たるグランドピアノ。
空港の喧騒の中、そこだけが異世界のように静まり返っていた。

誰も座っていないベンチのように、ぽつりと取り残されたその存在は、
まるで「ここだ」と告げるために、ずっと待ち続けていたかのようだった。

東雲は、息を整えることも忘れて立ち尽くす。
震える指先が、わずかに宙を彷徨う。

──この黒鍵と白鍵の並びが、全てを繋ぐ鍵。

(やれるのか……? 今、この場で)

胸の奥から、熱とも痛みともつかぬ感覚が込み上げる。
けれど、ためらっている時間はない。

東雲はゆっくりと歩み寄り、ピアノにそっと触れる。
ロロの笑顔が、あの日の陽の光とともに脳裏に浮かぶ。

羽織っていたシャツを脱ぎ捨てると、椅子の高さを調整する。

落ち着け、落ち着け、と心で祈るように、息を吐く。
指先は、さっきまでの全力疾走に小刻みに震えていた。

演奏なんかできる状態じゃないことぐらい、自分でも痛い程よく分かってる。

──ここから先は、ただ音を届けるだけだ。

心臓の鼓動が、やがて拍子を刻むドラムのように変わっていく。
遠くのアナウンスも、足音も、ざわめきも、すべて薄れていく。
残るのは、黒と白の鍵盤と、自分の指先だけ。

指が鍵盤に触れた。
その瞬間、震えは消えた。
全身の血が、音に変わって流れ出すようだった。

最初の一音が空港の天井に跳ね返り、
まるでそこから物語が始まると告げるように、澄んだ響きが広がった。

最初は遠くで聞こえていた搭乗アナウンスや、
スーツケースを転がす車輪の音、
せわしない足音が入り混じっていた。

けれど、音を重ねるごとに、それらは少しずつ遠のいていく。
周囲のざわめきが、波のように引いていき、
やがてこの空間には、東雲の奏でる旋律だけが満ちていった。

聞いている人がいるかどうかなんて、もう分からない。
ただ、鍵盤の先にいる“ロロ”だけを思って弾く。
目を閉じれば、あの日の石畳の街角が、
色と光を取り戻しながら目の前に広がっていく。


突如として始まった演奏に、通りかかった人々が足を止めた。
「誰かピアノ弾いてるの?」
「どこから聞こえるんだろう」

囁き声があちこちから漏れ、音の方へと人の流れが少しずつ集まってくる。

あぁ、ちくしょう。また間違えた。
こんな演奏、最低最悪の部類だ。
思った通りに指が動かないことが、ただ悔しい。

──なのに。

すごく、楽しい。
自分でも信じられないほど、胸が熱くなっていく。
今、鍵盤の上で流れる音は、ただの練習曲でも完璧な演奏でもない。
それでも、東雲にとっては確かに“ロロへ届けたい音”だった。

やがて、ざわめきが遠のいていく。
空港の喧騒が薄皮一枚隔てられたように、音だけが空間を満たしていく。
足を止めた人々が、言葉を失い、ただ耳を澄ます。
東雲はその視線にも気づかず、ただ鍵盤に向かって、指先を走らせ続けた。
感想 0

あなたにおすすめの小説

(完結)君のことは愛さない  〜死に戻りの伯爵令息は幸せになるため生き直します〜

蒼井梨音
BL
ルーシェ・ディオラントは、先祖返りで、王家の印と言われる薄い水色を帯びた銀髪と浅葱色の瞳をもつ美しいオメガ。しかし、正妻との子どもでないため、伯爵家では虐げられて育てられてきた。 そんなルーシェは、アルファである冷徹無比といわれる騎士団長のサイラス・ヴァルフォードと結婚することになった。  どんなに冷遇されようと、伯爵家での生活よりは、いいはず。 もしかしたら、これから恋に落ちるのかもしれない、と思うと、ルーシェはとても幸福に満ちていた。 しかし、結婚生活は、幸せとはほど遠いものであった。 ーーなんで、サイラス様は、僕の手をとってくれないの? 愛することも愛されることも知らない2人が、すれ違いを経て、やり直した人生でようやく愛を知る・・・ ※基本ルーシェ視点ですが、たまに別な視点が入ります。 ※無事に完結しました。ありがとうございました。

学校一のイケメンとひとつ屋根の下

おもちDX
BL
高校二年生の瑞は、母親の再婚で連れ子の同級生と家族になるらしい。顔合わせの時、そこにいたのはボソボソと喋る陰気な男の子。しかしよくよく名前を聞いてみれば、学校一のイケメンと名高い逢坂だった! 学校との激しいギャップに驚きつつも距離を縮めようとする瑞だが、逢坂からの印象は最悪なようで……? キラキライケメンなのに家ではジメジメ!?なギャップ男子 × 地味グループ所属の能天気な男の子 立場の全く違う二人が家族となり、やがて特別な感情が芽生えるラブストーリー。 全年齢

【8話完結】僕の大切な人はBLゲームの主人公でした。〜モブは主人公の幸せのためなら、この恋も諦められます〜

キノア9g
BL
転生先は、まさかのBLゲームの世界。 モブであるリセルは、恋を自覚した瞬間、幼馴染・セスがこの世界の“主人公”だと気づいてしまう。 このまま一緒にいても、いつか彼は攻略対象に惹かれていく運命——それでも、今だけは傍にいたい。 「諦める覚悟をしたのに、どうしてこんなにも君が愛おしいんだろう」 恋の終わりを知っているモブと、想いを自覚していく主人公。 甘さと切なさが胸を締めつける、すれ違いから始まる運命の物語。 全8話。

生まれ変わりは嫌われ者

青ムギ
BL
無数の矢が俺の体に突き刺さる。 「ケイラ…っ!!」 王子(グレン)の悲痛な声に胸が痛む。口から大量の血が噴きその場に倒れ込む。意識が朦朧とする中、王子に最後の別れを告げる。 「グレン……。愛してる。」 「あぁ。俺も愛してるケイラ。」 壊れ物を大切に包み込むような動作のキス。 ━━━━━━━━━━━━━━━ あの時のグレン王子はとても優しく、名前を持たなかった俺にかっこいい名前をつけてくれた。いっぱい話しをしてくれた。一緒に寝たりもした。 なのにー、 運命というのは時に残酷なものだ。 俺は王子を……グレンを愛しているのに、貴方は俺を嫌い他の人を見ている。 一途に慕い続けてきたこの気持ちは諦めきれない。 ★表紙のイラストは、Picrew様の[見上げる男子]ぐんま様からお借りしました。ありがとうございます!

完結|好きから一番遠いはずだった

七角
BL
大学生の石田陽は、石ころみたいな自分に自信がない。酒の力を借りて恋愛のきっかけをつかもうと意気込む。 しかしサークル歴代最高イケメン・星川叶斗が邪魔してくる。恋愛なんて簡単そうなこの後輩、ずるいし、好きじゃない。 なのにあれこれ世話を焼かれる。いや利用されてるだけだ。恋愛相手として最も遠い後輩に、勘違いしない。 …はずだった。

脱落モブ男が人気アイドルに愛されるわけがない

綿毛ぽぽ
BL
 アイドルを夢見るも、デビューできずオーディション番組に出演しても脱落ばかりの地味男、亀谷日翔はついに夢を諦めた。そしてひょんなことから事務所にあるカフェで働き始めると、かつて出演していた番組のデビューメンバーと再会する。テレビでも引っ張りだこで相変わらずビジュアルが強い二人は何故か俺に対して距離が近い。 ━━━━━━━━━━━ 現役人気アイドル×脱落モブ男 表紙はくま様からお借りしました https://www.pixiv.net/artworks/84182395

元カレ先輩に、もう一度恋をする。 ━━友だちからやり直すはずだった再会愛【BL】

毬村 緋紗子
BL
中学三年になる春。 俺は好きな人に嘘をついて別れた。 そして一年。 高校に入学後、校内で、その元カレと再会する。 遠くから見ているだけでいいと思っていたのに……。 先輩は言った。 「友だちに戻ろう」 まだ好きなのに。 忘れられないのに。 元恋人から始まる、再スタートの恋。 (登場人物) 渋沢 香名人 シブサワ カナト 高1 山名 貴仁 ヤマナ タカヒト 高3 表紙は、生成AIによる、自作です。 (替わるかもです。。)

2度目の恋 ~忘れられない1度目の恋~

青ムギ
BL
「俺は、生涯お前しか愛さない。」 その言葉を言われたのが社会人2年目の春。 あの時は、確かに俺達には愛が存在していた。 だが、今はー 「仕事が忙しいから先に寝ててくれ。」 「今忙しいんだ。お前に構ってられない。」 冷たく突き放すような言葉ばかりを言って家を空ける日が多くなる。 貴方の視界に、俺は映らないー。 2人の記念日もずっと1人で祝っている。 あの人を想う一方通行の「愛」は苦しく、俺の心を蝕んでいく。 そんなある日、体の不調で病院を受診した際医者から余命宣告を受ける。 あの人の電話はいつも着信拒否。診断結果を伝えようにも伝えられない。 ーもういっそ秘密にしたまま、過ごそうかな。ー ※主人公が悲しい目にあいます。素敵な人に出会わせたいです。 表紙のイラストは、Picrew様の[君の世界メーカー]マサキ様からお借りしました。