鎮魂の絵師 ー長喜と写楽ー

霞花怜

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第八章 写楽落葉

5.

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 胃の腑が持ち上がるような吐き気に見舞われる。意識が一気に浮上した。

「待ってくれ! 連れて行かないでくれ! 死ぬのは俺でいいんだ! お喜乃を、奪わないでくれ!」

 伸ばした手の先に見えたのは、見慣れた天井だった。

「あ、あれ……。ここぁ、吾柳庵、か? 俺ぁ、どうして。さっきのは、いってぇ……」

 額に手を当てる。全身から、汗が噴き出していた。長喜は布団に臥床していた。
 不意に、庭に目を向ける。竹林には、平素の通り、淡い陽が差し込んでいた。
 竹林の中に常にあった志乃の気這いは、跡形もなく消えていた。

(さっきのお志乃さんは、幻、じゃぁねぇよな。俺に、別れを告げに来て、くれたんだな)

 志乃の話を、頭の中で反復する。

(なんで、お喜乃が死ぬんだ。あの後、何があった? お喜乃も怪我をしたのか?)

 はっとして、起き上がった。

「お喜乃! お喜乃! いねぇのか。お喜乃! っつぅ、痛ってぇ」

 右肩に鋭い痛みが走る。
 よく見れば、肩から胴に掛けて、包帯が巻かれていた。

(采女に斬られた傷か。右腕が、動かせねぇかもって、お志乃さんが言っていたっけ)

 右の指を握り、開く。どうやら指は動く。知覚もあるようだ。
 腕を挙げる。胸より高く上げようとすると、痛みが走った。

(不便だが、これなら何とか絵は描けそうだ。しばらく鍛錬は、しねぇといけねぇな)

 外で物音がした。井戸のほうから走ってくる足音は、喜乃だ。庭から長喜の姿を見付けた喜乃が、部屋に駆け上がる。

「長喜兄さん! 目が覚めたのね。良かった、本当に良かったぁ! 丸一日、寝たままだったのよ。目が覚めなかったら、どうしようかと思った」

 力いっぱい抱き付いた。

「いたたた! 痛ぇ! お喜乃、落ち着け。体のあちこちが痛ぇんだ。ゆっくり抱き付いてくれ」

 喜乃の両肩を掴み、全身を隈なく見回す。

「怪我は、しちゃぁいねぇようだな。痛む箇所は、ねぇか。お喜乃は、何ともねぇか?」

 長喜の目から喜乃が目の先を逸らした。

「私は平気よ。怪我は、していないわ。兄さんは? 背中の傷が大きくて、特に肩の傷が深かったの。腕は、上がる? 指は、動く?」

 長喜の右手を握って、喜乃が眉を下げた。

「腕を高く上げると、肩から背が痛むが。背中をざっくり斬られて、これで済みゃぁ重畳だ。指も動くぜ。知覚もある。お喜乃の指が、やけに冷てぇのも、よくわかる」

 喜乃の指は、酷く冷えている。まるで血が通っていないような冷たさだ。手を握り直し、長喜は喜乃を見詰めた。

「寝ている時に、お志乃さんと話したんだ。十郎兵衛様とお喜乃の話も、少しだけ聞こえていた。采女に斬られて、俺が倒れた後に、何があった? 正直に話してくれるか?」

 泣き出しそうな顔をした喜乃が、俯いた。

「あの、後、十郎兵衛が駆け付けてくれたの。母上が報せてくれたのだと思う。他にも家臣が何人か来て、采女は縄に付いて。兄さんの血が止まらなくって、心ノ臓が、止まりそうで、それで」

 消え入りそうな声で話す喜乃の肩を抱く。

「辛ぇ話をさせて、すまねぇ。ゆっくりでいいから、教えてくれ。お喜乃の身に、何が起きていんのか、俺ぁ、知りてぇんだ」

 喜乃の強張った肩を優しく撫でる。
 少しずつ力が抜けていくのが、わかった。

「血が、たくさん流れていたの。兄さんの体が、だんだん冷たくなって、怖かった。だから、願ったの。兄さんを奪わないで、って。私の命を、あげるから、兄さんを生かしてって、母上に、お願いしたの」

 志乃との会話を思い返す。長喜の血の気が下がった。

「お志乃さんが、お喜乃の願いを、聞き入れたのか? 俺が今、生きていんのは、お喜乃の命を吸ったから、なのか。なんで、そねぇな願いをしたんだ!」

 長喜の叱咤に、喜乃が言葉を被せた。

「兄さんが死んでしまったら! 私の居所は、なくなるもの。兄さんのいない世界で生きる意味は、ないもの! 私のせいで兄さんが死ぬなんて、嫌だもの。誰よりも兄さんが、大事なの。これからも、生きて、絵を描いて欲しいの」

 喜乃の目から涙がポロポロと零れる。
 自分が喜乃に抱く思いと同じ想いを、喜乃も長喜に対し、抱いている。
 志乃の言葉を思い知らされた。

「わかっちゃぁ、いるんだ。俺だって、お喜乃に絵を描いて、長生きしてほしい。幸せに生きてほしいんだ。お喜乃の命を吸ってまで、生き延びてぇとは思わねぇ。お前ぇを守りたくって、俺は、必死の覚悟をしたってぇのに……」

 喜乃の冷たい両手が、長喜の手を包んだ。

「耕書堂で、初めて長喜兄さんに会ってから、今までずっと、守ってもらったわ。兄さんは、私を疫病神じゃないと……、幸せになっていいと、教えてくれた。私の十七年は、とても幸せだったの。今度は私が、お返しをする番よ」

 長喜を見上げて、にっこりと笑む。

「お前ぇが幸せになんのは、当たり前ぇの事実なんだ。誰に邪魔される筋合いもねぇんだ。命を捨ててまで、返す恩義じゃぁねぇんだよ。お前ぇのいない世で生きる辛さは、俺も同じなんだ」

 あまりにも情けない声が、自分の喉から流れ出た。
 喜乃が首を振る。

「幸せに生きるなんて、私にとっては当たり前じゃなかったわ。兄さんに出会えなければ、私は、きっと、もっと早くに死んでいた。当たり前にしてくれたのは、兄さんなの。諦めていた人並みの、ううん、人並み以上の幸せを、兄さんが私にくれたのよ」

 目頭を押さえて、長喜は首を振った。何度も何度も、首を振る。

「お喜乃に会って、幸せだったのは、俺のほうなんだよ。一緒に絵を描いて、一緒に暮らして。これからも、当たり前ぇに一緒に暮らせると、毎年、一緒に正月を迎えられると、信じていたんだ。なのに、何で、こんな風になったんだ」

 喜乃が項垂れる長喜の肩に、そっと寄り添った。
 喜乃の体からは、温もりを感じない。心ノ臓が動いていないからだ。
 喜乃に命を戻す手段はないのだと、改めて直感する。

「長喜兄さん、私ね。残された日を、二人で一緒に、絵を描いて過ごしたい。私の我儘を、聞いてくれる?」

 覚悟を、決めなければならない。
 喜乃を失う現実を、受け入れなければならない。

(俺がいつまでも情けなく泣いていちゃぁ、お喜乃は安心して黄泉に逝けねぇよな。お喜乃の決意を、踏み躙ったりは、できねぇ。残された時は、少ねぇんだ)

 目をゴシゴシと擦って、長喜は懸命に笑みを作った。

「そうだな、一緒に絵を描こう。写楽の絵を仕上げて、他にも、描けるだけ描こう。俺も、お喜乃に描いてやりてぇ絵が、あるんだ」

 喜乃が満面の笑みを長喜に向ける。
 頬に涙の筋が残る笑顔は、儚く美しかった。
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