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第28話 地獄の釜の蓋
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洞窟を出て、〝魔女の庭〟を再び歩き出した二人の行程は順調だった。
陽の光は霧に遮られ相変わらず薄暗かったが、昨日と比べれば随分と明るく感じる。
それだけでも心理的な負担は相当軽減される。
加えて、例の異臭もほんの少しだけマシになっているような気がした。
もっとも、こちらは鼻が馬鹿になってしまっている可能性の方が高かったが。
「そういえばさ」
クレハの右隣を歩くルーイが声を掛けた。
「オレは〝魔女の庭〟の見廻りをしてもう何年にもなるんだけどさ、いまだにこの不自然な霧と異臭の原因が分からねぇんだ」
ルーイは前を見据え、歩みを止めることなく続ける。
「街に残ってた文献やババアの家にあった古い記録を辿っても、詳細がまるで分からねぇ。王都の学者で、わざわざ〝封印の祠〟の調査をしに来た、ってくらいなんだし、クレハは何か知らないか?」
「………………」
ルーイは視線だけを向けるも、クレハは前を見据えたままだんまりを貫く。
眉一つ動かさなかったが、聞こえていないわけではないであろうことは明らかだった。
「心当たりがあるのか? というか、なにか事情を知ってるから、わざわざ大陸から離れたこんな辺鄙な島まで出張ってきたんだよな」
「………………」
「……別に何をどうしよう、ってわけじゃないんだし、協力の駄賃として教えられることくらい教えてくれてもいいだろ……」
「……話しても、信じてもらえるような内容ではありませんので」
「それは聞いてみないと分かんないだろ。っていうか、そんな堅い話じゃねぇよ。道中の世間話くらいに思ってくれていいし、話せないことは無理に話してくれなくてもいいからさ」
「……分かりました。確かにこの島に住む貴方は当事者ですしね。私が知る範囲で、話せるだけの内容で良ければお伝えしましょう」
「よろしく」
そう言ってクレハは話し出した。
だが、その内容はルーイが想像していたものとは全く別のものだった。
「神話の時代」
「おいおい」
「……聞く気がないのなら止めますが?」
「いや、聞く気はあるけど、いきなり神話の時代、とか改まって言われたら、誰だってこういう態度を取るだろ」
「物語を語る上で序章から始めるのは当然でしょう」
「物語を語ろうとしてたのかよ」
「分かりました。この話はここで「わーかった、分かった。聞くよ、聞きますよ」
ルーイの投げやりな態度をクレハはおもしろく思わなかったが、それでも彼女の中で何かが背中を押したのだろう。
歩みを止めずにゆっくりと語り出した。
「神話の時代、大陸ダーナは今のようなドーナツ型をしておらず、内海は存在していませんでした」
「マジで!?」
驚きを隠せず身体ごとクレハの方を向く。
対するクレハはジト目を返す。
「話の腰を折るのはやめて頂きたいのですが」
「わりぃ……いや、でも、それかなりショッキングな話だな」
「確かにそうですね。初めてこの話を聞かれる皆様は、概ねそういった反応を取られます」
「ほら、オレだけじゃな……すみませんでした。続けてください」
左手を向けられ素直に降参する。
こほん、と一つ咳払いを挟み、話を再開。
「内海が出来るキッカケとなったのは『とある魔物』でした。とはいえ便宜上、魔物と呼ぶだけでその生態も在り方も何もかも、現存する魔物とは一線を画す全くの別物ですが」
「そりゃそんな魔物が何頭もいたらたまったもんじゃないな。世界が何回滅ぶか分かんねぇ」
「実際その魔物は世界を半分以下にしてしまったわけですしね。――当事その魔物に対抗するべく神々は徒党を組み、魔物を討伐しようと試みました」
「神々って……っと」
会話を続けていた二人の視界に突如、岩壁が現れた。
斜面は凸凹と岩の突起が突き出ており、登攀《とうはん》に慣れている者なら登るのは容易く思えるが、天辺付近は霧に覆われていて見通せない。
クレハは視界を右から左へ振る。
霧が視界を遮っていて遠くまでは見渡せないが、岩壁は見える範囲の全てに広がっており、迂回するにしても左右どちらに進めばいいのか、見当もつかなかった。
困り顔を浮かべるクレハとは対照的に、ルーイは安堵とも思える息を一つ入れた。
「ようやくここまで辿り着いたか」
「ここは?」
「ここが最後の難関だ。ここさえ登攀《とうはん》すれば〝封印の祠〟はもうすぐだ」
「なるほど。最後にして最大の難関、というわけですね」
「そうでもねぇ……よっと!」
掛け声一つ、ルーイはおもむろに岸壁を登り出した。
両手足を駆使し器用に、時に突起から突起へと跳び移り、するすると大胆によじ登っていく。
クレハはその手慣れた様子を大したものだと眺めていたが、ふと我に返るとルーイを呼び止めた。
「お待ち下さい! ルーイ様、私にはそのような荒業は」
「だーいじょーぶ! 登攀したらロープで引き上げるから!」
そう言ったルーイはもう頭上高くまで登攀していた。彼の前世は間違いなく蜥蜴だ。クレハは確信した。
「まったく、貴方という方は……〝炎鎖〟!」
同時に左手を向け岩壁に向かって魔術を放った。
霧に遮られ威力を減衰させながらも炎の鎖は、ルーイに迫っていた蜥蜴のような魔獣に何とか命中し、絶命させた。
「さーんきゅー! クレハ! すぐロープを降ろすから、それまで耐えてくれー!」
ルーイの声がかろうじて聞こえたが、その姿はもう霞んでいる。
岩壁の途中から霧はまるで入道雲のように濃くなっており、あれよあれよと言う間にルーイの姿が見えなくなっていった。
「――なるほど」
クレハはアダマスの大鎌を召喚し、無造作に薙ぎ払った。
己に迫っていたガルムが三頭、どす黒い血を撒き散らしながら首と胴体が泣き別れとなる。
「こうなるならこうなるで、事前に伝えておいてくれればいいものを」
大鎌を右肩に担ぎ、独りごちる。
視界に映る範囲にはガルムが五、いや六頭いた。口から涎を垂らし、赤い目を爛々と輝かせ四肢に力を蓄えている。
今にも飛びかからんとする魔獣の群れを前に、クレハの心は凪いだ水面のように落ち着いていた。
ふぅ、と息をつき大鎌を構え直す。漆黒の大鎌から赤い雫が一滴、地面に落ちた。
それを合図と見たか、ガルムの群れが一斉に飛び掛かってくる。
鋭利な牙が、強靭な爪がクレハの肢体を引き裂かんと迫る。
それらをクレハは足取り軽く避ける。とても大鎌を構えたままとは思えない身のこなしだった。
最後に飛び掛かってきた一頭を避けながら、首に大鎌を振り下ろす。
屈強な筋肉と頑強な骨を、まるでトマトをスライスするかの如く、まとめて切り落とした。
残り五頭。
ガルムの群れは目の前の獲物の脅威度を一段階上げたようだった。岩壁を背に立つクレハを囲む包囲網をジリジリと狭めていく。
――一頭が仕掛けた。
今度は避けずに爪を正面から大鎌で受け止め、いや、受け流した。
長物で先端に重心のある大鎌は小回りが効かない。重量武器に分類される大鎌は、本来クレハのような小柄で華奢な体格の者が振るうような代物ではない。
しかし、クレハの鎌捌きは、己が手足を動かすかのように自然だ。
まるで舞を舞うかの如く、可憐で力強い。
この場に見る者がいれば、目を奪われているに違いなかった。
クレハが舞うごとに一頭、また一頭とガルムの群れは数を減らしていき。
とうとう最後の一頭になったところで、視界の端を一本のロープがかすめた。
どうやらルーイは無事に登攀出来たようだ。
意識をロープに向けた瞬間、好機とばかりに最後のガルムが飛び掛かってくる。
圧倒的な実力差を見せ付けられ、野生の動物であれば本能から早々に逃げるであろう場面であっても、魔獣は退かなかった。
それは魔獣ならではの本能。何よりも強い殺戮衝動の表れだった。
自らが生きるため、餌を得るために狩るのではない。
殺したいから狩る。その結果餌が得られる。故にこそ魔物は危険なのだ。
だが、今回は相手が悪過ぎた。
本能の赴くまま、より多くの獲物を狩るためには、ガルムたちは真っ先に逃げるべきだったのだ。
飛び掛かってきた最後の一頭の牙をするりと躱し、その首に大鎌の刃を当てる。
そのまま躊躇せず両手を引き、最後の一頭もやはり首と胴体が泣き別れとなった。
大太刀回りと言えるほどではなかったが、それでもこれだけの群れを相手にした後も、クレハは息一つ乱すことなくその場に佇んでいた。
大鎌を振るって血糊を払い落とし、と、頭上からルーイの叫び声が微かに聞こえた。
「クレ――! ――じょーぶ――!?」
魔獣が襲ってくるのを知っいた上で、自分を放置していった者の言い草とは思えなかったが、それだけ自分の実力を信用してくれたのだろう。
前向きに捉えることにした。
大鎌を収納し、ブーツの踵を鳴らしながらルーイが垂らしたロープを両手で掴み、足にも絡ませた後で二度引っ張った。
それを合図と受け取ったルーイがローブを引っ張りあげる。
するする勢いよく――とはいかない。
華奢とはいっても一人の女の子を、それもそれなりの装備を身に着けている状態で、滑車も介さずに引っ張り上げるのだ。
屈強とはいえないルーイの肉体ではギリギリだろう。
それでも難なく目測で半分ほど岩壁を登攀した頃、
「――おっも――」
聞こえた。
確かに聞こえた。
距離と声量、加えて霧に空気の振動を遮られ本来なら絶対に聞こえるはずがない状況だったが、身体能力強化の魔術で五感が鋭敏になっているクレハの耳は、年頃の乙女に対する絶対の禁句を確かに捉えた。
――いや、仮に何らかの魔術をかけていなくても、それはきっと見えない力で届いていただろう。
「………………」
ロープが引き上げられていく。
ゆっくりと確実に、少しづつクレハは岩壁の天辺に近付きつつある。
ルーイは己が何を引き上げているのか全く気付いていない。
地獄の釜の蓋が今、開こうとしていた。
陽の光は霧に遮られ相変わらず薄暗かったが、昨日と比べれば随分と明るく感じる。
それだけでも心理的な負担は相当軽減される。
加えて、例の異臭もほんの少しだけマシになっているような気がした。
もっとも、こちらは鼻が馬鹿になってしまっている可能性の方が高かったが。
「そういえばさ」
クレハの右隣を歩くルーイが声を掛けた。
「オレは〝魔女の庭〟の見廻りをしてもう何年にもなるんだけどさ、いまだにこの不自然な霧と異臭の原因が分からねぇんだ」
ルーイは前を見据え、歩みを止めることなく続ける。
「街に残ってた文献やババアの家にあった古い記録を辿っても、詳細がまるで分からねぇ。王都の学者で、わざわざ〝封印の祠〟の調査をしに来た、ってくらいなんだし、クレハは何か知らないか?」
「………………」
ルーイは視線だけを向けるも、クレハは前を見据えたままだんまりを貫く。
眉一つ動かさなかったが、聞こえていないわけではないであろうことは明らかだった。
「心当たりがあるのか? というか、なにか事情を知ってるから、わざわざ大陸から離れたこんな辺鄙な島まで出張ってきたんだよな」
「………………」
「……別に何をどうしよう、ってわけじゃないんだし、協力の駄賃として教えられることくらい教えてくれてもいいだろ……」
「……話しても、信じてもらえるような内容ではありませんので」
「それは聞いてみないと分かんないだろ。っていうか、そんな堅い話じゃねぇよ。道中の世間話くらいに思ってくれていいし、話せないことは無理に話してくれなくてもいいからさ」
「……分かりました。確かにこの島に住む貴方は当事者ですしね。私が知る範囲で、話せるだけの内容で良ければお伝えしましょう」
「よろしく」
そう言ってクレハは話し出した。
だが、その内容はルーイが想像していたものとは全く別のものだった。
「神話の時代」
「おいおい」
「……聞く気がないのなら止めますが?」
「いや、聞く気はあるけど、いきなり神話の時代、とか改まって言われたら、誰だってこういう態度を取るだろ」
「物語を語る上で序章から始めるのは当然でしょう」
「物語を語ろうとしてたのかよ」
「分かりました。この話はここで「わーかった、分かった。聞くよ、聞きますよ」
ルーイの投げやりな態度をクレハはおもしろく思わなかったが、それでも彼女の中で何かが背中を押したのだろう。
歩みを止めずにゆっくりと語り出した。
「神話の時代、大陸ダーナは今のようなドーナツ型をしておらず、内海は存在していませんでした」
「マジで!?」
驚きを隠せず身体ごとクレハの方を向く。
対するクレハはジト目を返す。
「話の腰を折るのはやめて頂きたいのですが」
「わりぃ……いや、でも、それかなりショッキングな話だな」
「確かにそうですね。初めてこの話を聞かれる皆様は、概ねそういった反応を取られます」
「ほら、オレだけじゃな……すみませんでした。続けてください」
左手を向けられ素直に降参する。
こほん、と一つ咳払いを挟み、話を再開。
「内海が出来るキッカケとなったのは『とある魔物』でした。とはいえ便宜上、魔物と呼ぶだけでその生態も在り方も何もかも、現存する魔物とは一線を画す全くの別物ですが」
「そりゃそんな魔物が何頭もいたらたまったもんじゃないな。世界が何回滅ぶか分かんねぇ」
「実際その魔物は世界を半分以下にしてしまったわけですしね。――当事その魔物に対抗するべく神々は徒党を組み、魔物を討伐しようと試みました」
「神々って……っと」
会話を続けていた二人の視界に突如、岩壁が現れた。
斜面は凸凹と岩の突起が突き出ており、登攀《とうはん》に慣れている者なら登るのは容易く思えるが、天辺付近は霧に覆われていて見通せない。
クレハは視界を右から左へ振る。
霧が視界を遮っていて遠くまでは見渡せないが、岩壁は見える範囲の全てに広がっており、迂回するにしても左右どちらに進めばいいのか、見当もつかなかった。
困り顔を浮かべるクレハとは対照的に、ルーイは安堵とも思える息を一つ入れた。
「ようやくここまで辿り着いたか」
「ここは?」
「ここが最後の難関だ。ここさえ登攀《とうはん》すれば〝封印の祠〟はもうすぐだ」
「なるほど。最後にして最大の難関、というわけですね」
「そうでもねぇ……よっと!」
掛け声一つ、ルーイはおもむろに岸壁を登り出した。
両手足を駆使し器用に、時に突起から突起へと跳び移り、するすると大胆によじ登っていく。
クレハはその手慣れた様子を大したものだと眺めていたが、ふと我に返るとルーイを呼び止めた。
「お待ち下さい! ルーイ様、私にはそのような荒業は」
「だーいじょーぶ! 登攀したらロープで引き上げるから!」
そう言ったルーイはもう頭上高くまで登攀していた。彼の前世は間違いなく蜥蜴だ。クレハは確信した。
「まったく、貴方という方は……〝炎鎖〟!」
同時に左手を向け岩壁に向かって魔術を放った。
霧に遮られ威力を減衰させながらも炎の鎖は、ルーイに迫っていた蜥蜴のような魔獣に何とか命中し、絶命させた。
「さーんきゅー! クレハ! すぐロープを降ろすから、それまで耐えてくれー!」
ルーイの声がかろうじて聞こえたが、その姿はもう霞んでいる。
岩壁の途中から霧はまるで入道雲のように濃くなっており、あれよあれよと言う間にルーイの姿が見えなくなっていった。
「――なるほど」
クレハはアダマスの大鎌を召喚し、無造作に薙ぎ払った。
己に迫っていたガルムが三頭、どす黒い血を撒き散らしながら首と胴体が泣き別れとなる。
「こうなるならこうなるで、事前に伝えておいてくれればいいものを」
大鎌を右肩に担ぎ、独りごちる。
視界に映る範囲にはガルムが五、いや六頭いた。口から涎を垂らし、赤い目を爛々と輝かせ四肢に力を蓄えている。
今にも飛びかからんとする魔獣の群れを前に、クレハの心は凪いだ水面のように落ち着いていた。
ふぅ、と息をつき大鎌を構え直す。漆黒の大鎌から赤い雫が一滴、地面に落ちた。
それを合図と見たか、ガルムの群れが一斉に飛び掛かってくる。
鋭利な牙が、強靭な爪がクレハの肢体を引き裂かんと迫る。
それらをクレハは足取り軽く避ける。とても大鎌を構えたままとは思えない身のこなしだった。
最後に飛び掛かってきた一頭を避けながら、首に大鎌を振り下ろす。
屈強な筋肉と頑強な骨を、まるでトマトをスライスするかの如く、まとめて切り落とした。
残り五頭。
ガルムの群れは目の前の獲物の脅威度を一段階上げたようだった。岩壁を背に立つクレハを囲む包囲網をジリジリと狭めていく。
――一頭が仕掛けた。
今度は避けずに爪を正面から大鎌で受け止め、いや、受け流した。
長物で先端に重心のある大鎌は小回りが効かない。重量武器に分類される大鎌は、本来クレハのような小柄で華奢な体格の者が振るうような代物ではない。
しかし、クレハの鎌捌きは、己が手足を動かすかのように自然だ。
まるで舞を舞うかの如く、可憐で力強い。
この場に見る者がいれば、目を奪われているに違いなかった。
クレハが舞うごとに一頭、また一頭とガルムの群れは数を減らしていき。
とうとう最後の一頭になったところで、視界の端を一本のロープがかすめた。
どうやらルーイは無事に登攀出来たようだ。
意識をロープに向けた瞬間、好機とばかりに最後のガルムが飛び掛かってくる。
圧倒的な実力差を見せ付けられ、野生の動物であれば本能から早々に逃げるであろう場面であっても、魔獣は退かなかった。
それは魔獣ならではの本能。何よりも強い殺戮衝動の表れだった。
自らが生きるため、餌を得るために狩るのではない。
殺したいから狩る。その結果餌が得られる。故にこそ魔物は危険なのだ。
だが、今回は相手が悪過ぎた。
本能の赴くまま、より多くの獲物を狩るためには、ガルムたちは真っ先に逃げるべきだったのだ。
飛び掛かってきた最後の一頭の牙をするりと躱し、その首に大鎌の刃を当てる。
そのまま躊躇せず両手を引き、最後の一頭もやはり首と胴体が泣き別れとなった。
大太刀回りと言えるほどではなかったが、それでもこれだけの群れを相手にした後も、クレハは息一つ乱すことなくその場に佇んでいた。
大鎌を振るって血糊を払い落とし、と、頭上からルーイの叫び声が微かに聞こえた。
「クレ――! ――じょーぶ――!?」
魔獣が襲ってくるのを知っいた上で、自分を放置していった者の言い草とは思えなかったが、それだけ自分の実力を信用してくれたのだろう。
前向きに捉えることにした。
大鎌を収納し、ブーツの踵を鳴らしながらルーイが垂らしたロープを両手で掴み、足にも絡ませた後で二度引っ張った。
それを合図と受け取ったルーイがローブを引っ張りあげる。
するする勢いよく――とはいかない。
華奢とはいっても一人の女の子を、それもそれなりの装備を身に着けている状態で、滑車も介さずに引っ張り上げるのだ。
屈強とはいえないルーイの肉体ではギリギリだろう。
それでも難なく目測で半分ほど岩壁を登攀した頃、
「――おっも――」
聞こえた。
確かに聞こえた。
距離と声量、加えて霧に空気の振動を遮られ本来なら絶対に聞こえるはずがない状況だったが、身体能力強化の魔術で五感が鋭敏になっているクレハの耳は、年頃の乙女に対する絶対の禁句を確かに捉えた。
――いや、仮に何らかの魔術をかけていなくても、それはきっと見えない力で届いていただろう。
「………………」
ロープが引き上げられていく。
ゆっくりと確実に、少しづつクレハは岩壁の天辺に近付きつつある。
ルーイは己が何を引き上げているのか全く気付いていない。
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