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第21話 無我夢中
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クレハは道なき道を歩いていた。
先ほどから霧が更に濃くなってきている。もはや五米先がかろうじて見える程度だ。
同時に、饐えた臭いに鉄錆のような臭いが混じってきていた。
尋常ではない悪臭が鼻を突き、涙目になるのを抑えられなかった。
加えてこの鉄錆のような臭いに心当たりがあった。
(血の匂い……)
匂い立つソレは明らかに死臭だった。
――ぺちゃり。
何かを踏み付けた。
元から泥濘《ぬかる》んだ地面だったが、今のは明らかに水を踏んだ音だった。
そして気付く。
足元にガルムの死骸が転がっている。
それも一頭ではない。数頭の骸がそこいらに転がっていた。
今自分が踏み付けたのはガルムの血溜まりだった。
「………………」
血、というのはそれが魔術師のものであれ、魔物のものであれ固まるのは早いものだ。量にもよるが、一時間と経たずに大抵は固まるか乾燥してしまう。
そして、足元の血はまだ明らかに瑞々しい。
ガルムの死骸からは先ほどまで逃げ回っていたのか、湯気とでも形容すべきものまで立ち上っている。
――それらをクレハが考えていたのはほんの数瞬のことだった。
「グウウゥゥウゥルオオォォォ!」
クレハの意識がズレた瞬間に合わせたかのように、猛々しい雄叫びが耳に入った。
深い霧の中で明瞭に聞こえた雄叫び、それが表すところはつまり――。
右半身に鈍い衝撃が襲い掛かってきた。
「ぐっ!」
クレハは霧の中を水平に飛ばされた。
何本もの木を薙ぎ倒しながら七、八米は飛ばされたところで、木に身体全体がめり込むような形になってようやく止まる。
「がはっ! あっ、はぁ!」
赤黒い血反吐が己の意志とは無関係に吐き出される。
鮮血とは程遠いどす黒く染まった血は、内臓から溢れたものだ。肺か肝臓、膵臓辺りに相当なダメージが入り、肋骨も何本かやられただろう。
「ぐっ……ふぅふぅ」
大鎌を召喚し、柄を杖のようにして何とか立ち上がる。
膝が笑って転んだ。もう一度、木にも手を添えゆっくりと立ち上がる。
深い霧の中からソレは現れた。
体長は四米ほど。
筋骨隆々の肉体を二本の足で支え、手にはその辺で拾っただろう巨大な木の枝――ではなく、太い幹を持っている。
山羊の顔を持ち、頭からは二本の捻くれた角が生えている。
体毛は針のように鋭く、その目はまるで血を煮詰めたかのように赤黒い。
「デビルゴート……!」
ガルムやアウルベア、デビルズマンティスやギガホーネットといった指定外のなんちゃって魔物とは違い、ギルドへと討伐依頼が出されるような、危険な魔獣だった。
「グルオオオォォォオォオォォォ!」
デビルゴートが雄叫びを上げ、こちらに迫ってくる。
動きは遅い。
巨体を揺らしながらのそのそと歩くさまはまるで、逃げてくれ、と言わんばかりに鈍重だ。
そして、今のクレハにはその動きが二重にも三重にもぼやけて見えていた。
どうやら先ほど木に叩きつけられた際、頭も打っていたようだ。全身が痛んでいて今の今まで気が付かなかった。
「くっ……」
クレハはよろけながらも距離を取ろうとする。
ふらふらと頼りない足取りで、デビルゴートから目を離さずゆっくりと後退る。
得物が逃げようとしてもデビルゴートの亀の歩みは変わらない。のそのそとゆっくり、じっくり得物を追い詰めるように迫る。
「〝炎鎖〟!」
クレハの左手に紅の魔法陣が展開される。
そこから伸びる三本の炎の鎖がデビルゴートに迫る。
「グルァ!」
だが、満身創痍で放った力の籠もっていない魔術など物ともしない、とばかりにデビルゴートは持っていた木の幹を振り回して魔術を霧散させる。
――いや、違う。
「〝焔〟!」
今度は炎の塊を飛ばす。紅の六芒星から放たれるソレは、クレハが最も得意とする炎熱系中位魔術だ。
しかし、今度はデビルゴートへと届く前に霧散してしまっていた。
「やはり……」
またこの霧だ。
深い霧が魔素を拡散させ、魔術の方程式を阻害、即ち魔術を魔術たらしめなくしているのだ。
「なんて厄介な……!」
やはり魔術は放てない。
かといって、頭がガンガンと痛み、歩くのがやっとの状態では大鎌など十全に振るえるはずもない。
魔素の動きが至近距離で完結する治癒魔術なら霧に阻害されず使えると思う。
だが、得意でも専門でもない治癒魔術を、クレハは詠唱破棄で唱えることが出来ない。
傷の具合からして最低でも中位以上の治癒魔術を唱える必要があるが、いくら鈍重とは言え詠唱する時間を与えてくれる程、目の前の魔物は甘い存在ではない。
(撤退するしか……!)
クレハに残されていたのは撤退することだけだった。
鈍重なデビルゴートは相変わらずのそのそとした動きで、ゴリゴリと木の幹を地面に引き摺りながらこちらに近付いてくる。
クレハは腰のポーチに入れていたポーションの瓶の口を割り、流し込むように口に含んだ。
ぼやけていた視界がいくらか明瞭になり、身体の痛みと頭痛も少しは引いた。
さすがに内臓の損傷と折れた肋骨までは完治しないが、これなら痛みを我慢すればほんの少しの間は走れる。
もう一度ポーチに手を入れ中を物色する。
目当ての物を掴めるだけ掴んで、デビルゴートが近付いてくるのを待った。
デビルゴートは眼の前の獲物がその場に留まったのを見て、遂に諦めたのかと歓喜の雄叫びを上げた。
当然、クレハは諦めたわけではなく魔素が減衰しない範囲に、デビルゴートが近付いてくるのを静かに待った。
ズンズンと地響きを鳴らしながら山羊の魔獣が迫ってくる。
(あと三歩……二歩)
今やクレハは完全にデビルゴートの間合いに入っていた。
さっきの一撃は完全に不意打ちだったが、当たりどころがよかったのでこの程度で済んでいた。
恐らく目の前の魔獣も、この霧で獲物がそこにいることくらいしか把握出来なかったのだろう。
だが、次はそうもいかない。
完全に視認されている今、あの太い幹で頭を殴りつけられれば首から上が骨ごと引き千切れるだろう。
それでもクレハは動かない。
今すぐにでも逃げ出し、走り出したいという弱い心を鋼の精神で抑え込み、その場に立ち続ける。
眼前に迫る山羊の魔獣が幹を大きく振りかぶった。
大上段からの振り下ろしでぺしゃんこにするつもりのようだ。
その隙を突く。
――今!
クレハは持っていたありったけの炸裂魔石をデビルゴートに投げ付けた。
「〝爆〟!」
辺りには響かないくぐもった炸裂音。
「グウウウゥアァアアアァァァアァァ!」
目の前で突然起きた爆発と閃光にデビルゴートが怯む。
その隙にクレハは脇目も振らず駆け出した。
「はっはっ……!」
これで倒せるほどデビルゴートにという魔獣は生易しい存在ではない。
精々が怯ませる程度だが、今のクレハにはこれが精一杯だった。
クレハは逃げる。
深い霧が立ち込める森の中を、時によろめき、時に木の根に足を取られ藻掻きながら走った。
右も左も、東も西も分からず、ただ無我夢中で逃げた。
先ほどから霧が更に濃くなってきている。もはや五米先がかろうじて見える程度だ。
同時に、饐えた臭いに鉄錆のような臭いが混じってきていた。
尋常ではない悪臭が鼻を突き、涙目になるのを抑えられなかった。
加えてこの鉄錆のような臭いに心当たりがあった。
(血の匂い……)
匂い立つソレは明らかに死臭だった。
――ぺちゃり。
何かを踏み付けた。
元から泥濘《ぬかる》んだ地面だったが、今のは明らかに水を踏んだ音だった。
そして気付く。
足元にガルムの死骸が転がっている。
それも一頭ではない。数頭の骸がそこいらに転がっていた。
今自分が踏み付けたのはガルムの血溜まりだった。
「………………」
血、というのはそれが魔術師のものであれ、魔物のものであれ固まるのは早いものだ。量にもよるが、一時間と経たずに大抵は固まるか乾燥してしまう。
そして、足元の血はまだ明らかに瑞々しい。
ガルムの死骸からは先ほどまで逃げ回っていたのか、湯気とでも形容すべきものまで立ち上っている。
――それらをクレハが考えていたのはほんの数瞬のことだった。
「グウウゥゥウゥルオオォォォ!」
クレハの意識がズレた瞬間に合わせたかのように、猛々しい雄叫びが耳に入った。
深い霧の中で明瞭に聞こえた雄叫び、それが表すところはつまり――。
右半身に鈍い衝撃が襲い掛かってきた。
「ぐっ!」
クレハは霧の中を水平に飛ばされた。
何本もの木を薙ぎ倒しながら七、八米は飛ばされたところで、木に身体全体がめり込むような形になってようやく止まる。
「がはっ! あっ、はぁ!」
赤黒い血反吐が己の意志とは無関係に吐き出される。
鮮血とは程遠いどす黒く染まった血は、内臓から溢れたものだ。肺か肝臓、膵臓辺りに相当なダメージが入り、肋骨も何本かやられただろう。
「ぐっ……ふぅふぅ」
大鎌を召喚し、柄を杖のようにして何とか立ち上がる。
膝が笑って転んだ。もう一度、木にも手を添えゆっくりと立ち上がる。
深い霧の中からソレは現れた。
体長は四米ほど。
筋骨隆々の肉体を二本の足で支え、手にはその辺で拾っただろう巨大な木の枝――ではなく、太い幹を持っている。
山羊の顔を持ち、頭からは二本の捻くれた角が生えている。
体毛は針のように鋭く、その目はまるで血を煮詰めたかのように赤黒い。
「デビルゴート……!」
ガルムやアウルベア、デビルズマンティスやギガホーネットといった指定外のなんちゃって魔物とは違い、ギルドへと討伐依頼が出されるような、危険な魔獣だった。
「グルオオオォォォオォオォォォ!」
デビルゴートが雄叫びを上げ、こちらに迫ってくる。
動きは遅い。
巨体を揺らしながらのそのそと歩くさまはまるで、逃げてくれ、と言わんばかりに鈍重だ。
そして、今のクレハにはその動きが二重にも三重にもぼやけて見えていた。
どうやら先ほど木に叩きつけられた際、頭も打っていたようだ。全身が痛んでいて今の今まで気が付かなかった。
「くっ……」
クレハはよろけながらも距離を取ろうとする。
ふらふらと頼りない足取りで、デビルゴートから目を離さずゆっくりと後退る。
得物が逃げようとしてもデビルゴートの亀の歩みは変わらない。のそのそとゆっくり、じっくり得物を追い詰めるように迫る。
「〝炎鎖〟!」
クレハの左手に紅の魔法陣が展開される。
そこから伸びる三本の炎の鎖がデビルゴートに迫る。
「グルァ!」
だが、満身創痍で放った力の籠もっていない魔術など物ともしない、とばかりにデビルゴートは持っていた木の幹を振り回して魔術を霧散させる。
――いや、違う。
「〝焔〟!」
今度は炎の塊を飛ばす。紅の六芒星から放たれるソレは、クレハが最も得意とする炎熱系中位魔術だ。
しかし、今度はデビルゴートへと届く前に霧散してしまっていた。
「やはり……」
またこの霧だ。
深い霧が魔素を拡散させ、魔術の方程式を阻害、即ち魔術を魔術たらしめなくしているのだ。
「なんて厄介な……!」
やはり魔術は放てない。
かといって、頭がガンガンと痛み、歩くのがやっとの状態では大鎌など十全に振るえるはずもない。
魔素の動きが至近距離で完結する治癒魔術なら霧に阻害されず使えると思う。
だが、得意でも専門でもない治癒魔術を、クレハは詠唱破棄で唱えることが出来ない。
傷の具合からして最低でも中位以上の治癒魔術を唱える必要があるが、いくら鈍重とは言え詠唱する時間を与えてくれる程、目の前の魔物は甘い存在ではない。
(撤退するしか……!)
クレハに残されていたのは撤退することだけだった。
鈍重なデビルゴートは相変わらずのそのそとした動きで、ゴリゴリと木の幹を地面に引き摺りながらこちらに近付いてくる。
クレハは腰のポーチに入れていたポーションの瓶の口を割り、流し込むように口に含んだ。
ぼやけていた視界がいくらか明瞭になり、身体の痛みと頭痛も少しは引いた。
さすがに内臓の損傷と折れた肋骨までは完治しないが、これなら痛みを我慢すればほんの少しの間は走れる。
もう一度ポーチに手を入れ中を物色する。
目当ての物を掴めるだけ掴んで、デビルゴートが近付いてくるのを待った。
デビルゴートは眼の前の獲物がその場に留まったのを見て、遂に諦めたのかと歓喜の雄叫びを上げた。
当然、クレハは諦めたわけではなく魔素が減衰しない範囲に、デビルゴートが近付いてくるのを静かに待った。
ズンズンと地響きを鳴らしながら山羊の魔獣が迫ってくる。
(あと三歩……二歩)
今やクレハは完全にデビルゴートの間合いに入っていた。
さっきの一撃は完全に不意打ちだったが、当たりどころがよかったのでこの程度で済んでいた。
恐らく目の前の魔獣も、この霧で獲物がそこにいることくらいしか把握出来なかったのだろう。
だが、次はそうもいかない。
完全に視認されている今、あの太い幹で頭を殴りつけられれば首から上が骨ごと引き千切れるだろう。
それでもクレハは動かない。
今すぐにでも逃げ出し、走り出したいという弱い心を鋼の精神で抑え込み、その場に立ち続ける。
眼前に迫る山羊の魔獣が幹を大きく振りかぶった。
大上段からの振り下ろしでぺしゃんこにするつもりのようだ。
その隙を突く。
――今!
クレハは持っていたありったけの炸裂魔石をデビルゴートに投げ付けた。
「〝爆〟!」
辺りには響かないくぐもった炸裂音。
「グウウウゥアァアアアァァァアァァ!」
目の前で突然起きた爆発と閃光にデビルゴートが怯む。
その隙にクレハは脇目も振らず駆け出した。
「はっはっ……!」
これで倒せるほどデビルゴートにという魔獣は生易しい存在ではない。
精々が怯ませる程度だが、今のクレハにはこれが精一杯だった。
クレハは逃げる。
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