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第六章 安穏で平凡な日々
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同じ年の閏十一月一日(一七九四年十二月二十二日)、歌舞伎の顔見世興行が始まった。喜乃が待ち侘びていた初日に、木挽町の河原崎座で大芝居を楽しんだ。
帰り道に耕書堂に寄り、二人は懐かしい部屋で時を過ごしていた。
「今日も門之助は格好良かったなぁ。これからまた一年の間、門之助の芝居が観られると思うと、とても楽しみだなぁ」
喜乃が胸に手を当て、感慨に耽る。二代目市川門之助は、喜乃の気に入りの役者だ。和事、荒事、武道事、舞踊を得意とし、女形の役で所作事も演じる。歳は五十を数えるが、若さ漲る人気役者だった。
(お喜乃は年上を好く向きがあるなぁ。周りに大人ばかりが、いたからかな。門之助は歳より若い外見だが……。外見で決めている訳でもなさそうだよなぁ……)
自分が写した門之助の絵を嬉しそうになぞる喜乃を眺める。懸命に役者を捉えて絵を描く姿は、乙女ではなく、絵師だった。
(どねぃな男が好みなんだか。とんでもねぇ男を連れてきたら、十郎兵衛様に何と言い訳したもんか)
喜乃の将来を案じていると、重三郎が部屋に入ってきた。
「よぅ、わざわざ寄ってもらって、悪かったな。お喜乃、久しいなぁ。元気にしているかぃ」
「蔦重さん、お久しぶりです。なかなかご挨拶にも来られなくて、ごめんなさい」
ぺこりと下げた喜乃の頭を、重三郎が撫でる。
「構わねぇよ。お喜乃の事情は俺も心得ていんだ。吾柳庵に籠りっきりってぇのは、むしろ詰まらねぇだろ。時々にぁ、長喜に遊びに連れて行ってもらえよ」
喜乃は一人での外出を制限されている。竹林より外に出る時は必ず誰かと共に――が、市井で暮らす条件だった。
「今日は長喜兄さんに芝居に連れて行ってもらったのよ。河原崎屋の顔見世に行ってきたの! 門之助がね、格好良くって見惚れちゃった。絵もたくさん描いてきたし、とても楽しかったよ!」
激揚気味に写した絵を差し出す。重三郎が、何気なく絵を受け取った。
「絵を描いたってぇ? 長喜、桟敷にでも席を取ったのけぇ? 愛娘のために、ずいぶんと張り込んだなぁ」
重三郎が、にやりと長喜を見やる。
「俺の稼ぎで桟敷に座れるかよ。土間から観ていたんだ。あんまりにも見上げているから、お喜乃の首が捥げるかと思ったぜ」
「捥げたら大事だ。次は桟敷に座らせてやれよ。どれどれ、お喜乃の絵は上達したか……」
喜乃の絵に目を落とした重三郎が、言葉を失った。
数枚の役者絵を何度も見比べている。
「これぁ、お喜乃が描いたのけぇ。お前ぇ、いつの間に、こねぇに描けるようになったんだ」
絵からは目を離さず、重三郎が呟いた。
「驚いたろ。画工も顔負けの出来栄えだ。近頃、似絵で人気の歌川豊国にも負けていねぇと、俺は思うね」
長喜が鼻高に自慢する。重三郎が素直に頷いた。
「ああ、長喜の言う通りだ。負けていねぇ。いや、豊国とは違う、人間としての味のある顔だ。手も良いな。顔の大胆さに反した手の繊細が絵を引き立てていやがる」
重三郎が本気で褒めるので、長喜は驚きのあまり言葉が出なかった。
「蔦重さんに褒めてもらえるなんて、思わなかった。ありがとうございます」
喜乃が深々と頭を下げる。
「絵を描き続けてきて、良かったぁ。江戸一番の板元の旦那さんに褒めてもらえるなんて、とても贅沢だもの。嬉しいな」
喜乃が目を薄らと潤ませて笑む。長喜も自分事のように嬉しかった。だが、それ以上に、重三郎の本気の目に驚きが隠せなかった。
(蔦重さんが手放しで褒めるなんざ、伝蔵以来だ。確かに、お喜乃の絵は一端のもんだが、まさか蔦重さんを、ここまで唸らせるたぁな)
重三郎が、ようやく絵から顔を上げた。
「お喜乃、もっと描け。どんどん描け。描き続けりゃぁ、お前ぇは、きっと本物になる。描いたら、また、俺に見せに来い。約束だ、いいな」
重三郎の顔には凄味が滲んでいる。
背中が、ぞわりと寒くなった。
「約束、します。これからも、精進します。必ず、また見せに来ます」
喜乃が頷きながら、攣縮した声を絞り出す。
重三郎が満足そうに頷いた。
「そういや、長喜。下絵を持ってきたんだろ。預かるぜ。お前ぇ、他の板元の仕事は受けていんのか?」
重三郎の纏う気が、がらりと変わった。
長喜の伸びていた背から力が抜けた。
「あ、あぁ。持ってきているぜ。いっつも馬琴に取りに来させたんじゃぁ、悪ぃからよ。今は耕書堂と仙鶴堂の仕事しか、受けちゃぁいねぇぜ。元々、俺ぁ、兄ぃみてぇに数多描く絵師じゃぁねぇしよ」
下絵の入った筒を重三郎に手渡す。
「そうかぃ。だったら歌麿みてぇに、たくさんの板元の仕事を受けておきな。お前ぇなら、あねぇな悪ぃ噂も立たねぇだろ。お前ぇは伝蔵と同じで、鼻も伸びねぇし、人付き合いが上手いからな」
重三郎が筒を鼻に宛て、天狗の真似をする。
「兄ぃは確かに天狗になっていんのかもしれねぇがよ。蔦重さんを裏切ったりしねぇよ。他の誰でもねぇ、蔦重さんと兄ぃだ。二人の縁の深さを、他の奴らは知らねぇんだ」
重三郎が大声で笑う。
「まったくだぜ。人気絵師に仕事が集まるなぁ、自然だ。大物になると妬心もでかくならぁ。その点においちゃぁ、勇記は躱すのが上手ぇからよ。案じてもいねぇや」
「ここんとこ、兄ぃが日を空けずに庵に来るぜ。人気絵師の歌麿先生は、お喜乃と絵を描いて遊んでいられるほど、暇じゃぁねぇだろうによ。躱すのは上手くても、気に病んじゃぁ、いるんだろうぜ」
「へぇ、お喜乃は歌麿大先生と一緒に絵ぇを描いていんのか。だから、こねぇに巧くなったんだなぁ。これからも、じっくり歌麿の絵を盗めよ」
喜乃が眉を下げて首を傾げた。
「歌麿兄さんと絵を描くのは楽しいけど、何にも教わっていないわ。いっつも私の絵を怒るの。もっと男前に描け、とか。本物より美しく描け、とか。私は描きたいように描きますって、喧嘩するのよ」
重三郎が、これまた楽しそうに大笑いした。
「そいつぁ、見物だな。美人の絵に掛けちゃぁ今や押しも押されもせぬ歌麿先生が、娘っ子に振られるたぁ。こいつぁ、形無しだ」
腹を抱えて笑う重三郎に、長喜は問いを投げた。
「なぁ、蔦重さんよ。まさか兄ぃにも、他の板元の仕事を受けろって話をしたのかぇ? そねぇな話は、しちゃぁいねぇよな」
「話したぜ。他の板元の仕事をどんどん受けて、渡りを付けておけってな。始めは怒っていたが、仕舞いにぁ納得したよ。他の仕事を受けすぎているから、今は、うちの仕事が受けられねぇでいんのさ」
長喜は思わず身を乗り出した。
「何でだよ。喜多川歌麿ってぇ絵師は、蔦重さんが育てたようなもんだろ。自分から手放すような話を、何でしたんだよ」
重三郎の目が鈍く光った。
「歌麿を育てたのが、俺だからだよ。二の舞は演じねぇ。あいつの才を潰されて堪るもんかよ。俺がどれだけの伝手を使って、時も金も掛けて、喜多川歌麿を光らせたと思っていんだ。あいつぁ、これから、もっともっと巧くなる。耕書堂からも、もちろん絵を出す。今は、時機じゃぁねぇだけだ」
長喜は身を引っ込めた。
重三郎にとって、山東京伝の戯作が御禁制に触れた一件は、かなりの痛癢だった。伝蔵は、いまだに馬琴の手を借りて戯作を書いている。何度も辞めようと考えながら、何とか書いている状態だ。
身代も然ることながら、伝蔵という才を潰されかけた事実が、重三郎にとり何にも代え難い損失だった。重三郎の怒りは、当時、居住をしていた長喜も感じていた。
重三郎は、歌麿が京伝のように砕かれる事体を恐れている。喜多川歌麿という男の絵を守るために、敢えて今は自分から手放した。
蔦屋重三郎の覚悟と執念を垣間見た長喜は、大人しく腰を降ろした。
「だから俺にも、他の板元から絵を出せってぇ、そう言うのかよ。俺ぁ、兄ぃや伝蔵とは違う。捕まりゃぁしねぇよ」
何故か悲しい心持になり、顔が自然と俯いた。
「無理にとは言わねぇよ。けどな、仙鶴堂の仕事は断るなよ。お前ぇは器用なようで不器用だなぁ。もっと巧く生きな。優しいだけじゃぁ、飯は食っていけねぇぜ」
困ったように笑う重三郎に、喜乃が乗り出した。
「私は、優しくて不器用な長喜兄さんが好きだもの。長喜兄さんは無理して絵を描いたりしない。その心持が絵にも表れているでしょ。だから、長喜兄さんの絵は、人気があるのよ」
喜乃が鼻を鳴らして胸を張る。
重三郎が、クックと笑みを嚙み殺した。
「確かに、お喜乃の言葉通りだ。長喜の絵は、大売れはしねぇが、いつも完売だからなぁ。しかしまぁ、長喜に育てられたから、お喜乃はこねぇな娘に育ったのかねぇ。また下絵が上がったら、持って来いよ、長喜。お喜乃と一緒にな」
喜乃が長喜を振り返る。二人は顔を見合わせて笑んだ。
「今の耕書堂は、役者絵に力を入れていんだ。鉄蔵がやる気になったんで、組物を出していんだよ。だがなぁ、なかなか。勝川の絵様を超えられずに苦心しているぜ。気が向いたら、鉄蔵にも会いに来てやってくれよ」
鉄蔵は数年前に、勝川春朗の名で絵師として自立した。風変りな趣向の絵ではあるものの、重三郎の言の通り、勝川派の絵の踏襲は否めない。
門下なのだから当然だが、鉄蔵自身は納得できていないのだろう。いかにも鉄蔵らしいと、長喜は思う。
(鉄蔵も、一つの門下に収まるような絵師じゃぁねぇからなぁ。悩むってぇ質でもねぇと思うが。まぁ、顔くらいは拝んでやるか)
鉄蔵の苦心する顔を思い浮かべて、長喜は苦笑した。
【補足情報】
今回は芝居小屋について。
この頃の江戸の芝居小屋は、大芝居・中芝居・小芝居に別れていました。大芝居は言わずと知れた有名役者が出る芝居小屋をちゃんと持っていた芝居小屋で、幕府の認可を得て営業している小屋です。現代の歌舞伎役者さんたちの御先祖様(市川団十郎とか中村勘九郎とか)が演じていた場所です。席は土間と桟敷に別れていて、桟敷がお高い席です。大奥の中輿なども使う席だったので、どちゃくそ高かったですが、絵師はこの桟敷でスケッチすることが多かったです。土間は文字通り舞台の前に広がる席で、一間に4~6人くらいは吸われる広さが在りました。席代は桟敷とは比べ物にならない程安かった。チケットを買うとデザート付きのお弁当(かべす→菓子・弁当・寿司)が付いて来たので、食事をしながらおしゃべりをしながら芝居を楽しんでいました。今のように公演中は私語禁止的な注意はなく、割と自由でした。
帰り道に耕書堂に寄り、二人は懐かしい部屋で時を過ごしていた。
「今日も門之助は格好良かったなぁ。これからまた一年の間、門之助の芝居が観られると思うと、とても楽しみだなぁ」
喜乃が胸に手を当て、感慨に耽る。二代目市川門之助は、喜乃の気に入りの役者だ。和事、荒事、武道事、舞踊を得意とし、女形の役で所作事も演じる。歳は五十を数えるが、若さ漲る人気役者だった。
(お喜乃は年上を好く向きがあるなぁ。周りに大人ばかりが、いたからかな。門之助は歳より若い外見だが……。外見で決めている訳でもなさそうだよなぁ……)
自分が写した門之助の絵を嬉しそうになぞる喜乃を眺める。懸命に役者を捉えて絵を描く姿は、乙女ではなく、絵師だった。
(どねぃな男が好みなんだか。とんでもねぇ男を連れてきたら、十郎兵衛様に何と言い訳したもんか)
喜乃の将来を案じていると、重三郎が部屋に入ってきた。
「よぅ、わざわざ寄ってもらって、悪かったな。お喜乃、久しいなぁ。元気にしているかぃ」
「蔦重さん、お久しぶりです。なかなかご挨拶にも来られなくて、ごめんなさい」
ぺこりと下げた喜乃の頭を、重三郎が撫でる。
「構わねぇよ。お喜乃の事情は俺も心得ていんだ。吾柳庵に籠りっきりってぇのは、むしろ詰まらねぇだろ。時々にぁ、長喜に遊びに連れて行ってもらえよ」
喜乃は一人での外出を制限されている。竹林より外に出る時は必ず誰かと共に――が、市井で暮らす条件だった。
「今日は長喜兄さんに芝居に連れて行ってもらったのよ。河原崎屋の顔見世に行ってきたの! 門之助がね、格好良くって見惚れちゃった。絵もたくさん描いてきたし、とても楽しかったよ!」
激揚気味に写した絵を差し出す。重三郎が、何気なく絵を受け取った。
「絵を描いたってぇ? 長喜、桟敷にでも席を取ったのけぇ? 愛娘のために、ずいぶんと張り込んだなぁ」
重三郎が、にやりと長喜を見やる。
「俺の稼ぎで桟敷に座れるかよ。土間から観ていたんだ。あんまりにも見上げているから、お喜乃の首が捥げるかと思ったぜ」
「捥げたら大事だ。次は桟敷に座らせてやれよ。どれどれ、お喜乃の絵は上達したか……」
喜乃の絵に目を落とした重三郎が、言葉を失った。
数枚の役者絵を何度も見比べている。
「これぁ、お喜乃が描いたのけぇ。お前ぇ、いつの間に、こねぇに描けるようになったんだ」
絵からは目を離さず、重三郎が呟いた。
「驚いたろ。画工も顔負けの出来栄えだ。近頃、似絵で人気の歌川豊国にも負けていねぇと、俺は思うね」
長喜が鼻高に自慢する。重三郎が素直に頷いた。
「ああ、長喜の言う通りだ。負けていねぇ。いや、豊国とは違う、人間としての味のある顔だ。手も良いな。顔の大胆さに反した手の繊細が絵を引き立てていやがる」
重三郎が本気で褒めるので、長喜は驚きのあまり言葉が出なかった。
「蔦重さんに褒めてもらえるなんて、思わなかった。ありがとうございます」
喜乃が深々と頭を下げる。
「絵を描き続けてきて、良かったぁ。江戸一番の板元の旦那さんに褒めてもらえるなんて、とても贅沢だもの。嬉しいな」
喜乃が目を薄らと潤ませて笑む。長喜も自分事のように嬉しかった。だが、それ以上に、重三郎の本気の目に驚きが隠せなかった。
(蔦重さんが手放しで褒めるなんざ、伝蔵以来だ。確かに、お喜乃の絵は一端のもんだが、まさか蔦重さんを、ここまで唸らせるたぁな)
重三郎が、ようやく絵から顔を上げた。
「お喜乃、もっと描け。どんどん描け。描き続けりゃぁ、お前ぇは、きっと本物になる。描いたら、また、俺に見せに来い。約束だ、いいな」
重三郎の顔には凄味が滲んでいる。
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「約束、します。これからも、精進します。必ず、また見せに来ます」
喜乃が頷きながら、攣縮した声を絞り出す。
重三郎が満足そうに頷いた。
「そういや、長喜。下絵を持ってきたんだろ。預かるぜ。お前ぇ、他の板元の仕事は受けていんのか?」
重三郎の纏う気が、がらりと変わった。
長喜の伸びていた背から力が抜けた。
「あ、あぁ。持ってきているぜ。いっつも馬琴に取りに来させたんじゃぁ、悪ぃからよ。今は耕書堂と仙鶴堂の仕事しか、受けちゃぁいねぇぜ。元々、俺ぁ、兄ぃみてぇに数多描く絵師じゃぁねぇしよ」
下絵の入った筒を重三郎に手渡す。
「そうかぃ。だったら歌麿みてぇに、たくさんの板元の仕事を受けておきな。お前ぇなら、あねぇな悪ぃ噂も立たねぇだろ。お前ぇは伝蔵と同じで、鼻も伸びねぇし、人付き合いが上手いからな」
重三郎が筒を鼻に宛て、天狗の真似をする。
「兄ぃは確かに天狗になっていんのかもしれねぇがよ。蔦重さんを裏切ったりしねぇよ。他の誰でもねぇ、蔦重さんと兄ぃだ。二人の縁の深さを、他の奴らは知らねぇんだ」
重三郎が大声で笑う。
「まったくだぜ。人気絵師に仕事が集まるなぁ、自然だ。大物になると妬心もでかくならぁ。その点においちゃぁ、勇記は躱すのが上手ぇからよ。案じてもいねぇや」
「ここんとこ、兄ぃが日を空けずに庵に来るぜ。人気絵師の歌麿先生は、お喜乃と絵を描いて遊んでいられるほど、暇じゃぁねぇだろうによ。躱すのは上手くても、気に病んじゃぁ、いるんだろうぜ」
「へぇ、お喜乃は歌麿大先生と一緒に絵ぇを描いていんのか。だから、こねぇに巧くなったんだなぁ。これからも、じっくり歌麿の絵を盗めよ」
喜乃が眉を下げて首を傾げた。
「歌麿兄さんと絵を描くのは楽しいけど、何にも教わっていないわ。いっつも私の絵を怒るの。もっと男前に描け、とか。本物より美しく描け、とか。私は描きたいように描きますって、喧嘩するのよ」
重三郎が、これまた楽しそうに大笑いした。
「そいつぁ、見物だな。美人の絵に掛けちゃぁ今や押しも押されもせぬ歌麿先生が、娘っ子に振られるたぁ。こいつぁ、形無しだ」
腹を抱えて笑う重三郎に、長喜は問いを投げた。
「なぁ、蔦重さんよ。まさか兄ぃにも、他の板元の仕事を受けろって話をしたのかぇ? そねぇな話は、しちゃぁいねぇよな」
「話したぜ。他の板元の仕事をどんどん受けて、渡りを付けておけってな。始めは怒っていたが、仕舞いにぁ納得したよ。他の仕事を受けすぎているから、今は、うちの仕事が受けられねぇでいんのさ」
長喜は思わず身を乗り出した。
「何でだよ。喜多川歌麿ってぇ絵師は、蔦重さんが育てたようなもんだろ。自分から手放すような話を、何でしたんだよ」
重三郎の目が鈍く光った。
「歌麿を育てたのが、俺だからだよ。二の舞は演じねぇ。あいつの才を潰されて堪るもんかよ。俺がどれだけの伝手を使って、時も金も掛けて、喜多川歌麿を光らせたと思っていんだ。あいつぁ、これから、もっともっと巧くなる。耕書堂からも、もちろん絵を出す。今は、時機じゃぁねぇだけだ」
長喜は身を引っ込めた。
重三郎にとって、山東京伝の戯作が御禁制に触れた一件は、かなりの痛癢だった。伝蔵は、いまだに馬琴の手を借りて戯作を書いている。何度も辞めようと考えながら、何とか書いている状態だ。
身代も然ることながら、伝蔵という才を潰されかけた事実が、重三郎にとり何にも代え難い損失だった。重三郎の怒りは、当時、居住をしていた長喜も感じていた。
重三郎は、歌麿が京伝のように砕かれる事体を恐れている。喜多川歌麿という男の絵を守るために、敢えて今は自分から手放した。
蔦屋重三郎の覚悟と執念を垣間見た長喜は、大人しく腰を降ろした。
「だから俺にも、他の板元から絵を出せってぇ、そう言うのかよ。俺ぁ、兄ぃや伝蔵とは違う。捕まりゃぁしねぇよ」
何故か悲しい心持になり、顔が自然と俯いた。
「無理にとは言わねぇよ。けどな、仙鶴堂の仕事は断るなよ。お前ぇは器用なようで不器用だなぁ。もっと巧く生きな。優しいだけじゃぁ、飯は食っていけねぇぜ」
困ったように笑う重三郎に、喜乃が乗り出した。
「私は、優しくて不器用な長喜兄さんが好きだもの。長喜兄さんは無理して絵を描いたりしない。その心持が絵にも表れているでしょ。だから、長喜兄さんの絵は、人気があるのよ」
喜乃が鼻を鳴らして胸を張る。
重三郎が、クックと笑みを嚙み殺した。
「確かに、お喜乃の言葉通りだ。長喜の絵は、大売れはしねぇが、いつも完売だからなぁ。しかしまぁ、長喜に育てられたから、お喜乃はこねぇな娘に育ったのかねぇ。また下絵が上がったら、持って来いよ、長喜。お喜乃と一緒にな」
喜乃が長喜を振り返る。二人は顔を見合わせて笑んだ。
「今の耕書堂は、役者絵に力を入れていんだ。鉄蔵がやる気になったんで、組物を出していんだよ。だがなぁ、なかなか。勝川の絵様を超えられずに苦心しているぜ。気が向いたら、鉄蔵にも会いに来てやってくれよ」
鉄蔵は数年前に、勝川春朗の名で絵師として自立した。風変りな趣向の絵ではあるものの、重三郎の言の通り、勝川派の絵の踏襲は否めない。
門下なのだから当然だが、鉄蔵自身は納得できていないのだろう。いかにも鉄蔵らしいと、長喜は思う。
(鉄蔵も、一つの門下に収まるような絵師じゃぁねぇからなぁ。悩むってぇ質でもねぇと思うが。まぁ、顔くらいは拝んでやるか)
鉄蔵の苦心する顔を思い浮かべて、長喜は苦笑した。
【補足情報】
今回は芝居小屋について。
この頃の江戸の芝居小屋は、大芝居・中芝居・小芝居に別れていました。大芝居は言わずと知れた有名役者が出る芝居小屋をちゃんと持っていた芝居小屋で、幕府の認可を得て営業している小屋です。現代の歌舞伎役者さんたちの御先祖様(市川団十郎とか中村勘九郎とか)が演じていた場所です。席は土間と桟敷に別れていて、桟敷がお高い席です。大奥の中輿なども使う席だったので、どちゃくそ高かったですが、絵師はこの桟敷でスケッチすることが多かったです。土間は文字通り舞台の前に広がる席で、一間に4~6人くらいは吸われる広さが在りました。席代は桟敷とは比べ物にならない程安かった。チケットを買うとデザート付きのお弁当(かべす→菓子・弁当・寿司)が付いて来たので、食事をしながらおしゃべりをしながら芝居を楽しんでいました。今のように公演中は私語禁止的な注意はなく、割と自由でした。
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織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
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