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第二章 ぬらりひょんと座敷童
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晩秋の冴えた風が冷たさを増した。空は一層に高く、乾いた水色を呈する。
歌麿の言付を聞いてから半月ほどが過ぎ、気付けば神無月も末になっていた。絵の仕事が立て込み、なかなか石燕の元に行けずにいる。
そんな長喜の元に、石燕から文が届いた。
「兄ぃが、気が向いたら、なんてぇから、すっかり頭から抜けていたぜ」
小さくぼやいて、長喜は頭を掻いた。
石燕の用事は、わかっていた。絵本の校合だ。これまで石燕が出した本の総ての校合は、長喜の仕切りだった。時に合作で絵を載せもする。
板本を出すのは年明けと聞いていたので、のびのび構えていた。だが、石燕は様子が違ったようだ。今回は、今までに出した妖怪絵本の連作の、最終巻だ。文からは、石燕の発奮と急く気持ちが伝わってくる。しかも、次の板元は耕書堂だ。重三郎にまで急かされた。
「そろそろ行かねぇと、流石の師匠も痺れを切らすよなぁ。……それだけでも、ねぇようだが」
ついでのように書かれた最後の一文に、目を眇める。
『他に、火急の要件あり。急ぎ梧柳庵に来い』
石燕が、こんな文を寄越す時は、決まって妖怪絡みだ。文を握り締め、長喜は重い腰を上げた。
ちょうど立ち上がった時、勇助が血相を変えて飛び込んできた。
「急いで来てくだせぇ、長喜さん。一大事だ! 早く、こっちです! お喜乃が……」
長喜の腕を引っ張って、勇助が早足で歩き出す。暖気に構えていた長喜も、早足になった。
「お喜乃が、どうした? 怪我でもしたのか?」
勇助が首を振り、蒼い顔をした。
「絵を、描いているんでさぁ。長喜さんが貸した絵本を見ながら」
ぞっとした声を顰める勇助に、肩の力が抜けた。
「何が一大事だよ。脅かすんなら、もっと凝った仕込みを考えろよな」
からからと笑う長喜を、勇助が振り返る。
「とにかく見てくだせぇよ。長喜さんだって、あれを見りゃぁ、俺と同じ顔になりやすよ」
真面目な顔で訴える勇助に、長喜は笑みを仕舞った。
二人は忍び足で喜乃の部屋に向かう。静かに障子戸を開き、中を窺った。
「こっからなら、絵も筆運びも、見えやす」
長喜が、そっと中を窺う。
喜乃が、真剣な顔をして、紙に筆を滑らせる。手元に置いてあるのは、長喜が以前に貸した『画図百鬼夜行』だ。
(女の絵、か……。まんま写しているんじゃぁねぇな)
開いているのは、恐らく死霊と生霊の項だ。しかし喜乃の目は、ほとんど本を見ていない。
喜乃の筆が進むにつれ、長喜は息を飲んだ。
(絵そのものは、子供の落書きってぇなところだが……)
五歳の童にしては、それなりに巧い。
喜乃が描いているのは、綺麗に髪を結った女の立ち姿だ。顔は穏やかに笑んでいる。
(死んだってぇ母親を、描いているのかな)
引く線は歪んで、太さは疎らだ。顔と体の大きさも釣合が悪く、落書きの域を出ない。だが、出来上がると、一つの絵に仕上がって見える。
(こいつぁ、育てたら一端の絵師に、なるやもしれねぇぞ……)
ぞくりと、背筋に痺れが走る。気付けば長喜も、勇助と同じ顔になっていた。
「お喜乃の描く絵は、なかなかのもんだろ。いつもお前ぇの傍にいるせいか、見て学んだのだろうよ」
廊下の向こうから足音を忍ばせてきた重三郎が、部屋の前で足を止めた。
「蔦重さん、ありゃぁ……」
「絵師にぁ、してやれねぇがな。好きで描くだけなら、止めはしねぇ」
長喜の声に被せて、重三郎がきっぱりと言い切った。
重三郎の目が細く開いた障子戸の中に向く。その瞳には、憂いが浮かんで見える。長喜は思わず、出し掛けた言葉を飲み込んだ。
重三郎が表情を改めて、長喜に向き直った。
「お前ぇ、石燕先生に、さんざ呼ばれているだろう。さっさと根津に行きやがれ」
「これから行こうと思っていたんでさぁ」
何となく歯切れが悪くなった長喜に、重三郎が付け加えた。
「ついでに、お喜乃も連れて行ってやりな。ずっと籠りっぱなしでも、飽きるだろう。たまにゃぁ、遊びに連れて行ってやれ」
「俺ぁ、遊びに行くんじゃぁ、ねぇんですがねぇ」
困り顔で笑って見せる。重三郎が口端を上げた。
「お喜乃にとっちゃぁ、お前ぇと出掛けるだけで、遊びだよ。それに、石燕先生が喜ばぁ。勇記から話を聞いて、関心を持っていたみてぇだからよ」
勇記とは、歌麿の名だ。この界隈で歌麿を幼名で呼ぶのは、重三郎しかいない。二人の関係の濃さを、改めて感じる。
長喜は再び、部屋の中の喜乃を覗き見た。一枚の絵を描き上げた喜乃が得意な顔で、筆を置く。
(楽しそうな面ぁ、しやがるなぁ。気に入った絵が、描けたんだろうな)
他人前で気を張り、強張った顔ばかりしている喜乃だ。それが今は、如何にも子供らしい顔をしている。
満足のいく絵が仕上がった時の自分と重なって、嬉しくなった。
「ま、確かに師匠は喜びやしょうし、連れて行きやすかねぇ」
喜乃の姿に安堵したような気持ちになって、長喜は自然と微笑んだ。
【補足情報】
この物語の中では歌麿の幼名を勇記にしていますが、一般的には「勇助」です。手代の勇助くんと名前が被るんでね……。いくつかある歌麿の幼名の方を変えました。手代の勇助くんは残っている名前が一つしか見付けられなかったので、仕方なく。本当は歌麿の幼名にも勇助を使いたかったんですが、まぁ、この後、出す予定もほとんどないしいいかなと。
この時代は幼名や通り名が一人の人にいくつもあるのが普通なので、あまりこだわるポイントでもないかなと思いました。
歌麿の言付を聞いてから半月ほどが過ぎ、気付けば神無月も末になっていた。絵の仕事が立て込み、なかなか石燕の元に行けずにいる。
そんな長喜の元に、石燕から文が届いた。
「兄ぃが、気が向いたら、なんてぇから、すっかり頭から抜けていたぜ」
小さくぼやいて、長喜は頭を掻いた。
石燕の用事は、わかっていた。絵本の校合だ。これまで石燕が出した本の総ての校合は、長喜の仕切りだった。時に合作で絵を載せもする。
板本を出すのは年明けと聞いていたので、のびのび構えていた。だが、石燕は様子が違ったようだ。今回は、今までに出した妖怪絵本の連作の、最終巻だ。文からは、石燕の発奮と急く気持ちが伝わってくる。しかも、次の板元は耕書堂だ。重三郎にまで急かされた。
「そろそろ行かねぇと、流石の師匠も痺れを切らすよなぁ。……それだけでも、ねぇようだが」
ついでのように書かれた最後の一文に、目を眇める。
『他に、火急の要件あり。急ぎ梧柳庵に来い』
石燕が、こんな文を寄越す時は、決まって妖怪絡みだ。文を握り締め、長喜は重い腰を上げた。
ちょうど立ち上がった時、勇助が血相を変えて飛び込んできた。
「急いで来てくだせぇ、長喜さん。一大事だ! 早く、こっちです! お喜乃が……」
長喜の腕を引っ張って、勇助が早足で歩き出す。暖気に構えていた長喜も、早足になった。
「お喜乃が、どうした? 怪我でもしたのか?」
勇助が首を振り、蒼い顔をした。
「絵を、描いているんでさぁ。長喜さんが貸した絵本を見ながら」
ぞっとした声を顰める勇助に、肩の力が抜けた。
「何が一大事だよ。脅かすんなら、もっと凝った仕込みを考えろよな」
からからと笑う長喜を、勇助が振り返る。
「とにかく見てくだせぇよ。長喜さんだって、あれを見りゃぁ、俺と同じ顔になりやすよ」
真面目な顔で訴える勇助に、長喜は笑みを仕舞った。
二人は忍び足で喜乃の部屋に向かう。静かに障子戸を開き、中を窺った。
「こっからなら、絵も筆運びも、見えやす」
長喜が、そっと中を窺う。
喜乃が、真剣な顔をして、紙に筆を滑らせる。手元に置いてあるのは、長喜が以前に貸した『画図百鬼夜行』だ。
(女の絵、か……。まんま写しているんじゃぁねぇな)
開いているのは、恐らく死霊と生霊の項だ。しかし喜乃の目は、ほとんど本を見ていない。
喜乃の筆が進むにつれ、長喜は息を飲んだ。
(絵そのものは、子供の落書きってぇなところだが……)
五歳の童にしては、それなりに巧い。
喜乃が描いているのは、綺麗に髪を結った女の立ち姿だ。顔は穏やかに笑んでいる。
(死んだってぇ母親を、描いているのかな)
引く線は歪んで、太さは疎らだ。顔と体の大きさも釣合が悪く、落書きの域を出ない。だが、出来上がると、一つの絵に仕上がって見える。
(こいつぁ、育てたら一端の絵師に、なるやもしれねぇぞ……)
ぞくりと、背筋に痺れが走る。気付けば長喜も、勇助と同じ顔になっていた。
「お喜乃の描く絵は、なかなかのもんだろ。いつもお前ぇの傍にいるせいか、見て学んだのだろうよ」
廊下の向こうから足音を忍ばせてきた重三郎が、部屋の前で足を止めた。
「蔦重さん、ありゃぁ……」
「絵師にぁ、してやれねぇがな。好きで描くだけなら、止めはしねぇ」
長喜の声に被せて、重三郎がきっぱりと言い切った。
重三郎の目が細く開いた障子戸の中に向く。その瞳には、憂いが浮かんで見える。長喜は思わず、出し掛けた言葉を飲み込んだ。
重三郎が表情を改めて、長喜に向き直った。
「お前ぇ、石燕先生に、さんざ呼ばれているだろう。さっさと根津に行きやがれ」
「これから行こうと思っていたんでさぁ」
何となく歯切れが悪くなった長喜に、重三郎が付け加えた。
「ついでに、お喜乃も連れて行ってやりな。ずっと籠りっぱなしでも、飽きるだろう。たまにゃぁ、遊びに連れて行ってやれ」
「俺ぁ、遊びに行くんじゃぁ、ねぇんですがねぇ」
困り顔で笑って見せる。重三郎が口端を上げた。
「お喜乃にとっちゃぁ、お前ぇと出掛けるだけで、遊びだよ。それに、石燕先生が喜ばぁ。勇記から話を聞いて、関心を持っていたみてぇだからよ」
勇記とは、歌麿の名だ。この界隈で歌麿を幼名で呼ぶのは、重三郎しかいない。二人の関係の濃さを、改めて感じる。
長喜は再び、部屋の中の喜乃を覗き見た。一枚の絵を描き上げた喜乃が得意な顔で、筆を置く。
(楽しそうな面ぁ、しやがるなぁ。気に入った絵が、描けたんだろうな)
他人前で気を張り、強張った顔ばかりしている喜乃だ。それが今は、如何にも子供らしい顔をしている。
満足のいく絵が仕上がった時の自分と重なって、嬉しくなった。
「ま、確かに師匠は喜びやしょうし、連れて行きやすかねぇ」
喜乃の姿に安堵したような気持ちになって、長喜は自然と微笑んだ。
【補足情報】
この物語の中では歌麿の幼名を勇記にしていますが、一般的には「勇助」です。手代の勇助くんと名前が被るんでね……。いくつかある歌麿の幼名の方を変えました。手代の勇助くんは残っている名前が一つしか見付けられなかったので、仕方なく。本当は歌麿の幼名にも勇助を使いたかったんですが、まぁ、この後、出す予定もほとんどないしいいかなと。
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