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第三章 役者の似絵と一抹の影
3.
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夕暮れ時、長喜は喜乃の手を引いて、八丁堀・栄稲荷の前に立っていた。
(初めっから、探させるつもりで手紙を寄越したんだろうから、構わねぇけどよ)
石鳥の話していた「役者の幽霊」の噂は、長喜も知っていた。一年前に抜け出た絵だとは、考えもしなかったが。手紙を寄越すくらいだから、石燕には思うところがあるのだろう。
(役者の絵を探してほしいのも、本音だろうが。師匠の火急の用件は、やっぱり左七郎だろうなぁ)
石燕が最も気を揉んでいるのは、左七郎の安否だろう。見えない人間は時に、驚くような無茶をする。
(無鉄砲で癇癪持ちの小僧が危ねぇ目に遭わねぇように見張れ、ってぇなところだろうな)
長喜は辺りを見回して、左七郎の姿を探した。
逢魔ヶ刻は薄暗く、辺りの景色を識認しづらい。見ているつもりで、いつもの景色が見えていない。同時に、見えない何かが見えたりする。
栄稲荷の小振りな鳥居の前に、小さな人影が見えた。きょろきょろと忙しなく眼を動かしているのは、左七郎だ。
その真後ろにもう一つ、大きな黒い影が見えた。
「長喜兄さん、何かいる。鳥居のところに、人? あれは人じゃ、ない?」
喜乃が指さす。喜乃には左七郎の姿が見えていない様子だ。
途端に影が倍以上も大きくなり、左七郎の姿を飲み込んだ。
「おい、左七郎! 危ねぇ! 走れ! 鳥居の向こう側に走れ!」
大声で怒鳴りながら、長喜は走った。びくりと肩を揺らして立ち上がった左七郎が、二の足を踏む。追いついた長喜が、左七郎の肩を押した。ぐらりとよろけた左七郎が、鳥居の向こう側に尻餅を搗いた。
「お前ぇ、子興かよ! 突然、何しやがる! 転んだだろうが、馬鹿野郎!」
悪態を吐く左七郎を鳥居の奥に引き摺り込んで、長喜は影のほうに目を向ける。
影が大きく畝って形を変え始めた。ぐにゃりぐにゃりと不揃に伸び縮みする。その前に、喜乃が立っていた。
(しまった、お喜乃の手を放しちまった)
長喜は喜乃に向かい、大声を上げた。
「お前ぇもこっちにこい、お喜乃! 鳥居の中なら、そいつぁ悪さできねぇ。早く来い!」
喜乃が、黒い影を一心に見詰めている。長喜の声が届いていないようだ。
一段と大きく畝った影が、喜乃に伸びた。
「お喜乃! 聞こえてねぇのか、畜生。影に飲まれるぞ!」
「あすこに、何かいるのか? その影ってぇやつに飲まれたら、どうなるんだ?」
「わからねぇ! けど、良い事体には、おそらく、ならねぇ! 下手すりゃ、死ぬかもしれねぇ!」
立ち上がろうとした刹那、足に痛みが走った。左七郎を突き飛ばしたときに捻ったのか、足首が腫れている。体が、ぐらりと傾き、長喜は体勢を崩した。
「お喜乃を鳥居の中に連れてくれば、いいんだな? 俺が行ってやる!」
言うが早いか、左七郎が飛び出した。
「馬鹿野郎! 見えねぇ手前ぇが行っても危ねぇだけだ、戻れ!」
何とか立ち上がり、足を引き摺って左七郎を追う。
大きく膨れ上がった影は、すでに喜乃の姿を隠していた。左七郎が影に飛び込む。
「左七郎! お喜乃! 聞こえたら返事しろ! 影の外に出てこい! 鳥居の中に来い!」
懸命に叫ぶが、返答はない。
まるで咀嚼するようにくねる影に、長喜の血の気が引く。
ぱん、と黒い影が爆ぜて、左七郎の姿が現れた。左七郎が喜乃を背負って走り、鳥居の中に戻った。
「お喜乃! 左七郎! 怪我はねぇか。気分は悪くねぇか? どこか痛むところはねぇか」
背中の喜乃を降ろして、左七郎が自分の体を見回す。
「俺は何ともねぇ。お喜乃も、大丈夫だよな? 俺からすりゃぁ、垣根の前にいたお喜乃をおぶって連れてきただけだ。あんたが狼狽している訳がわからねぇ。そねぇに危ねぇやつがいるのけぇ?」
喜乃の顔や手を調べながら、長喜が大きく息を吐いた。
「心ノ臓が口から飛び出るかと思ったぜ。どう危険かはわからねぇが、あの影からは、嫌な感じがするんだよ。飲まれたら黄泉に連れ去られそうな、薄ら怖ぇ感じだ」
左七郎がふぅん、と鼻を鳴らした。
「でも、長喜兄さん。私は怖いと思わなかった。悲しいような、優しいような、懐かしい気持になった」
左七郎が首を傾げた。
「あんたとお喜乃で、話がまるで違うぜ。妖怪ってぇのは、そういうもんなのけぇ? てぇか、あんたが見ている黒い影とやらは、妖怪なのかよ」
喜乃の感覚に首を捻りながら、長喜はもう一度、影に目を向けた。
黒い影は動きを止めて、鳥居の中を見ている。目はないが、こちらを見ているのがわかった。長喜には存在自体が、どこか気味悪く感じられる。
「てぇげぇは同じような感じ方をするもんだ。あの影は、妖怪じゃぁねぇのかもな。幽霊、でもねぇし。よくわからねぇ」
長喜は影をじっと見詰めた。影は喜乃を眺めているように思えた。
「見えていても、わからねぇんだな。だったら、見えていようがいまいが、変わらねぇな。よし、子興。俺と一緒に翁の絵を探そうぜ! あんただって、翁の絵を見付け出してぇだろ。俺が手伝ってやらぁ」
左七郎が自信満々に言い放つ。
「嫌なこった。俺ぁな、手前ぇを諫めに来たんだよ。今ので、わかったろ。見えねぇ奴が人でねぇもんと遭うのは危ねぇんだ。絵を探すのは、やめておけよ。結局、栄稲荷の幽霊だって、師匠の絵じゃぁなかったんだ。一年以上も前ぇに消えた絵を今更見付けるのは、難儀だぜ」
左七郎が拳を強く握って、長喜に鋭い目を向けた。
「難儀なのは、わかっていらぁ! それでも俺ぁ、見付けなけりゃならねぇんだ。俺の母上は、あの絵がまた見られるのを支えに生きているんだ。諦めたりは、できねぇんだ!」
「支えにって、お前ぇの母ちゃんは、病か何かか? 師匠の絵に関わりでもあるのけぇ?」
左七郎が、俯く。
「元々、体が弱ぇんだ。俺を憂苦して気が参っているんだ。だからせめて、好きな絵を見せて元気付けてやりてぇ。力を貸しておくれよ」
「気持ちは分かるがなぁ。お前ぇを憂苦しているなら、まずは安心させてやれよ。母親に気を揉ませている訳は、わかっているんだろ。絵を探すのは、それからだろ」
左七郎が、ぐっと黙り込む。
突然、目の前の影が、ぎゅっと縮んだ。辺りの空気が張り詰める。
(何だ? 胃の腑が抉られるような気持の悪さだ。何が、起こったんだ?)
遠くから、許多の足音が近付いてくる。隣にいる喜乃が、長喜の袖を強く掴んだ。顔が引き攣っている。
(とにかく身を隠したほうがいい。ここにいるのは、危ねぇ気がする)
恐竦した気這いのせいか、影のせいなのか。根拠のない危機が頭を擡げた。
「お喜乃、左七郎、社の中に身を隠すぞ。急げ」
小声で諭して、二人を社の中に押し込む。
「何だって、急に隠れるんだ? もっと、おっかねぇ化物でも出たのかよ」
指を口に充て、しっと制する。
喜乃が社の奥で一人、屈んで震えていた。
「お喜乃、どうした? 怖ぇのか? 俺が隣にいてやるから、怯えんな。大丈夫だぜ。ほら、手を繋いでやるよ」
長喜より先に気が付いた左七郎が喜乃の隣に腰を下ろす。社の戸を狭く開いて、長喜は外の様子を窺った。足音が徐々に稲荷に近付いて来る。同じ場所にいる影の逼迫が増していく。
(あれぁ、まるで殺気だ。俺らじゃぁねぇ、足音のほうに向けて、恐嚇しているんだ)
足音は、栄稲荷の前で止まった。武士の身なりをした男衆が、話を始めた。
「八丁堀は、この辺りのはずだが。あの男が写楽だという噂は、間違いねぇのだろうな」
「確かな筋の報せだ。同じ写楽の娘を匿っているはずだ。見付け出して近江様に差し出せば、大手柄だぞ」
小声で話しているであろうに、内容が良く聞こえる。
影が長喜を見詰めた気がした。
(あいつのせいで、良く聞こえるのか? あの男らの話を、俺に聞かせてぇのか? 写楽? 写楽って何だ? 人の名か?)
男の一人が、社に目を向けた。思わず、びくりと肩が浮く。影が殺気を増した。男衆を睨み付けているようだ。
「何やら、寒気がするな。この通りではなさそうだ。一本、向こうの通りに行ってみよう」
頷き合った男衆が、社から離れて行った。切迫した気が緩んで、長喜は大きく息を吐いた。体の力が、一気に抜けた。
背後で布の擦れる音がした。喜乃の体が床に倒れた。
「お喜乃! どうしたんだ! しっかりしろ! 子興、お喜乃が気ぃ失くしている!」
左七郎の腕に支えられた喜乃が、肩で息をしていた。額に手を当てる。
「ひでぇ熱だ。影に捲かれた時に、中てられたんだろうな。早く寝かせてやらねぇと」
喜乃を抱き上げる。足首に鋭い痛みが走った。体勢を崩した長喜を左七郎が支えた。
「足を挫いたんだろ。無理するねぇ。俺がお喜乃をおぶってやる。あんたは、ひょこひょこと足を引き摺って、俺の後ろを付いて来いよ」
「一言が多い小僧だなぁ。だが、助かるぜ。お喜乃に怪我なんぞ、させるなよ」
そっと、外を窺う。いつの間にか、影は姿を消していた。
「でも何で、お喜乃だけが調子を崩すんだ? 俺ぁ、何ともねぇぜ。同じに影に飲まれたはずだろ?」
「見える奴ぁ、気が敏いんだ。敏い奴ぁ、気触れ易い。お前ぇは影の姿も見えちゃぁいねぇ。だから、平気なんだろ」
左七郎が、目を吊り上げる。
「俺が鈍いって言いてぇのかよ! 確かに、見えはしねぇが、感は良いほうだぞ!」
「鈍いのが悪ぃんじゃぁねぇよ。質の違いだ。いちいち、突っ懸かるな。今は、それどころじゃぁねぇ」
人気がないのを確かめて、社の戸を開く。鳥居の前で、もう一度、通りを覘く。慎重な長喜を、左七郎が、じっと見詰めた。
「そこにおるのは、長喜殿か? 儂だ、十郎兵衛だ。お喜乃も、共におるのか? 無事であろうな」
ぎくりと心ノ臓が下がった。稲荷の辻に斎藤十郎兵衛が立っていた。
「十郎兵衛様、ですかぃ? 何だって今、ここに、いらっしゃるんで?」
「報せが……、いや。仕事の帰り道だ。儂の屋敷は、この辺りでな。偶然に、姿を見付けたのだ」
走り寄った十郎兵衛が、左七郎の背中にいる喜乃に手を伸ばす。
「熱があるのか。早う休ませねばならぬな。耕書堂まで送ろう。ここは、物騒だ。早々に離れたほうが良い」
長喜の返答を待たずに、十郎兵衛が歩き出す。辺りを警戒する忙しない様子に少しの違和と不安を覚えながら、長喜は十郎兵衛に付いて歩き出した。
【補足情報】
折角、幽霊が出てくるお江戸ファンタジーなので、たまにはオカルトめいた小噺を。
神社の鳥居は現世と幽世を分ける結界です。神が鎮座する社の中は清浄な空間なので、邪を入れないための門でもあります。要は空間をはっきりと分けるための区切りです。だから長喜さんは左七郎と喜乃に必死に「鳥居の中に入れ」と促しているんですね。視える人は理由を知らなくても感じるので、わかる的な。
鳥居の語源は諸説ありますが、朝を迎える鳥である鶏がとまって鳴いたから(陽の光は清浄のシンボル)。鳥居が赤いのは、赤が邪を祓う色だから。昔の鳥居は色塗りしておらず、主に椚が使われ、木肌がそのままだったそうですが。時代が下るにつれ、後付けの理由が増えて面白いですね。
同じ理由で橋もまた、空間や世界を分けるものでした。一番有名なのは、一条戻り橋でしょうか。平安の昔は一条戻り橋までが都、そこより向こうは邑でした。安倍清明の邸宅は一条戻り橋の向こう(邑)側にあり、誰かが橋を渡ると気配を察知した式神が清明に報せに行ったのだとか。今でも一条戻り橋は昔と同じ場所にあって、春になると綺麗な河内桜が咲いています。今、清明神社がある場所が、安倍晴明邸宅跡です。
(初めっから、探させるつもりで手紙を寄越したんだろうから、構わねぇけどよ)
石鳥の話していた「役者の幽霊」の噂は、長喜も知っていた。一年前に抜け出た絵だとは、考えもしなかったが。手紙を寄越すくらいだから、石燕には思うところがあるのだろう。
(役者の絵を探してほしいのも、本音だろうが。師匠の火急の用件は、やっぱり左七郎だろうなぁ)
石燕が最も気を揉んでいるのは、左七郎の安否だろう。見えない人間は時に、驚くような無茶をする。
(無鉄砲で癇癪持ちの小僧が危ねぇ目に遭わねぇように見張れ、ってぇなところだろうな)
長喜は辺りを見回して、左七郎の姿を探した。
逢魔ヶ刻は薄暗く、辺りの景色を識認しづらい。見ているつもりで、いつもの景色が見えていない。同時に、見えない何かが見えたりする。
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その真後ろにもう一つ、大きな黒い影が見えた。
「長喜兄さん、何かいる。鳥居のところに、人? あれは人じゃ、ない?」
喜乃が指さす。喜乃には左七郎の姿が見えていない様子だ。
途端に影が倍以上も大きくなり、左七郎の姿を飲み込んだ。
「おい、左七郎! 危ねぇ! 走れ! 鳥居の向こう側に走れ!」
大声で怒鳴りながら、長喜は走った。びくりと肩を揺らして立ち上がった左七郎が、二の足を踏む。追いついた長喜が、左七郎の肩を押した。ぐらりとよろけた左七郎が、鳥居の向こう側に尻餅を搗いた。
「お前ぇ、子興かよ! 突然、何しやがる! 転んだだろうが、馬鹿野郎!」
悪態を吐く左七郎を鳥居の奥に引き摺り込んで、長喜は影のほうに目を向ける。
影が大きく畝って形を変え始めた。ぐにゃりぐにゃりと不揃に伸び縮みする。その前に、喜乃が立っていた。
(しまった、お喜乃の手を放しちまった)
長喜は喜乃に向かい、大声を上げた。
「お前ぇもこっちにこい、お喜乃! 鳥居の中なら、そいつぁ悪さできねぇ。早く来い!」
喜乃が、黒い影を一心に見詰めている。長喜の声が届いていないようだ。
一段と大きく畝った影が、喜乃に伸びた。
「お喜乃! 聞こえてねぇのか、畜生。影に飲まれるぞ!」
「あすこに、何かいるのか? その影ってぇやつに飲まれたら、どうなるんだ?」
「わからねぇ! けど、良い事体には、おそらく、ならねぇ! 下手すりゃ、死ぬかもしれねぇ!」
立ち上がろうとした刹那、足に痛みが走った。左七郎を突き飛ばしたときに捻ったのか、足首が腫れている。体が、ぐらりと傾き、長喜は体勢を崩した。
「お喜乃を鳥居の中に連れてくれば、いいんだな? 俺が行ってやる!」
言うが早いか、左七郎が飛び出した。
「馬鹿野郎! 見えねぇ手前ぇが行っても危ねぇだけだ、戻れ!」
何とか立ち上がり、足を引き摺って左七郎を追う。
大きく膨れ上がった影は、すでに喜乃の姿を隠していた。左七郎が影に飛び込む。
「左七郎! お喜乃! 聞こえたら返事しろ! 影の外に出てこい! 鳥居の中に来い!」
懸命に叫ぶが、返答はない。
まるで咀嚼するようにくねる影に、長喜の血の気が引く。
ぱん、と黒い影が爆ぜて、左七郎の姿が現れた。左七郎が喜乃を背負って走り、鳥居の中に戻った。
「お喜乃! 左七郎! 怪我はねぇか。気分は悪くねぇか? どこか痛むところはねぇか」
背中の喜乃を降ろして、左七郎が自分の体を見回す。
「俺は何ともねぇ。お喜乃も、大丈夫だよな? 俺からすりゃぁ、垣根の前にいたお喜乃をおぶって連れてきただけだ。あんたが狼狽している訳がわからねぇ。そねぇに危ねぇやつがいるのけぇ?」
喜乃の顔や手を調べながら、長喜が大きく息を吐いた。
「心ノ臓が口から飛び出るかと思ったぜ。どう危険かはわからねぇが、あの影からは、嫌な感じがするんだよ。飲まれたら黄泉に連れ去られそうな、薄ら怖ぇ感じだ」
左七郎がふぅん、と鼻を鳴らした。
「でも、長喜兄さん。私は怖いと思わなかった。悲しいような、優しいような、懐かしい気持になった」
左七郎が首を傾げた。
「あんたとお喜乃で、話がまるで違うぜ。妖怪ってぇのは、そういうもんなのけぇ? てぇか、あんたが見ている黒い影とやらは、妖怪なのかよ」
喜乃の感覚に首を捻りながら、長喜はもう一度、影に目を向けた。
黒い影は動きを止めて、鳥居の中を見ている。目はないが、こちらを見ているのがわかった。長喜には存在自体が、どこか気味悪く感じられる。
「てぇげぇは同じような感じ方をするもんだ。あの影は、妖怪じゃぁねぇのかもな。幽霊、でもねぇし。よくわからねぇ」
長喜は影をじっと見詰めた。影は喜乃を眺めているように思えた。
「見えていても、わからねぇんだな。だったら、見えていようがいまいが、変わらねぇな。よし、子興。俺と一緒に翁の絵を探そうぜ! あんただって、翁の絵を見付け出してぇだろ。俺が手伝ってやらぁ」
左七郎が自信満々に言い放つ。
「嫌なこった。俺ぁな、手前ぇを諫めに来たんだよ。今ので、わかったろ。見えねぇ奴が人でねぇもんと遭うのは危ねぇんだ。絵を探すのは、やめておけよ。結局、栄稲荷の幽霊だって、師匠の絵じゃぁなかったんだ。一年以上も前ぇに消えた絵を今更見付けるのは、難儀だぜ」
左七郎が拳を強く握って、長喜に鋭い目を向けた。
「難儀なのは、わかっていらぁ! それでも俺ぁ、見付けなけりゃならねぇんだ。俺の母上は、あの絵がまた見られるのを支えに生きているんだ。諦めたりは、できねぇんだ!」
「支えにって、お前ぇの母ちゃんは、病か何かか? 師匠の絵に関わりでもあるのけぇ?」
左七郎が、俯く。
「元々、体が弱ぇんだ。俺を憂苦して気が参っているんだ。だからせめて、好きな絵を見せて元気付けてやりてぇ。力を貸しておくれよ」
「気持ちは分かるがなぁ。お前ぇを憂苦しているなら、まずは安心させてやれよ。母親に気を揉ませている訳は、わかっているんだろ。絵を探すのは、それからだろ」
左七郎が、ぐっと黙り込む。
突然、目の前の影が、ぎゅっと縮んだ。辺りの空気が張り詰める。
(何だ? 胃の腑が抉られるような気持の悪さだ。何が、起こったんだ?)
遠くから、許多の足音が近付いてくる。隣にいる喜乃が、長喜の袖を強く掴んだ。顔が引き攣っている。
(とにかく身を隠したほうがいい。ここにいるのは、危ねぇ気がする)
恐竦した気這いのせいか、影のせいなのか。根拠のない危機が頭を擡げた。
「お喜乃、左七郎、社の中に身を隠すぞ。急げ」
小声で諭して、二人を社の中に押し込む。
「何だって、急に隠れるんだ? もっと、おっかねぇ化物でも出たのかよ」
指を口に充て、しっと制する。
喜乃が社の奥で一人、屈んで震えていた。
「お喜乃、どうした? 怖ぇのか? 俺が隣にいてやるから、怯えんな。大丈夫だぜ。ほら、手を繋いでやるよ」
長喜より先に気が付いた左七郎が喜乃の隣に腰を下ろす。社の戸を狭く開いて、長喜は外の様子を窺った。足音が徐々に稲荷に近付いて来る。同じ場所にいる影の逼迫が増していく。
(あれぁ、まるで殺気だ。俺らじゃぁねぇ、足音のほうに向けて、恐嚇しているんだ)
足音は、栄稲荷の前で止まった。武士の身なりをした男衆が、話を始めた。
「八丁堀は、この辺りのはずだが。あの男が写楽だという噂は、間違いねぇのだろうな」
「確かな筋の報せだ。同じ写楽の娘を匿っているはずだ。見付け出して近江様に差し出せば、大手柄だぞ」
小声で話しているであろうに、内容が良く聞こえる。
影が長喜を見詰めた気がした。
(あいつのせいで、良く聞こえるのか? あの男らの話を、俺に聞かせてぇのか? 写楽? 写楽って何だ? 人の名か?)
男の一人が、社に目を向けた。思わず、びくりと肩が浮く。影が殺気を増した。男衆を睨み付けているようだ。
「何やら、寒気がするな。この通りではなさそうだ。一本、向こうの通りに行ってみよう」
頷き合った男衆が、社から離れて行った。切迫した気が緩んで、長喜は大きく息を吐いた。体の力が、一気に抜けた。
背後で布の擦れる音がした。喜乃の体が床に倒れた。
「お喜乃! どうしたんだ! しっかりしろ! 子興、お喜乃が気ぃ失くしている!」
左七郎の腕に支えられた喜乃が、肩で息をしていた。額に手を当てる。
「ひでぇ熱だ。影に捲かれた時に、中てられたんだろうな。早く寝かせてやらねぇと」
喜乃を抱き上げる。足首に鋭い痛みが走った。体勢を崩した長喜を左七郎が支えた。
「足を挫いたんだろ。無理するねぇ。俺がお喜乃をおぶってやる。あんたは、ひょこひょこと足を引き摺って、俺の後ろを付いて来いよ」
「一言が多い小僧だなぁ。だが、助かるぜ。お喜乃に怪我なんぞ、させるなよ」
そっと、外を窺う。いつの間にか、影は姿を消していた。
「でも何で、お喜乃だけが調子を崩すんだ? 俺ぁ、何ともねぇぜ。同じに影に飲まれたはずだろ?」
「見える奴ぁ、気が敏いんだ。敏い奴ぁ、気触れ易い。お前ぇは影の姿も見えちゃぁいねぇ。だから、平気なんだろ」
左七郎が、目を吊り上げる。
「俺が鈍いって言いてぇのかよ! 確かに、見えはしねぇが、感は良いほうだぞ!」
「鈍いのが悪ぃんじゃぁねぇよ。質の違いだ。いちいち、突っ懸かるな。今は、それどころじゃぁねぇ」
人気がないのを確かめて、社の戸を開く。鳥居の前で、もう一度、通りを覘く。慎重な長喜を、左七郎が、じっと見詰めた。
「そこにおるのは、長喜殿か? 儂だ、十郎兵衛だ。お喜乃も、共におるのか? 無事であろうな」
ぎくりと心ノ臓が下がった。稲荷の辻に斎藤十郎兵衛が立っていた。
「十郎兵衛様、ですかぃ? 何だって今、ここに、いらっしゃるんで?」
「報せが……、いや。仕事の帰り道だ。儂の屋敷は、この辺りでな。偶然に、姿を見付けたのだ」
走り寄った十郎兵衛が、左七郎の背中にいる喜乃に手を伸ばす。
「熱があるのか。早う休ませねばならぬな。耕書堂まで送ろう。ここは、物騒だ。早々に離れたほうが良い」
長喜の返答を待たずに、十郎兵衛が歩き出す。辺りを警戒する忙しない様子に少しの違和と不安を覚えながら、長喜は十郎兵衛に付いて歩き出した。
【補足情報】
折角、幽霊が出てくるお江戸ファンタジーなので、たまにはオカルトめいた小噺を。
神社の鳥居は現世と幽世を分ける結界です。神が鎮座する社の中は清浄な空間なので、邪を入れないための門でもあります。要は空間をはっきりと分けるための区切りです。だから長喜さんは左七郎と喜乃に必死に「鳥居の中に入れ」と促しているんですね。視える人は理由を知らなくても感じるので、わかる的な。
鳥居の語源は諸説ありますが、朝を迎える鳥である鶏がとまって鳴いたから(陽の光は清浄のシンボル)。鳥居が赤いのは、赤が邪を祓う色だから。昔の鳥居は色塗りしておらず、主に椚が使われ、木肌がそのままだったそうですが。時代が下るにつれ、後付けの理由が増えて面白いですね。
同じ理由で橋もまた、空間や世界を分けるものでした。一番有名なのは、一条戻り橋でしょうか。平安の昔は一条戻り橋までが都、そこより向こうは邑でした。安倍清明の邸宅は一条戻り橋の向こう(邑)側にあり、誰かが橋を渡ると気配を察知した式神が清明に報せに行ったのだとか。今でも一条戻り橋は昔と同じ場所にあって、春になると綺麗な河内桜が咲いています。今、清明神社がある場所が、安倍晴明邸宅跡です。
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藪から犬
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織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
古書館に眠る手記
猫戸針子
歴史・時代
革命前夜、帝室図書館の地下で、一人の官僚は“禁書”を守ろうとしていた。
十九世紀オーストリア、静寂を破ったのは一冊の古手記。
そこに記されたのは、遠い宮廷と一人の王女の物語。
寓話のように綴られたその記録は、やがて現実の思想へとつながってゆく。
“読む者の想像が物語を完成させる”記録文学。
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