10 / 21
10
しおりを挟む
父の分からぬ自分、紫仙の優しい眼差し、紫央の母から向けられる憎しみ、世間から身を隠すようにこの場所にいた祖父。そしてこの場所ごと、過去と息子を捨てた母。
さあっと血の気が引いてきた。震える指で、何とか薔薇柄のカップをソーサーに置いた。
「妻子を本宅に残してもここに入り浸っていたわけは、そういうわけなんじゃないかってね。君も共に暮らしていて、何か思い当たる節はあったのじゃないかね?」
「俺は……」
二の句を告げずにいる薔太にとどめを刺すように、教授はにいっと微笑んだ。
「私は君とあの美男の館長さんの関係も気になって仕方がないね。まるで君たちは紫仙先生と君の家族の因縁の『煮凝り』のようだ。震えがくるよ。興味深くてたまらんね。だからこそ、ぜひ私も君にあの小説を読んだ意見を伺いたいものだ」
※※※
その晩、紫央が金蘭亭に帰ってきたのは夜もとっぷりと日が暮れてからだった。耳の良い薔太は表に車が止まった音にすぐ気づく。待ちわびた男を迎えようと、浅葱色の有松絞りの浴衣の裾を乱して玄関まで走り寄って行った。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「くしゅっ」
昼間の予想通り、夕刻から降り出した雨ですっかり気温が下がってしまった。小さなくしゃみをした薔太の髪の間に手を入れて、紫央は秀麗な眉目を顰めた。
「髪がまだ湿ってる。これでは湯冷めして、風邪をひいてしまう。すぐ床につきなさい」
紫央は着ていた背広を脱ぐと薔太の薄い肩に着せかけてくれる。薔太は頬を染めつつ、上目遣いに紫央の双眸をひたと見つめてから首を振る。
「いやだ。今まで紫央さんが帰ってくるの待ってたんだから」
それでなくとも昼間の出来事が尾を引いて眠れそうにない。せっかく今日はマンションでなくこちらに紫央が戻っているのだからどうしても話がしたかった。
「可愛いことを言ってくれるね」
背後でタクシーが静かに出発した。薔太はそのまま頭を引き寄せられて一度ぎゅっと抱擁を受ける。
母がもしも紫仙の若い愛人だったのならば、何故祖父はそんなことを許したのだろうか。それともその時は母と紫仙は相愛であったのか? 分からない。そしてもしも紫仙が自分の父親ならば、紫央と自分は……。
(俺としぃちゃんは叔父と甥の関係になるんだ)
男女ならば婚姻が許されぬほどに血が濃いことになる。
なんだか昼間から腹のあたりによどんでいた心細い気持ちが込み上げて、自ら紫央の広い背に手を回してしがみつく。
「どうしたんだ? 今日はずいぶん甘えただな」
頭の中をぐるぐると回る問い。気を許したらすぐにでも『しぃちゃんはどこまで知っているの?』と口から零れそうになってしまう。ぐっと瞼を瞑り、温みを感じてひと心地つくと、薔太は紫央を気遣った。
「……紫央さんも身体が冷えてしまいます。早くお風呂で温まってきてください」
「そうするよ。明日から数日休みをとった。仕事を片づけていて中々こちらに顔を出せずにすまなかった。薔太の成人祝いがおざなりになってしまったから、急だが近場に旅に出てもいいと思っている。どこか行きたいところは?」
一週間もこちらに顔を出さなかった理由はそれだったのかと、合点がいって嬉しくなった。てっきり婚約話が進んでしまい、こちらと疎遠になっていくのかと気を揉んでいたからだ。紫央からの思いがけない申し出に心が躍ったが、薔太は控えめに微笑んで背の高い彼をじっと見あげた。
紫央の本当は何もかも見透かしているのではないかと思うような深い藍色の瞳は本当に美しい。見惚れながら薔太は囁いた。
「嬉しいです。紫央さんとここでゆっくりお休みを過ごせたら、俺はそれで十分です」
そう一度言葉を区切ってから、一度紫央の胸にこつんと額をうち付けた。
「薔太?」
そののち意を決し、薔太は紫央のシャツの袖をぎゅっと掴む。紫央はどうしたんだ? といわんばかりに僅かに首を傾げた。
「あのね。紫央さん。俺、今晩、どうしても話をしたいことがあって……」
「分かったよ。では部屋で暖かくして待っていなさい」
紫央は逆の手で薔太の頭を童にするように撫ぜる。薔太は潤みかけた瞳を伏せて大きく頷いた。
「はい。よろしくお願いいたします」
金蘭亭の設備は建てた当初から変わらぬ部分の他に、非公開にしている主に水回りの設備が存在している。
小さな屋敷を『母屋』とするならば、庭の手入れの道具を片づけた小屋とその裏にある平屋の『離れ』が祖父の洋紅と薔太が暮らしていた場所だった。
紫仙はこの他にもいくつか屋敷を持っていたので、いつでもここにいるわけではなかったらしい。しかし妻を亡くしてからの最晩年は、完全にこちらに居を移した。
通いの家政婦さんの作る食事をとったり、たまには祖父とテラスで晩酌をしたりと心穏やかに暮らしていたのだ。
さあっと血の気が引いてきた。震える指で、何とか薔薇柄のカップをソーサーに置いた。
「妻子を本宅に残してもここに入り浸っていたわけは、そういうわけなんじゃないかってね。君も共に暮らしていて、何か思い当たる節はあったのじゃないかね?」
「俺は……」
二の句を告げずにいる薔太にとどめを刺すように、教授はにいっと微笑んだ。
「私は君とあの美男の館長さんの関係も気になって仕方がないね。まるで君たちは紫仙先生と君の家族の因縁の『煮凝り』のようだ。震えがくるよ。興味深くてたまらんね。だからこそ、ぜひ私も君にあの小説を読んだ意見を伺いたいものだ」
※※※
その晩、紫央が金蘭亭に帰ってきたのは夜もとっぷりと日が暮れてからだった。耳の良い薔太は表に車が止まった音にすぐ気づく。待ちわびた男を迎えようと、浅葱色の有松絞りの浴衣の裾を乱して玄関まで走り寄って行った。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「くしゅっ」
昼間の予想通り、夕刻から降り出した雨ですっかり気温が下がってしまった。小さなくしゃみをした薔太の髪の間に手を入れて、紫央は秀麗な眉目を顰めた。
「髪がまだ湿ってる。これでは湯冷めして、風邪をひいてしまう。すぐ床につきなさい」
紫央は着ていた背広を脱ぐと薔太の薄い肩に着せかけてくれる。薔太は頬を染めつつ、上目遣いに紫央の双眸をひたと見つめてから首を振る。
「いやだ。今まで紫央さんが帰ってくるの待ってたんだから」
それでなくとも昼間の出来事が尾を引いて眠れそうにない。せっかく今日はマンションでなくこちらに紫央が戻っているのだからどうしても話がしたかった。
「可愛いことを言ってくれるね」
背後でタクシーが静かに出発した。薔太はそのまま頭を引き寄せられて一度ぎゅっと抱擁を受ける。
母がもしも紫仙の若い愛人だったのならば、何故祖父はそんなことを許したのだろうか。それともその時は母と紫仙は相愛であったのか? 分からない。そしてもしも紫仙が自分の父親ならば、紫央と自分は……。
(俺としぃちゃんは叔父と甥の関係になるんだ)
男女ならば婚姻が許されぬほどに血が濃いことになる。
なんだか昼間から腹のあたりによどんでいた心細い気持ちが込み上げて、自ら紫央の広い背に手を回してしがみつく。
「どうしたんだ? 今日はずいぶん甘えただな」
頭の中をぐるぐると回る問い。気を許したらすぐにでも『しぃちゃんはどこまで知っているの?』と口から零れそうになってしまう。ぐっと瞼を瞑り、温みを感じてひと心地つくと、薔太は紫央を気遣った。
「……紫央さんも身体が冷えてしまいます。早くお風呂で温まってきてください」
「そうするよ。明日から数日休みをとった。仕事を片づけていて中々こちらに顔を出せずにすまなかった。薔太の成人祝いがおざなりになってしまったから、急だが近場に旅に出てもいいと思っている。どこか行きたいところは?」
一週間もこちらに顔を出さなかった理由はそれだったのかと、合点がいって嬉しくなった。てっきり婚約話が進んでしまい、こちらと疎遠になっていくのかと気を揉んでいたからだ。紫央からの思いがけない申し出に心が躍ったが、薔太は控えめに微笑んで背の高い彼をじっと見あげた。
紫央の本当は何もかも見透かしているのではないかと思うような深い藍色の瞳は本当に美しい。見惚れながら薔太は囁いた。
「嬉しいです。紫央さんとここでゆっくりお休みを過ごせたら、俺はそれで十分です」
そう一度言葉を区切ってから、一度紫央の胸にこつんと額をうち付けた。
「薔太?」
そののち意を決し、薔太は紫央のシャツの袖をぎゅっと掴む。紫央はどうしたんだ? といわんばかりに僅かに首を傾げた。
「あのね。紫央さん。俺、今晩、どうしても話をしたいことがあって……」
「分かったよ。では部屋で暖かくして待っていなさい」
紫央は逆の手で薔太の頭を童にするように撫ぜる。薔太は潤みかけた瞳を伏せて大きく頷いた。
「はい。よろしくお願いいたします」
金蘭亭の設備は建てた当初から変わらぬ部分の他に、非公開にしている主に水回りの設備が存在している。
小さな屋敷を『母屋』とするならば、庭の手入れの道具を片づけた小屋とその裏にある平屋の『離れ』が祖父の洋紅と薔太が暮らしていた場所だった。
紫仙はこの他にもいくつか屋敷を持っていたので、いつでもここにいるわけではなかったらしい。しかし妻を亡くしてからの最晩年は、完全にこちらに居を移した。
通いの家政婦さんの作る食事をとったり、たまには祖父とテラスで晩酌をしたりと心穏やかに暮らしていたのだ。
42
あなたにおすすめの小説
怒られるのが怖くて体調不良を言えない大人
こじらせた処女
BL
幼少期、風邪を引いて学校を休むと母親に怒られていた経験から、体調不良を誰かに伝えることが苦手になってしまった佐倉憂(さくらうい)。
しんどいことを訴えると仕事に行けないとヒステリックを起こされ怒られていたため、次第に我慢して学校に行くようになった。
「風邪をひくことは悪いこと」
社会人になって1人暮らしを始めてもその認識は治らないまま。多少の熱や頭痛があっても怒られることを危惧して出勤している。
とある日、いつものように会社に行って業務をこなしていた時。午前では無視できていただるけが無視できないものになっていた。
それでも、自己管理がなっていない、日頃ちゃんと体調管理が出来てない、そう怒られるのが怖くて、言えずにいると…?
ビジネス婚は甘い、甘い、甘い!
ユーリ
BL
幼馴染のモデル兼俳優にビジネス婚を申し込まれた湊は承諾するけれど、結婚生活は思ったより甘くて…しかもなぜか同僚にも迫られて!?
「お前はいい加減俺に興味を持て」イケメン芸能人×ただの一般人「だって興味ないもん」ーー自分の旦那に全く興味のない湊に嫁としての自覚は芽生えるか??
【完結・BL】春樹の隣は、この先もずっと俺が良い【幼馴染】
彩華
BL
俺の名前は綾瀬葵。
高校デビューをすることもなく入学したと思えば、あっという間に高校最後の年になった。周囲にはカップル成立していく中、俺は変わらず彼女はいない。いわく、DTのまま。それにも理由がある。俺は、幼馴染の春樹が好きだから。だが同性相手に「好きだ」なんて言えるはずもなく、かといって気持ちを諦めることも出来ずにダラダラと片思いを続けること早数年なわけで……。
(これが最後のチャンスかもしれない)
流石に高校最後の年。進路によっては、もう春樹と一緒にいられる時間が少ないと思うと焦りが出る。だが、かといって長年幼馴染という一番近い距離でいた関係を壊したいかと問われれば、それは……と踏み込めない俺もいるわけで。
(できれば、春樹に彼女が出来ませんように)
そんなことを、ずっと思ってしまう俺だが……────。
*********
久しぶりに始めてみました
お気軽にコメント頂けると嬉しいです
■表紙お借りしました
記憶を無くしたら家族に愛されました
レン
BL
リオンは第三王子で横暴で傲慢で侍女や執事が少しでも気に入らなかったら物を投げたり怒鳴ったりする。家族の前でも態度はあまり変わらない…
家族からも煩わしく思われたていて嫌われていた… そんなある日階段から落ちて意識をなくした…数日後目を覚ましたらリオンの様子がいつもと違くて…
勇者様への片思いを拗らせていた僕は勇者様から溺愛される
八朔バニラ
BL
蓮とリアムは共に孤児院育ちの幼馴染。
蓮とリアムは切磋琢磨しながら成長し、リアムは村の勇者として祭り上げられた。
リアムは勇者として村に入ってくる魔物退治をしていたが、だんだんと疲れが見えてきた。
ある日、蓮は何者かに誘拐されてしまい……
スパダリ勇者×ツンデレ陰陽師(忘却の術熟練者)
バツイチ上司が、地味な僕を特別扱いしてくる
衣草 薫
BL
理性的でクールなバツイチ上司・桐原恒一は、過去の失敗から、もう誰も必要としないと決めて生きてきた。
男が好きだという事実を隠し、「期待しなければ傷つかない」と思い込んできた部下・葉山直。
すれ違いと誤解の果てに、直が職場を去ろうとしたとき、恒一は初めて“追いかける”ことを選ぶ。
選ばれないと信じてきた直と、逃げないと決めた恒一。
二人の距離が近づくことで、直は「ここにいていい」と思える場所を見つけていく。
元ノンケ上司×自己肯定感低め部下の社会人BL。※ハッピーエンド保証。
【完結】後悔は再会の果てへ
関鷹親
BL
日々仕事で疲労困憊の松沢月人は、通勤中に倒れてしまう。
その時に助けてくれたのは、自らが縁を切ったはずの青柳晃成だった。
数年ぶりの再会に戸惑いながらも、変わらず接してくれる晃成に強く惹かれてしまう。
小さい頃から育ててきた独占欲は、縁を切ったくらいではなくなりはしない。
そうして再び始まった交流の中で、二人は一つの答えに辿り着く。
末っ子気質の甘ん坊大型犬×しっかり者の男前
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる