【完結】【受賞作】真昼の星を結ぶ

ばやし せいず

文字の大きさ
16 / 50
第2章「可視光線」

15.誰のために

しおりを挟む
「ど、どうしたんだ、これ」

 やけになって、ぐりぐりと書き殴ったのだろうか。

「相当、ストレスがたまってるんだな……」

 哀れんで言うと、野田は「えっ!?」と短く叫んで顔を赤くさせた。

「千葉先生が首の影を描けって言ったんでしょ!」

 彼女は怒っているようだ。
 そういえば、月曜日の授業中に影を描くようにと教えた。しかし首の影だけを描けという言い方はしなかったはずだ。
「影は全体をよく見てつけないと。これじゃ黒いタートルネックを着ている人だよ」

「やっぱり、絵が得意な人には私の気持ちはわからないんです」

「悪かったよ。でも俺だって先生になってまだ二週間経ってないんだから、どう教えたらいいかわかんないんだよ」

「……実習生じゃないですか」

 野田の言うとおりだ。便宜的べんぎてきに「先生」と呼ばれているだけだ。
 熱血教師気取り。
 船渡川の言葉がまたちくちくと胸を差してくる。
 しかし、困った末にふてくされている生徒を目の前にしている今、「うざがられてもいいや」と思ってしまうのだった。

「じゃあ、別のアプローチ方法を。鏡で自分の顔をよーく見よう」

宍倉ししくら先生からもそう言われたことあるけど、でもよく見てるし……」

「よく見れば、首だけじゃなくて頬骨や鼻の周りにも影ができてるのがわかるだろ」

「見ただけじゃわからなくないですか?」

 腕を組み、通っていた美術系予備校で血の滲むような努力をしていた日々を思い出す。どんな取り組みをしていたか、頭をフル回転させて記憶を呼び起こした。
 「見る」以外にしていたこと。
 そうだ。
 めちゃくちゃやっていたことがある。

「触ればいいんだ」

「触る? 顔をですか?」

「そうそう。例えばモチーフがリンゴだったらリンゴをよく触る。そうすると、ただの丸じゃなくて平たいところがあるなーとか、べたべたしてるなーとか、良いにおいがするなーってわかるでしょ。今描いている自分の顔もよく触れば発見があるし、その分、形が拾えるから」

「形が拾えるって?」

「えーと、描写することができるって意味。ほら、まずは顔の横、触ってみ」

 野田は素直に自分の顔の側面に手を当てた。

「顔の横は奥まっているってわかるよね。まぶたも鼻も、触ってみると奥まっているところがある。で、影ができている。『よく触る』、『よく見る』を繰り返しやって描いてみよう」

 野田は頷いた。

「……やってみます」

 良い返事をくれたので邪魔しないように席を離れる。
 急に手持ち無沙汰になり、美術部員の一人が釘打ちに苦戦していたので手伝うことにした。
 野田は鏡を睨みながら、顔をぺちぺちと触っている。
 黙々と作業している時に余計なことを言わない。宍倉の助言はもっともだと思った。野田を信じて、ただ見守ることにした。
 野田の集中力は、美術室から生徒たちを追い出して鍵を締めなければならない時間まで続いた。

「野田は描けたのか?」

 作業を終えた宍倉が野田のスケッチブックを覗き込んだ。

「急成長してるじゃん。立体的になってる」

「千葉先生が指導してくれたので」

「へえ、そうか」

 デッサンを見せてもらった。全体的に影がつけられ、数時間のうちに見事に進化していた。

「千葉先生、教え方上手いじゃないですか」

 鉛筆を片付けながら野田が笑う。
 笑うと、彼女の目尻が垂れていることがよくわかる。
 姉弟そっくりというわけではないが、野田と澄空すかいは笑った顔がよく似ていると思った。



「千葉先生、ちょっといいですか」

 職員室に入室するなり声を掛けてきた菅原すがわらは、無表情を装ってはいるが、目の奥にめらめらと炎を宿していた。
 連れて行かれたのは職員室の隣の、生徒指導室という名の多目的室だった。ドアが完全に閉まるより先に「船渡川ふなとがわさんたちのことだけど」と切り出し電気を点ける。
 頭上の蛍光灯は二人しかいないこの部屋には勿体ないほど明るく、光量に目が慣れず瞼を半分しか開けられない。

「『私が注視する』って言ったんですよ。『本人たちに掛け合ってください』なんて言ってないんだけど?」

「えっと……。船渡川さんに何か言われたんですか」

「自分は野田さんに嫌がらせなんてしていない。千葉先生の勘違いだって言ってました」

「それだけですか」

 まず不安になったのは、「野田海頼みらいと実習生が家を行き来した」という事実を船渡川が菅原にチクったかどうかだった。

「はあ?」

「あっ、いえ、あの……。すみません」

 菅原の反応からするに、恐らく耳に入っていない。
 船渡川は黙秘してくれたのだ。

「船渡川さんの言うとおり、勘違いだったようです。さっき野田さんにも確認したんですが、喧嘩してるわけでも、嫌がらせされているわけでもないって言ってたので」

「野田さんにも訊いたんですか?」

 菅原は一度眉を吊り上げ、やれやれと片手で顔を覆った。

「千葉先生は実習生ですよね? 再来週には来なくなる実習生なのに、生徒のことをかき回さないでくれるかな。何か気付いたことがあったら、生徒じゃなくてまずは教職員に相談してくださいよ。勝手な行動をされると迷惑なので」

 菅原に捲し立てられている自分が無性に情けなくなり、「すみませんでした」と呟くのが精いっぱいだった。
 出過ぎた真似をした。
 もっと深く考えて行動すればよかった。
 教師になる気なんて無かったのだから、最低限のことだけやり遂げて実習を終わらせればよかった。実習生の分際で生徒二人と、教職員である菅原をかき回してしまった。

「じゃ、お疲れ様」

 菅原は廊下へ出て勢いよくドアを閉めた。
 何故かもう一度、菅原が「お疲れ様です」と言ったのが聞こえた。ドアが再び開く。

「鍵、持ってる?」

 顔をのぞかせたのは宍倉だった。
 ポケットの中に美術室の鍵を入れたまま返していないことを思い出す。菅原につかまって、すっかり忘れていた。

「菅原先生に何か言われたのかい」

 宍倉が重そうな瞼を少し持ち上げた。

「……勝手なことをするな、と。僕が勝手に船渡川と野田の二人に直接、トラブルが無いのかどうかを確認してしまって、それで迷惑をかけました」

「迷惑って、菅原先生にか」

「もちろん、宍倉先生にもです。……すみませんでした」

「俺は関与してないんだけど」

 宍倉が自分の頭を撫でた。

「千葉先生は、何のために先生をやるんだい」

 今日の夕飯のメニューを訪ねるような調子で宍倉は言う。

「何のためにって」

 どう答えたらいいのかわからなかった。
 突発的にされるような質問ではない。「お前はやる気が無い」と嫌味を言うための糸口としてそんなことを聞くのだろうか。ついそう勘繰った。

「誰のために先生をやるのかってことだ。同僚の先生か、それとも生徒か」

「生徒です」

 気付けば即答していた。

「そうだよな、生徒のためだよな。教職員のためじゃない。千葉先生は野田と船渡川、どっちのことも心配して声を掛けた。違うか」

「……違わないです」

「じゃあ、胸を張っていいんじゃないか。千葉先生は教師として、生徒である船渡川と野田のために行動したんだろう」

 一呼吸おいてから、「はい」と返事した。
 声が震えそうだった。

「そんなに気落ちするなって。遅いからもう帰りなさい」

 ぽんと肩を叩かれた。宍倉は肩を叩いたその手をじっと見つめる。

「こういうのってセクハラになるのかな」

 宍倉が真顔で訊いてくるので「完全にセクハラですね」と返すと、笑ってくれた。
 こんなくだらない会話で笑うなら、もっと早く冗談を言っておけばよかった。



 校長や教頭、教務主任を見つけ挨拶をし、マリア像のある立派な玄関ホールで靴を履き替える。
 宍倉を飲みにでも誘おうかと考えていた、少し前の浅はかな自分が恥ずかしい。
 でも、そうだよな、実習生として生徒のために行動している姿を見せることが、一番の突破口だよなあと思いながら、いつもより長めにマリア像に手を合わせた。

 バス停へ向かいながら自分の口から出た言葉を反芻はんすうする。「誰のために先生をやるのか」と宍倉から訊かれ、即答した「生徒です」という言葉だ。

 「教師になる」という確固たる意志も無かった自分が、反射的にそう答えたことが、いつまでも信じられなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』

鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、 仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。 厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議―― 最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。 だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、 結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。 そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、 次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。 同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。 数々の試練が二人を襲うが―― 蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、 結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。 そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、 秘書と社長の関係を静かに越えていく。 「これからの人生も、そばで支えてほしい。」 それは、彼が初めて見せた弱さであり、 結衣だけに向けた真剣な想いだった。 秘書として。 一人の女性として。 結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。 仕事も恋も全力で駆け抜ける、 “冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。

設楽理沙
ライト文芸
 ☘ 累計ポイント/ 190万pt 超えました。ありがとうございます。 ―― 備忘録 ――    第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。  最高 57,392 pt      〃     24h/pt-1位ではじまり2位で終了。  最高 89,034 pt                    ◇ ◇ ◇ ◇ 紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる 素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。 隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が 始まる。 苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・ 消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように 大きな声で泣いた。 泣きながらも、よろけながらも、気がつけば 大地をしっかりと踏みしめていた。 そう、立ち止まってなんていられない。 ☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★ 2025.4.19☑~

さようならの定型文~身勝手なあなたへ

宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」 ――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。 額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。 涙すら出なかった。 なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。 ……よりによって、元・男の人生を。 夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。 「さようなら」 だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。 慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。 別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。 だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい? 「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」 はい、あります。盛りだくさんで。 元・男、今・女。 “白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。 -----『白い結婚の行方』シリーズ ----- 『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。

処理中です...