香りの献身 Ωの香水

天埜鳩愛

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溺愛編

あの山里へ5

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 アガが狼のように大きな口元に不敵な笑みを浮かべて、大きな酒瓶を床から持ち上げて机の上にどかっと置いた。
 セラフィンは二人の間に置かれたその一つきりの青銅杯に同じぐらいなみなみと琥珀色のそれをつぎ微笑みながら返杯した。それを今度はアガが厚みも大きさも半端なくなめし皮のような手でがっと掴むと一息にそれを飲み干した。この速度でやり取りが続くのだろうなと思うと、潰れる覚悟すらすべきなのだろうが、ヴィオの様子を一時も逃したくない気持ちを強く念じて自分を奮い立たせる。

(結構強い酒だな。胃の腑が焼け付く)

 酒が弱い方ではないセラフィンだが、中央からオメガフェロモンの漏れるヴィオを連れてきたことで常に気を張り続けたことに加え、長距離の移動からの間髪入れずの山登りと気持ちを裏切る様に身体の重みをやはり二十代の頃よりは酔いを強めに感じる。

 しかしすぐさま返された杯を今度はアガが酒を継ぎ足し、飲み干したら小気味よく音を立てて杯を置く。二人の間に杯が行ったり来たりし、何往復もの終わらぬ応酬を見せはじめた。

 そうしている間にもストーブの上に置かれた鍋が食欲をそそる香りを振りまき、ぐつぐつと音を立て煮込まれていったが、二人はそれには目もくれず相手を半ば睨みつけながら酒を飲み干すことに集中していた。しかし思いがけず、すまし顔のセラフィンの腹がぐうっと音を立てて鳴ってしまったのだ。

 この人生の大事な局面での粗相に自分でも驚いて目をまん丸にしたセラフィンに、アガも気が付いて思わず周りの空気が振れるほどの豪快な笑い声を立てた。

「はっはっは。先生みたいに作り物みたいに綺麗な顔した人でも腹が減ると音が鳴るんだな。これは愉快だな」
「揶揄わないでください。流石にあれほど動いたら腹ぐらい減ります。それにすきっ腹に酒は医者としてはあまりお勧めできません」

 そんな風に素直に白状し、セラフィンは素の表情で美貌をきまり悪げに赤らめる。まるで格好がつかないが、しかしそれですっかり空気が和んだ。アガが小さな食器棚を開けて椀を二つとさらに杯を一つ取り出すと、豪快に盛り付けて匙と共にセラフィンの前に差し出した。

「まあ、喰おう。ヴィオはそのうち起きるだろう」
「わかりました」

 二人はまた無言になって張り合う様に滋味あふれる汁ものを腹の中にかきこみ、勝負にでも戻るかのように椀を次々に綺麗に平らげた。

 ランプの明かりを反射して光る金色の環を帯びた瞳が常にセラフィンの姿を検分している。
 再び新しい青銅杯を差し出されて、それをまた玲瓏とした美貌で負けじと飲みつづけ、セラフィンの頬が今度は酒でほの赤く色めき上気したころ、よくに日焼けて顔色が変わっているかすら分からぬアガに向かって一礼した。

「ヴィオと番になることをお許しいただきく、参りました」

 アガはセラフィンの真摯な告白には応えず、しばし黙りこんだ。パチっと薪が爆ぜ、耳を澄ますとヴィオの小さな寝息まで聞こえてくるほどの静寂の中、今度はアガのほうがセラフィンに向かって頭を下げてきたのだ。

「先生。森の学校を作る時も中央で蔭日向に尽力してくださったこと、貴方をずっと慕い続けたヴィオが突然無鉄砲にも訪ねて行って多忙な貴方に多大なるご迷惑をかけたこと。その後未成熟なオメガであるヴィオを今まで無事に保護し続けて下さったこと、感謝してもしきれない。礼を言わせてくれ。ありがとう」

 父親としてのけじめをつけているのであろう、背筋を伸ばしたその姿にセラフィンが一瞬怯んで息をのんで、机の下で膝の上で拳をぎゅっと握りしめた。

「それでは……お許しくださると?」
「許すも許さないも。俺はヴィオの意志を直接聞いたわけではない」

 そんな風に今度はぴしゃりと言い切って、またアガは明言を避けたのだ。肝心のヴィオが眠っているのでは確認のさせようがない。こればかりは焦っても仕方がないとセラフィンは苦笑して杯に口をつけてほろ苦い酒を飲み干した。そしてこのまま押し通してもしも意固地になられて良い方向に進まぬと判断して話題を巧みに変えていった。

「先日クイン・ソートへのご挨拶も兼ねて、中央で湖水地方に住む、サンダさんのところにヴィオと訪ねました」

 顔色一つ変えないかと思ったが、白髪の混じった太く男らしい眉をアガは僅かに顰めた。

「ふん。サンダのやつか……」
「お元気でいらっしゃいました。みなさんとても良い方ばかりで。ヴィオに会えてとても喜んでいましたよ」

 視線を月明かりに照らされくうくうと寝息を立てていそうなヴィオのあどけない寝顔に向けてセラフィンは穏やかに微笑んだ。

「ヴィオは……。誰からも愛される心根がまっすぐな気性で、俺はそれをいつまでも守っていきたいと思っています」

 アガが再び杯に口をつける間、僅かな沈黙が流れ、再びストーブがぱちぱちと音をたてた。風が強くなってきたのか、窓の外ではざわざわと梢が揺れて、物寂しいほど気温が下がっていくのを肌で感じる。ややあって、アガが再び口を開いた。

「あれを。……中央に連れていくのか」
「それこそ、ヴィオの口から直接聞いて下さい」

 食えぬ妖艶な笑顔にアガはぐうっと詰まった。
 出会いがかつて妻を可愛がってくれた叔父最大の恩人という立場にいたセラフィンは、やはりアガにとってはやりにくい相手なのだろう。
 暗がりの中、アガの困惑する気配を感じセラフィンは酒の酔いも手伝って次第に饒舌になっていった。

「アガさん。ルピナさんと出会った時、あなたはどんなお気持ちでしたか」

 今は亡き最愛の番と出会った時の話だ。それはあまりに踏み込んだ内容だったが、今この瞬間出なければ生涯聞くことができぬとセラフィンは無意識にそう考えていた。そして二人きりの今ならば、アガは素直に答えてくれそうなそんな気もしていた。

「……どこを見渡しても山しか見えぬ里の中で育った俺にとって、国中歩いて回る行商にいたルピナはこの世界そのものだった。くれる眼差し一つで俺にこの世の全ての幸福を与えてくれたが、いつかは離れ離れになると考えたら苦くて。息も付けぬほどの胸の痛みというものが存在するのだとも俺に教えてくれた。幼いころから番にと定められたものは他にもいたんだが、どうしてもルピナを諦めきれなかった。ドリの里を生涯離れず守る誓いを立ててルピナと番になりたいと両方の父に額づいて頼み込んだ」

 まだ成人する直前だった愛娘。跡取りの息子はまだ幼く、彼女は父の仕事の片腕、行商の要にもなりつつあった。ソート派にとっても大きな痛手だったはずだが、それでもルピナの気持ちを尊重してアガと娶せてくれたのだ。
 そして今、その時義父が感じたであろう強い喪失感をアガは感じていた。

 ルピナ亡き後アガの生きる理由であった我が子を番にと望む男が、アガの目の前で静かだが燃えるような情熱をもって佇んでいる。
 歴史は巡ると苦々しく思うが、それがアガには宿命のようにも思えた。
 番であるルピナを失い、身体の半分がはぎ取られたようなこの世に半分意識を持たぬ抜け殻のようになった。それでもアガを妻の待つ天空に向かわせず、地上に留めていたのは子どもたちが傍にいたからだ。今度はその一人が離れていこうとしている。アガはぐっと皺が寄るほどに瞼を閉じて両腕を胸の前で組んだ。
 そんな無意識の拒絶を感じつつも、セラフィンは酒に呑まれぬように意識を集中させつつ、努めて穏やかな声で語り掛けていくことにした。









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