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夢ノ五
夢ノ五 火事場の迷子《ホ》
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それからも何度か御救小屋に足を運び、欄干の張り紙の確認にも毎日通っているが、啓太を探している親は一向に見付からなかった。
辰吉と暮らし始めた当初は強張っていた啓太の表情は、段々と緩んできて笑顔を見せる機会が多くなった。
火事場で随分と怖い思いをしただろうから表情が強張るのは仕方のない。
親とはぐれた不安も大きいだろう。
辰吉との暮らしが、今の啓太に安堵を与えているのは確かだった。
しかし、辰吉の心には幾分かの不安も湧き始めた。
このまま親が見つからなかったら、啓太は寂しい思いをするのだろう。
自分のような身寄りのない人間にはしたくない。
早く親を見つけてやりたいと思う。
だが、憂慮する訳はそれだけではなかった。
啓太が来てから、明らかに夢をみる夜が増えた。
あの夢は、辰吉の心を揺るがせる。
火事場において、その足を鈍らせる。
それが辰吉の心を焦らせる要因の一つでもあった。
間の悪い事態とは続くものだ。
この夜も、火事があった。
半鐘の音が遠い間隔で鳴っている。
火事はまだ遠いらしい。
啓太に半纏を着せて外に飛び出す。
「お春! 啓太を頼む!」
「辰さん!」
ちょうど部屋から出てきたお春に抱きかかえていた啓太を手渡す。
辰吉は火事装束に着替えて長屋を出た。
火事場に着くと、既に纏持ちが屋根に上がって纏を振り上げていた。
「火元は、ここか」
燃え盛る火を、じっと見詰める。
目の前の火事が夢の光景とだぶって見えて、子供の泣き声が頭の中に木霊する。
(畜生、こんな時に)
いつもなら何も考えずに飛び込んでいけるのに、体が強張って動けない。
じりっと地を踏みしめて、意を決して体を前に出す。
「辰!」
飛び出そうとした時、後ろから権兵衛の声が飛んできた。
はっとして振り返る。
「頭! 俺も屋根に……」
「待て、手前ぇは人を誘導しろ。あっちだ」
「けどっ……」
前のめりになる辰吉の肩を掴んだ手に、権兵衛がぐっと力を籠めた。
「辰、絶対に無理はするんじゃぁねぇ。手前ぇの為だけじゃぁねぇ、他の皆の為でもある。わかるな」
辰吉は悔しそうに下唇を噛んで俯いた。
「辰吉」
駄目押しのように掴んだ肩を揺すられて、辰吉は顔を上げた。
「わかりやした。行きやす」
頷いて踵を返すと、辰吉は人混みへ走って行った。
後姿を沈痛な面持ちで見送って、権兵衛が現場に戻っていった。
「おーい! こっちだ! 急げ!」
人々の波を火除け地へ誘導しながら、ふと、遠くの空に舞う火の粉を見上げる。
赤く染まる空に、半鐘の音が鳴り響いている。
辰吉は未練を断ち切るように首を振って、目の前の仕事に集中した。
「気を付けろ! 押すなよ!」
半刻程で粗方の人々は避難を終えた。
火の手もだいぶ落ち着いて、いつの間にか半鐘の音は消えていた。
人の誘導を終えて、辰吉は火元の家の前に戻った。
真っ黒に煤けた瓦礫が転がり、木の焦げた匂いが辺り一面に充満している。
焼け跡や瓦礫を、只々じっと眺めていた。
「死人は出なかったとよ。火はでかかったが怪我人も少なくて済んだみてぇだし、重畳だ」
権兵衛の声に、ゆっくり振り返る。
「頭……」
振り返った辰吉の顔を見て、権兵衛は苦笑した。
「何でぇ、しけた面しやがって。手前ぇは立派に役目を熟したじゃねぇか」
言葉なく俯く辰吉の肩を、権兵衛は優しく叩いた。
「いつまでも、気に病むんじゃぁ、ねぇぞ」
小さく一言だけ残して、権兵衛は仲間たちの元に走って行った。
「頭……」
辰吉はその場に立ち尽くし、ぎゅっと強く拳を握りしめた。
火事があった数日後、辰吉は同じ長屋の凜の元を訪ねていた。
「辰吉さんが、あたしんとこに来るなんざ、珍しいねぇ」
煙管を弄び煙草を燻らせながら、凜が辰吉を眺める。
辰吉は優太が差し出した茶を手にとって、中に映る自分の顔を見詰めていた。
「いやな、ちょぃと相談事が、あってよ」
歯切れの悪い辰吉の言葉に、凜は吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出した。
「風邪でも、ひいたかぃ?」
くすくすと笑いながら訊ねる凜に、辰吉は顔を上げる。
「そうじゃぁねぇ。体は、ぴんしゃんしていらぁ。そうじゃなくって、夢の話でよ」
凜が煙管の灰を煙草盆にかん、と落として、煙管をふっ、と吹いた。
「で? どんな相談だぃ」
凜から目を逸らして、辰吉はおずおずと話しはじめた。
「半月くらい前ぇに、火事場でガキを拾って、預かっているんだが、よ……」
「啓太って子かぃ。名無しの坊に、あんたが名を付けてやったとか」
「ああ、そうだ。啓太は、啓太って名は、死んだ弟の名なんだ。俺の弟は火事で焼かれて死んだ。もう、何年も前ぇの話だ。その名をあの坊に付けたのは、別に深い意味があったわけじゃねぇ。けど……」
そこで辰吉は口籠った。
凜が無言で、辰吉を眺める。
「……坊を拾ってから、昔の夢をみる夜が増えて、火事場に行くのが怖くなった。火を見ると夢が頭に浮かんできて、足が竦む。これじゃぁ、仕事にならねぇ」
湯呑を握る手に力が入る。
いつの間にか俯いていた顔に、悔しさが滲む。
優太が眉を下げて見詰める隣で、凜が静かに聞いた。
「あたしに夢を、売るかい?」
辰吉は顔を上げて、言葉を詰まらせた。
またゆっくり下を向くと、辛そうに言葉を絞り出した。
「あの夢は、俺にとって大切なもんで、忘れちゃならねぇもんだ」
「夢を売ったからといって、想いや記憶が消えるわけじゃぁない。ただ、夢をみなくなるだけさ」
「それでも」
凜の言葉に被せて、辰吉が前のめりになる。
「それでも、夢をみなくなったら、いつか忘れちまいそうで、俺ん中から想いごと消えそうで、そいつが火事より、怖ぇ」
辰吉の真剣な顔を見詰めていた凜が、ふっと口元を緩めた。
「だったら今は売りなさんな。売った夢は二度とみられない。大事にとっておきなぁよ」
辰吉は、肩を落とした。
「俺ぁ、どうしたらいいんだぁ」
項垂れる辰吉を心配そうな顔で見詰めていた優太が凜に目を向ける。
凜が、ふうと一つ小さく息を吐いた。
「答えが出ないなら、出るまで悩むんだね。一つだけ、忠言するなら……」
凜がちらりと辰吉に目を向けた。
「辰さんの弟と火事場で拾った坊は別の人間だ。同じに考えちゃぁ、どっちも可哀想だよ」
辰吉は息を飲んだ。
弟と坊を重ねていたつもりはない。
(つもりは、なかったが。そんな風に思っていたかもな)
死んだ啓太が戻ってきたようで、楽しかった。
それも嘘ではない。
辰吉の眼はまた下を向いていた。
「他でもねぇ辰さんだ。間違いやしねぇだろうが。夢を売りたくなったら、いつでも来なぁよ」
煙管に煙草を詰めながら、凜が辰吉を横目で流し見る。
「啓太ちゃんと来てくれたら、おいらも一緒に遊びますよ」
優太がにこにこと声を掛けてくれて、心が和んだ。
「そう、だな。よっくと考えてみるよ」
辰吉は上向かない気持ちのまま、凜の部屋を出た。
〇●〇●〇
「買ってあげたら、よかったのに。辰さんの夢は悪夢だから、きっと綺麗な夢種ですよ。高く売れますよ」
優太が、じっとりした目で睨む。
商売繁盛の神様の神使なだけあって、その辺りは目利きが良い。
凜は、ふんと鼻を鳴らした。
「商売繁盛の稲荷の神使らしい言い草だね。狐狸らしくもねぇ。案じずとも、時期に売りに来るよ。まだ、ちぃとばかし早いだけさ」
煙草に火を付け、煙を吐き出す。
「大事なもんを手放す時は覚悟が必要だ。決められない間は、無暗に動くもんじゃぁない。自戒なんざ失くても大丈夫だって手前ぇで思えなけりゃ、後悔が残るだけだよ」
優太が納得のいかない顔で、出した湯呑を片付けようと持ち上げる。
「妖怪のくせに人間の心に寄り添うのが上手なお凜さんに言われたくないですよ。……あ」
顔を上げた凜を振り返り、湯呑の中を見せた。
「茶柱が立っていますよ」
凜は、ふっと笑った。
「やっぱり、縁起がいいねぇ」
旋風が長屋の狭い隙間を流れて、ひゅうと音を立てて吹き去っていった。
辰吉と暮らし始めた当初は強張っていた啓太の表情は、段々と緩んできて笑顔を見せる機会が多くなった。
火事場で随分と怖い思いをしただろうから表情が強張るのは仕方のない。
親とはぐれた不安も大きいだろう。
辰吉との暮らしが、今の啓太に安堵を与えているのは確かだった。
しかし、辰吉の心には幾分かの不安も湧き始めた。
このまま親が見つからなかったら、啓太は寂しい思いをするのだろう。
自分のような身寄りのない人間にはしたくない。
早く親を見つけてやりたいと思う。
だが、憂慮する訳はそれだけではなかった。
啓太が来てから、明らかに夢をみる夜が増えた。
あの夢は、辰吉の心を揺るがせる。
火事場において、その足を鈍らせる。
それが辰吉の心を焦らせる要因の一つでもあった。
間の悪い事態とは続くものだ。
この夜も、火事があった。
半鐘の音が遠い間隔で鳴っている。
火事はまだ遠いらしい。
啓太に半纏を着せて外に飛び出す。
「お春! 啓太を頼む!」
「辰さん!」
ちょうど部屋から出てきたお春に抱きかかえていた啓太を手渡す。
辰吉は火事装束に着替えて長屋を出た。
火事場に着くと、既に纏持ちが屋根に上がって纏を振り上げていた。
「火元は、ここか」
燃え盛る火を、じっと見詰める。
目の前の火事が夢の光景とだぶって見えて、子供の泣き声が頭の中に木霊する。
(畜生、こんな時に)
いつもなら何も考えずに飛び込んでいけるのに、体が強張って動けない。
じりっと地を踏みしめて、意を決して体を前に出す。
「辰!」
飛び出そうとした時、後ろから権兵衛の声が飛んできた。
はっとして振り返る。
「頭! 俺も屋根に……」
「待て、手前ぇは人を誘導しろ。あっちだ」
「けどっ……」
前のめりになる辰吉の肩を掴んだ手に、権兵衛がぐっと力を籠めた。
「辰、絶対に無理はするんじゃぁねぇ。手前ぇの為だけじゃぁねぇ、他の皆の為でもある。わかるな」
辰吉は悔しそうに下唇を噛んで俯いた。
「辰吉」
駄目押しのように掴んだ肩を揺すられて、辰吉は顔を上げた。
「わかりやした。行きやす」
頷いて踵を返すと、辰吉は人混みへ走って行った。
後姿を沈痛な面持ちで見送って、権兵衛が現場に戻っていった。
「おーい! こっちだ! 急げ!」
人々の波を火除け地へ誘導しながら、ふと、遠くの空に舞う火の粉を見上げる。
赤く染まる空に、半鐘の音が鳴り響いている。
辰吉は未練を断ち切るように首を振って、目の前の仕事に集中した。
「気を付けろ! 押すなよ!」
半刻程で粗方の人々は避難を終えた。
火の手もだいぶ落ち着いて、いつの間にか半鐘の音は消えていた。
人の誘導を終えて、辰吉は火元の家の前に戻った。
真っ黒に煤けた瓦礫が転がり、木の焦げた匂いが辺り一面に充満している。
焼け跡や瓦礫を、只々じっと眺めていた。
「死人は出なかったとよ。火はでかかったが怪我人も少なくて済んだみてぇだし、重畳だ」
権兵衛の声に、ゆっくり振り返る。
「頭……」
振り返った辰吉の顔を見て、権兵衛は苦笑した。
「何でぇ、しけた面しやがって。手前ぇは立派に役目を熟したじゃねぇか」
言葉なく俯く辰吉の肩を、権兵衛は優しく叩いた。
「いつまでも、気に病むんじゃぁ、ねぇぞ」
小さく一言だけ残して、権兵衛は仲間たちの元に走って行った。
「頭……」
辰吉はその場に立ち尽くし、ぎゅっと強く拳を握りしめた。
火事があった数日後、辰吉は同じ長屋の凜の元を訪ねていた。
「辰吉さんが、あたしんとこに来るなんざ、珍しいねぇ」
煙管を弄び煙草を燻らせながら、凜が辰吉を眺める。
辰吉は優太が差し出した茶を手にとって、中に映る自分の顔を見詰めていた。
「いやな、ちょぃと相談事が、あってよ」
歯切れの悪い辰吉の言葉に、凜は吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出した。
「風邪でも、ひいたかぃ?」
くすくすと笑いながら訊ねる凜に、辰吉は顔を上げる。
「そうじゃぁねぇ。体は、ぴんしゃんしていらぁ。そうじゃなくって、夢の話でよ」
凜が煙管の灰を煙草盆にかん、と落として、煙管をふっ、と吹いた。
「で? どんな相談だぃ」
凜から目を逸らして、辰吉はおずおずと話しはじめた。
「半月くらい前ぇに、火事場でガキを拾って、預かっているんだが、よ……」
「啓太って子かぃ。名無しの坊に、あんたが名を付けてやったとか」
「ああ、そうだ。啓太は、啓太って名は、死んだ弟の名なんだ。俺の弟は火事で焼かれて死んだ。もう、何年も前ぇの話だ。その名をあの坊に付けたのは、別に深い意味があったわけじゃねぇ。けど……」
そこで辰吉は口籠った。
凜が無言で、辰吉を眺める。
「……坊を拾ってから、昔の夢をみる夜が増えて、火事場に行くのが怖くなった。火を見ると夢が頭に浮かんできて、足が竦む。これじゃぁ、仕事にならねぇ」
湯呑を握る手に力が入る。
いつの間にか俯いていた顔に、悔しさが滲む。
優太が眉を下げて見詰める隣で、凜が静かに聞いた。
「あたしに夢を、売るかい?」
辰吉は顔を上げて、言葉を詰まらせた。
またゆっくり下を向くと、辛そうに言葉を絞り出した。
「あの夢は、俺にとって大切なもんで、忘れちゃならねぇもんだ」
「夢を売ったからといって、想いや記憶が消えるわけじゃぁない。ただ、夢をみなくなるだけさ」
「それでも」
凜の言葉に被せて、辰吉が前のめりになる。
「それでも、夢をみなくなったら、いつか忘れちまいそうで、俺ん中から想いごと消えそうで、そいつが火事より、怖ぇ」
辰吉の真剣な顔を見詰めていた凜が、ふっと口元を緩めた。
「だったら今は売りなさんな。売った夢は二度とみられない。大事にとっておきなぁよ」
辰吉は、肩を落とした。
「俺ぁ、どうしたらいいんだぁ」
項垂れる辰吉を心配そうな顔で見詰めていた優太が凜に目を向ける。
凜が、ふうと一つ小さく息を吐いた。
「答えが出ないなら、出るまで悩むんだね。一つだけ、忠言するなら……」
凜がちらりと辰吉に目を向けた。
「辰さんの弟と火事場で拾った坊は別の人間だ。同じに考えちゃぁ、どっちも可哀想だよ」
辰吉は息を飲んだ。
弟と坊を重ねていたつもりはない。
(つもりは、なかったが。そんな風に思っていたかもな)
死んだ啓太が戻ってきたようで、楽しかった。
それも嘘ではない。
辰吉の眼はまた下を向いていた。
「他でもねぇ辰さんだ。間違いやしねぇだろうが。夢を売りたくなったら、いつでも来なぁよ」
煙管に煙草を詰めながら、凜が辰吉を横目で流し見る。
「啓太ちゃんと来てくれたら、おいらも一緒に遊びますよ」
優太がにこにこと声を掛けてくれて、心が和んだ。
「そう、だな。よっくと考えてみるよ」
辰吉は上向かない気持ちのまま、凜の部屋を出た。
〇●〇●〇
「買ってあげたら、よかったのに。辰さんの夢は悪夢だから、きっと綺麗な夢種ですよ。高く売れますよ」
優太が、じっとりした目で睨む。
商売繁盛の神様の神使なだけあって、その辺りは目利きが良い。
凜は、ふんと鼻を鳴らした。
「商売繁盛の稲荷の神使らしい言い草だね。狐狸らしくもねぇ。案じずとも、時期に売りに来るよ。まだ、ちぃとばかし早いだけさ」
煙草に火を付け、煙を吐き出す。
「大事なもんを手放す時は覚悟が必要だ。決められない間は、無暗に動くもんじゃぁない。自戒なんざ失くても大丈夫だって手前ぇで思えなけりゃ、後悔が残るだけだよ」
優太が納得のいかない顔で、出した湯呑を片付けようと持ち上げる。
「妖怪のくせに人間の心に寄り添うのが上手なお凜さんに言われたくないですよ。……あ」
顔を上げた凜を振り返り、湯呑の中を見せた。
「茶柱が立っていますよ」
凜は、ふっと笑った。
「やっぱり、縁起がいいねぇ」
旋風が長屋の狭い隙間を流れて、ひゅうと音を立てて吹き去っていった。
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