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第2章「可視光線」

20.完全にデート

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 野田の頬を流れていく涙が光る。

「もう少しだけ、ここにいていいもいいですか……」

 頷いてベンチから静かに立ち上がり、一人順路を進んだ。
 「現代アート」と聞いて怯んでいた野田が、涙を流すほど作品に入れ込んでいる。言葉にならないものを彼女なりに感じているのだろう。自分の作品ではないが、嬉しくなった。

――びょういんでがんばってるの。

 ふと、澄空すかいの言葉を思い出す。
 ブースのほうを振り返った。パーテーションで野田の姿は見えないが彼女はまだ映像作品の前にいるようだ。
 両親が澄空の世話をしないのは、仕事の忙しさ以外にも何か理由があるのかもしれない。
 考え過ぎだろうか。

「お客さーん。ここで立ち止まらないでくださーい」

「はっ?」

 背後から抱きつかれ、抵抗しながら振り返る。
 にやにやと笑う気味の悪い男がいた。髪型、服装ともに流行最先端。化粧もばっちり決めた涼真だった。

「びっくりした。美術館とか来るんだ、おまえ」

 涼真がイラストを自由に閲覧したり掲載したりできるウェブサイトの会員であることは知っていたが、絵画や彫刻を鑑賞しているところなんて一度も目にしたことがない。

「いや、連れてこられたんすよ」

 涼真が親指で指す方向に、熱心に作品を鑑賞する一人の女性の後ろ姿があった。ピンクのチェックのワンピース。
野田は、いつの間にブースから出てきたのだろう。そう思っていると女性が振り返った。

「え、千葉先生じゃん」

 近付いてくるのは野田ではなく、野田と全く同じ、ピンクのチェックのワンピースを着た船渡川梓紗ふなとがわあずさだった。
 広い展示室に彼女の足音が響く。彼女は普段から派手だったから、学外で会った時のギャップが少ない。
 通販会社のミスで、しかたなくピンクを着てきた野田と違って、船渡川は「絶対にピンクがいい」と思ってこの服を注文したのだろうなあという感じがした。

「デートか?」

 涼真は「んなわけあるか」と顔を歪め、船渡川は「ないない」とコバエを払うように片手を振る。二人の様子から、本当に「ない」のだろうというのが見て取れた。

「親戚同士でデートとか、きも」

「イトコですらないんだろ? 親戚って言っても、もはや他人じゃん」

「小さい時から一緒にいるから家族みたいなものだよ」

「そういうもんか」

「梓紗の課題に付き合わされてんの。印象派のほうがまだよかったのに」

「船渡川も美術のレポートか?」

「そうだけど、『も』って?」

 ブースからやっと野田が出てきた。船渡川に気付き息を呑む。
 野田の目の周りは黒くなりパンダのようになっている。

「目の周り、どうした?」

「目の周り、ですか?」

「触らない!」

 きょとんとしながら目元に触れようとする野田を船渡川が制止する。澄空の保護者代理を担う野田が、船渡川の前では子どものようだった。船渡川は戸惑う野田の手首をつかみ、出口へ向かおうとする。

「どこ行くんだよ」

 展示場の隅に置かれた椅子から館内スタッフが立ち上がった。人が少ないとはいえ、騒がしくし過ぎた。

「トイレ行ってくる。美術館の前のカフェで集合ね」

 船渡川は怪訝そうな顔のスタッフに会釈し、野田をつれ足早に出て行ってしまった。



 午後四時過ぎ。
 美術館へ入場した昼過ぎよりも、さらに温度と湿度が上がっている。船渡川に指定されたカフェは混み合っていたが、奇跡的に広いソファ席を陣取ることができた。

「野田ちゃんのマスカラが取れたから、梓紗が直してやってんだろ。時間掛かるぜ、きっと」

 涼真は自宅にいるかのようにソファにだらしなく座り、アイスコーヒーをすすっている。

「化粧直しか。さっきまで泣いてたからな。俺があまりにもイケメンで感動したらしい」

「大地に無理やり連れてこられて恐怖したんだろ」

「無理やり連れてくる先が美術館ってやばいやつじゃん、俺」

「美大に行くような奴なんて歪んでんだろ。へきが」

 船渡川たちや他の美大生には聞かせられないような会話で時間を潰すこと三十分。ようやく二人は集合場所へ姿を見せた。

 注文した飲み物をカウンターで受け取って船渡川と野田がソファ席へやってくる。
 野田の目の周りのマスカラはきれいさっぱり落とされていた。その代わりに、まぶたは船渡川と同じようにぎらぎらと光沢を放ち、まつげは重力に逆らうように持ち上がっている。

「わー、めちゃくちゃ可愛くなってる」

 涼真は躊躇ためらいもせず野田を褒めて座りなおし、「ここ座れば?」とソファの上をぽんぽん叩く。

「あれ? 野田ちゃん、手がかなり荒れてるね? メイクもいいけど、ハンドクリームもマメに塗るといいよ」

「家事のせいで塗っても塗っても荒れちゃいまして」

 馴れ馴れしい涼真に、野田は立ったまま律儀に説明する。

「家事するの? めっちゃえら~い」

「千葉先生、涼真の隣に座ってくれる?」

 いやおうなしに船渡川に指示され、すぐに立ち上がった。

 野田は空いたソファに船渡川と座り、借りてきた猫のようにちんまりと座っていた。テーブルに置かれた野田のアイスティーのグラスが汗をかいている。

「で? 大地と野田ちゃんはいつから付き合ってんの?」

 にこにこしながら涼真が野田を眺める。野田がぶんぶんと頭を振った。

「つ、付き合ってなんていません。今日は学校の課題を手伝ってもらっていただけです」

「へー。でもさあ、大地は藤ヶ峰で実習したりバイトしたりしてるのに、生徒と二人でお出かけなんてしていいの?」

「え……、まずかったですかね」

 野田は深刻そうに俺の顔をのぞいてくる。

「まずいでしょお、そりゃ。はたから見たら完全にデートだもん。野田ちゃんなんてめちゃくちゃおしゃれしてるし。俺や梓紗が学校にチクったら大地は教員免許取れないかもよ?」 

 涼真は笑ってはいるが、冗談とも本気ともつかないような口調で続ける。

「野田ちゃんだって停学になるかもだし」

 不安そうな顔の野田に追い打ちをかける涼真を、どこか引いた気持ちで見ていた。くだらない冗談を言い合うことはいつものことだが、今の発言は少しも笑えない。

「いい加減にしなよ。面白くないんだけど」

 船渡川が涼真をチョップする真似をした。

「親友思いだなあ、梓紗は」

 「親友」と言われたことを否定もせず肯定もせず、船渡川はストローに口をつける。涼真はへらへら笑いながら、やはり空気を読もうとしなかった。

「なんで黙ってんの? 二人は親友でしょ。服もお揃いだし」

「たまたまだよ」

「たまたまお揃いの服着てくるなんてこと、親友でもなかなかないっしょ」

「……何年もまともに口利いてないよ」

 涼真が船渡川と俯いたままの野田を見比べている。

「なに、喧嘩でもした?」

「してないし。うるさい。黙れ」

 船渡川がソファに背中をもたれる。涼真はやっと静かになったかと思ったが、また野田の方に向き直る。

「ねえ、野田ちゃんの首から見えてるの、何?」

 涼真が首を指して訊く。

「え?」

 きょとんとしながら野田は自分のうなじに触れた。

「あ、これですか。保護者証です。幼稚園に入るのに要るんです」

 ネックストラップを外し野田が保護者証を見せる。裏には藤ヶ峰ふじがみね女学園の校章が描かれてあった。

「幼稚園って?」

 訊いたのは船渡川だった。

「野田ちゃん、なんで幼稚園の保護者証なんて持ってるの?」

「弟が藤ヶ峰幼稚園に通っていて、毎日私が送り迎えしてるんです。保護者証、ついつい外すのを忘れちゃうんですよね」

「え? 夏休みもミイが弟くんの送り迎えしてるの? おばさんとおじさんは?」

 船渡川がグラスを置いた。

「仕事があるから、なかなか送り迎えができなくて」

「時短勤務しないの? 送り迎えって親がやるもんでしょ?」

 船渡川は少し怒っているようだった。

「その……」

「まあ、教えてくれなくていいけどさ」

 船渡川のグラスの中にはもう氷しか残っていない。野田が保護者証をぎゅっと握りしめた。

「言えないこと、いっぱいあるけど、私はアズのこと嫌いになったわけじゃないよ」

 船渡川は野田をまじまじと見つめていた。涼真が口を開こうとしたので、無言で制す。涼真は少し舌を出した。
 船渡川は「帰る」と静かに言って席を立つ。

「アズ……」

「予備校の時間になっただけだから。じゃあね」

 返却台にグラスを置き、船渡川は一人でカフェを出て行った。

「涼真、送っていかなくていいのか?」

「送る? あいつもう高校生だよ? それより、ここ出たら三人でどこか行こうよ。美術館じゃなくてもっと楽しいことしよ、野田ちゃん」

「すみません。私、もうそろそろ行かないといけないので」

「澄空のお迎えか?」

「いいえ。今日のお迎えは両親がもう行ってくれましたので」

「そっか、じゃあまた今度会おう。連絡先教えて~」

「馴れ馴れしいんだよ、おまえ」

 先に帰った船渡川の代わりに涼真を肘で小突いた。
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