鎮魂の絵師 ー長喜と写楽ー

霞花怜

文字の大きさ
11 / 51
第三章 役者の似絵と一抹の影

1.

しおりを挟む
 喜乃を連れて吾柳庵に通い始めてから、あっという間に五日が過ぎた。
 喜乃は石燕の指南が楽しいようだ。毎日、自分の筆やら紙を纏めて身支度を整え、長喜の部屋の前で待っている。不精者の長喜も、喜乃にこう待たれてしまうと、吾柳庵に行くより他にない。

 庵に着くと、石燕が喜乃に早速と絵の指南を始める。校合など二の次だ。長喜の作業は捗々しくなかった。

「もう何冊も妖怪の本を出しているのに、何だってこねぇに絵が、わんさとありやがるんだ」

 火や水などの種類ごとに分けた絵は、本に入れる枚数を遥かに超えている。
 長喜のぼやきに、月沙がけらけらと笑った。

「師匠は、この世の妖怪を総て描き切る気なのさ。妖怪は、まだまだいるぜ。数冊の本になんざ、収まりきらねぇよ」

 石鳥が、真面目に頷いた。

「確かになぁ。鬼火だって、細かく分けりゃぁ、十も二十もいるからなぁ。師匠、もう一冊、出したほうがいいぜ」
「そねぃに分けていたら、鬼火だけで一冊できらぁ。目立つやつを絞るぞ。師匠、外せねぇ絵を数枚、選んでくれよ」

 絵の束を石燕に突き付ける。石燕が振り返り、低い怒声を響かせた。

「今ぁ、お喜乃が気張って絵ぇを描いているんだ。邪魔ぁするんじゃぁねぇよ。静かにしやがれ」

 ひっ、と息を飲んで、長喜は手を引っ込めた。
 石燕が、ちょいちょいと喜乃の絵を指さす。長喜は、喜乃の気を削がないように気を付けながら、そっと覗き込んだ。
 喜乃は、庭で昼寝している三毛猫を描いていた。
 猫の丸まる背中の線は、すぃと流れ、柔らかい屈曲を描いている。まだまだ流麗とは言い難いが、五日前とは確実に変わっていた。

(こいつぁまた、ずいぶんと上達したなぁ。師匠の教えがしっかと身についていらぁ)

 ちらりと石燕に目の先を合わせる。石燕が満足そうに、にやりと口端くちはしを上げた。
 絵を描き上げた喜乃が、筆を置く。小さく息を吐いて石燕を見上げた。

「師匠、描けました。猫の体の柔らかさを意識して線も柔らかくなるように描きました」
「線は、良く描けているな。それで、何だって、そねぇに体を長く描いたんだ? 胴も膨らんでいるな。あの猫は、痩せこけているぜ」

 喜乃が猫を指さす。

「あそこで寝ている猫は、伸びていて、立っている時より体が長く見えました。お腹も少し大きいです。だから、見たままを描きました」

 確かに体は痩せているが、腹は膨らんでいる。子を孕んでいるのだろう。絵の猫は、四肢の合間に見える腹がぽっこりと出ている。本物より大仰かもしれない。

「お喜乃は、見たままを描きてぇのか。絵の中で、可愛らしく描いてやろうとは、思わねぇのけぇ?」

 喜乃が、自分の絵を見詰める。

「見たままを描かないと本物じゃないと、思います。私が可愛く描きたいと思って描いた絵と、目の前の猫の絵は、別の絵だと思います」

 石燕が、目を細めた。喜乃が描いた猫を、とんとん、と指で突く。

「この猫の絵も、お前ぇが気に入っていりゃぁいい。だがな、お喜乃が描きてぇと思って描いた絵が、お喜乃の絵だ。可愛らしく描きてぇなら可愛らしく。格好よく描きてぇなら格好よく。見たままが良けりゃ、見たままに描きゃぁいい。どんなふうに描いたって、いいんだぜ」

 丸い目をさらにまん丸にして、喜乃が石燕を見上げた。

「私の好きなように描いて、いいのですか? それでも本物になりますか? 偽物と、捨てられたりしませんか?」

 石燕が深く頷いた。

「当たり前ぇだ。絵の中は手前ぇだけの領分よ。お侍も町人も、男も女もねぇ。好きに描きな! 誰に何を言われようが、気にするねぃ! お喜乃が描きたくって描いた絵は、全部が本物でぇ!」

 喜乃の目が、輝きを増していく。喜乃が、長喜を振り返った。

「長喜兄さんも、好きなように描いている? 見たままだけじゃなく、想いとかを込めて、絵を描いたりするの?」

 突然の問いかけに、長喜は首を捻った。

「そうさな……。難しく考えていねぇが、俺ぁ昔っから、好きなように描いているな。想いは、勝手に筆に乗るし、絵に載っている気が、するなぁ」

 長喜の後ろから月沙が、ぬっと顔を出す。

「子興は、人の意見なんざ、初めっから聞いちゃぁいねぇよ。不断、のらりくらりとしているが、変に固陋だからねぇ。お喜乃も、兄さんを見習って好きに描きなぁよ」
「こら! お喜乃に妙な教えをするなぃ! 師匠の教えが乱れるだろうが! お喜乃、月沙の意見なんざ、聞かなくっていいからな」

 いつの間に、喜乃の肩を抱く月沙を石鳥が引き剥がした。

「可愛いお喜乃を可愛がって、何が悪いのさ。石鳥は無頼だねぇ。お喜乃、石鳥は見習うなぁよ。こいつぁ、真面目過ぎて面白みがねぇからな」
「手前ぇら、ちぃっと黙りやがれ。お喜乃が考えを纏めているからよ」

 月沙と石鳥を睨みつけながら、石燕が短く制した。顎で喜乃を、くぃと指す。月沙と石鳥が、ぴたりと動きを止めた。
 喜乃が自分の絵を見詰めて、じっと考え込んでいた。騒がしい月沙と石鳥など、目に入っていない様子だ。

「好きなように、想いを込めて描いていい。見たままでなくても、本物になる。好きに、描いていい。想いは筆にも、絵にも載る」

 独り言を呟いて、喜乃が、にっこりと笑った。
 まるで解き放たれたような防備しない笑みを見て、長喜は胸が痛くなった。

(もしかしてお喜乃は、手前ぇの好きにしちゃぁいけねぇような場所に、今までいたのかな)

 たった五歳の童が、いったいどんな生活を強いられていたのか。耕書堂に来る前の喜乃の生活は、長喜が思っているより、ずっと過酷だったのかもしれない。

「お喜乃は笑うと可愛いねぇ。ずっと笑っていたらいいよ。私が、笑わせてやろうかね」

 顔をずぃと近づけて、月沙が喜乃に向かい舌を出す。びくり、と肩を震わした喜乃を長喜が庇った。

「面白い顔じゃぁなくって、おっかねぇ顔だ。お喜乃が驚く振舞いは、やめやがれ」

 石鳥の拳が、月沙の頭に落ちる。

「お喜乃は、どんな顔していても可愛いだろうが! 手前ぇは、お喜乃から離れやがれ。そもそも今は、絵の指南をしている途中だぞ。邪魔をするんじゃぁねぇよ」

 石鳥に引き摺られる月沙を見ていた喜乃が、吹き出した。喜乃が声を出して笑った姿を、長喜は初めて見た。
 石燕が優しく笑んで、喜乃の頭を撫でた。

「色んなもんを見て、感じて、手前ぇの気持ちに素直に生きな。感情が豊かなら、絵も一等巧くなるからよ」

 喜乃が素直に頷く。

「吾柳庵は楽しいです。師匠に、もっとたくさん習いたいです。絵も、たくさん描きたいです」

 素直な目が石燕を見上げる。石燕が頷き、筆に手を伸ばす。
 同時に、庵の戸が勢いよく開いた。

「翁! 出やがったぜ。女の幽霊だ! 八丁堀の栄稲荷の近くだとよ! 読売を持ってきてやったぜ!」

 長喜の知らない小僧が、息を切らせて立っていた。





【補足情報】
 鳥山石燕は妖怪に関する本を10冊近く出しています。特に晩年は、ほとんどが妖怪物でした。若い頃の石燕は美人画や風景画なども多く手掛け、肉筆画も描いていました。歌麿のように狂歌絵本なども出しており、太田南畝などと一緒に本を出してもいました。まさに、この時代のオールスター絵本です。
 晩年の石燕が何故、妖怪に傾倒したのか。大変気になりますが、その辺りの資料は乏しいので、いつか石燕を主人公にした話を書きたいですね。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

『五感の調べ〜女按摩師異聞帖〜』

月影 朔
歴史・時代
江戸。盲目の女按摩師・市には、音、匂い、感触、全てが真実を語りかける。 失われた視覚と引き換えに得た、驚異の五感。 その力が、江戸の闇に起きた難事件の扉をこじ開ける。 裏社会に潜む謎の敵、視覚を欺く巧妙な罠。 市は「聴く」「嗅ぐ」「触れる」独自の捜査で、事件の核心に迫る。 癒やしの薬膳、そして人情の機微も鮮やかに、『この五感が、江戸を変える』 ――新感覚時代ミステリー開幕!

花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】

naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。 舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。 結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。 失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。 やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。 男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。 これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。 静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。 全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

古書館に眠る手記

猫戸針子
歴史・時代
革命前夜、帝室図書館の地下で、一人の官僚は“禁書”を守ろうとしていた。 十九世紀オーストリア、静寂を破ったのは一冊の古手記。 そこに記されたのは、遠い宮廷と一人の王女の物語。 寓話のように綴られたその記録は、やがて現実の思想へとつながってゆく。 “読む者の想像が物語を完成させる”記録文学。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...