38 / 50
第3章「星の世界」
37.のっぺらぼう
しおりを挟む
また急に、どうして。
驚きながらも、俺はやけに片付いた野田の家のリビング、キッチンの梱包材を思い出していた。
では、家に招かれた時、花火に誘われた時。
あの時には既に引っ越し業者と契約して……。
野田は自分のお父さんが病気になったこと、母の転勤がやっと決まり、通院先から近い親戚の家に越すことを不自然に思えるほど冷静に説明していた。
写真でしか見たことの無い、野田のお母さんはどのような顔だったか。のっぺらぼうしか思い浮かばない。そののっぺらぼうに、「どうして」と問い詰めたくなった。
「お、おじさんが病気……?」
一番うろたえていたのは船渡川だった。
「おじさん、大丈夫なの?」
「今は落ち着いてる、かな……」
「おじさんが病気になっちゃたから、ミイが澄空くんの送迎をやってたの?」
「うん。お母さんも忙しくなっちゃって、代わりに弟の世話とか家事とかやってたの」
「部活やめたりコース変えたりしたのって、それが理由?」
「うん……」
「なんで……」
船渡川が顔を歪めた。
「もっと早く言ってくれればいいのに。家事くらいいつでも手伝ったよ。料理は無理だからお皿洗うとか買い物とか。あ、野菜の選び方とか相場とかわかんないから買い物も無理かもだけど、でも言ってくれれば……」
口先だけではなくて、船渡川は本当に何でも手伝っていただろう。野田の家にずかずか上がって、慣れないながらも家の中を片付けたり食事の用意をしたりしそうだ。
船渡川梓紗はそういう人間だ。
「アズに言ったら心配してくれるってわかってたから。アズは勉強頑張ってて忙しいのに悪いから……」
「話くらい聞いたって。いくらでも……」
「アズのそういうとこ、大好きだったよ。ありがとう」
「もー……!」
澄空ごと野田を抱きしめる船渡川の目元が黒く滲んでいた。
会場から離れたのに、火薬のにおいが辺りに濃く漂っている。
夜道を行く酔っ払いやカップルたち。花火大会の余韻が残る街を歩く。俺の肩にもたれて寝ている澄空がずり落ちそうになって抱え直した。
「引っ越しのこと、どうして教えてくれなかったの」
半歩後ろを歩く野田が「すみません」と呟く。
「今日、言おうと思ってたんです。タイミングを逃しちゃいました」
報告が遅いことを咎める権利も無ければ、野田が謝る義務も無いのに。
野田のお母さん、勝手だよな。
そんな言葉が喉から出かかったが、すぐに引っ込めた。
解決策ひとつ提案できないのに、どの面を下げてそんなことを言うつもりなのか。
「……引っ越すのは寂しいけど、お母さんなりに私たちのことを考えてくれたんじゃないかなって、思います。母もずっと希望してた転勤がやっと叶ったし、引っ越し先にはおじいちゃんとおばあちゃんも住んでいて、澄空の面倒を見るって言ってくれてるんです」
彼女の発言の内容やタイミングはたまに、他人の心が読めるのではないかと思わせてくる。
「先生は、私の両親のこと、どう思います?」
彼女が続ける。
「私が澄空の世話をしていると、お母さんやお父さんのことを悪く言われることがあるんですけど、嫌なんです。親は何してるんだ、虐待でもされてるのかなんて言われると、すごく悲しくなるんです。一番大変なのはお母さんなのに。一番辛いのはお父さんなのに」
訴えかけるような、確かめるような彼女の言葉に、後ろから頭をがつんと殴られたような気分になった。
意味も無く澄空を抱え直す。
「力を合わせて頑張ってるんです。私たち」
私たち。
他人の入る余地のない、力強い言葉。
同じござの上で花火を見たところで、「私たち」に加わるためのチケットは貰えない。
「親は何しているんだ」なんて、面と向かって野田に言ったことはなかった。
でもずっと、心のどこかで彼女の親を非難していなかっただろうか。育児や家事を押し付けられても健気に耐えているのだと、気味の悪い妄想を膨らませていなかっただろうか。
自分の勘違いに気付き、穴があったら入りたいような気分になる。
野田の置かれた状況を打開しようとしたのは、他でもない彼女の母親だった。
「何もできなくてごめん」
「何もできなくて?」
困ったような、少し怒っているような声だった。
「先生がいたから、私はここまでやってこられたんです」
寝ている澄空はずっしりと重かった。きゅう、と小動物の鳴き声のような音を時々漏らす。
腕がしびれてきたけれど、このままずっと抱きかかえていたい。もうすぐ会えなくなると思うと鼻の奥が痛くなってきた。
姪たちと同様に、澄空のことだってかわいくて仕方が無いのだ。
澄空のことが大好きだった。
――野田のことは?
「先生のことが、好きです」
ぬるい風に消されるほど、か細い声だった。独り言のようだが、聞こえなかったことにはできないくらいの、ぎりぎりの声量だった。
驚きながらも、俺はやけに片付いた野田の家のリビング、キッチンの梱包材を思い出していた。
では、家に招かれた時、花火に誘われた時。
あの時には既に引っ越し業者と契約して……。
野田は自分のお父さんが病気になったこと、母の転勤がやっと決まり、通院先から近い親戚の家に越すことを不自然に思えるほど冷静に説明していた。
写真でしか見たことの無い、野田のお母さんはどのような顔だったか。のっぺらぼうしか思い浮かばない。そののっぺらぼうに、「どうして」と問い詰めたくなった。
「お、おじさんが病気……?」
一番うろたえていたのは船渡川だった。
「おじさん、大丈夫なの?」
「今は落ち着いてる、かな……」
「おじさんが病気になっちゃたから、ミイが澄空くんの送迎をやってたの?」
「うん。お母さんも忙しくなっちゃって、代わりに弟の世話とか家事とかやってたの」
「部活やめたりコース変えたりしたのって、それが理由?」
「うん……」
「なんで……」
船渡川が顔を歪めた。
「もっと早く言ってくれればいいのに。家事くらいいつでも手伝ったよ。料理は無理だからお皿洗うとか買い物とか。あ、野菜の選び方とか相場とかわかんないから買い物も無理かもだけど、でも言ってくれれば……」
口先だけではなくて、船渡川は本当に何でも手伝っていただろう。野田の家にずかずか上がって、慣れないながらも家の中を片付けたり食事の用意をしたりしそうだ。
船渡川梓紗はそういう人間だ。
「アズに言ったら心配してくれるってわかってたから。アズは勉強頑張ってて忙しいのに悪いから……」
「話くらい聞いたって。いくらでも……」
「アズのそういうとこ、大好きだったよ。ありがとう」
「もー……!」
澄空ごと野田を抱きしめる船渡川の目元が黒く滲んでいた。
会場から離れたのに、火薬のにおいが辺りに濃く漂っている。
夜道を行く酔っ払いやカップルたち。花火大会の余韻が残る街を歩く。俺の肩にもたれて寝ている澄空がずり落ちそうになって抱え直した。
「引っ越しのこと、どうして教えてくれなかったの」
半歩後ろを歩く野田が「すみません」と呟く。
「今日、言おうと思ってたんです。タイミングを逃しちゃいました」
報告が遅いことを咎める権利も無ければ、野田が謝る義務も無いのに。
野田のお母さん、勝手だよな。
そんな言葉が喉から出かかったが、すぐに引っ込めた。
解決策ひとつ提案できないのに、どの面を下げてそんなことを言うつもりなのか。
「……引っ越すのは寂しいけど、お母さんなりに私たちのことを考えてくれたんじゃないかなって、思います。母もずっと希望してた転勤がやっと叶ったし、引っ越し先にはおじいちゃんとおばあちゃんも住んでいて、澄空の面倒を見るって言ってくれてるんです」
彼女の発言の内容やタイミングはたまに、他人の心が読めるのではないかと思わせてくる。
「先生は、私の両親のこと、どう思います?」
彼女が続ける。
「私が澄空の世話をしていると、お母さんやお父さんのことを悪く言われることがあるんですけど、嫌なんです。親は何してるんだ、虐待でもされてるのかなんて言われると、すごく悲しくなるんです。一番大変なのはお母さんなのに。一番辛いのはお父さんなのに」
訴えかけるような、確かめるような彼女の言葉に、後ろから頭をがつんと殴られたような気分になった。
意味も無く澄空を抱え直す。
「力を合わせて頑張ってるんです。私たち」
私たち。
他人の入る余地のない、力強い言葉。
同じござの上で花火を見たところで、「私たち」に加わるためのチケットは貰えない。
「親は何しているんだ」なんて、面と向かって野田に言ったことはなかった。
でもずっと、心のどこかで彼女の親を非難していなかっただろうか。育児や家事を押し付けられても健気に耐えているのだと、気味の悪い妄想を膨らませていなかっただろうか。
自分の勘違いに気付き、穴があったら入りたいような気分になる。
野田の置かれた状況を打開しようとしたのは、他でもない彼女の母親だった。
「何もできなくてごめん」
「何もできなくて?」
困ったような、少し怒っているような声だった。
「先生がいたから、私はここまでやってこられたんです」
寝ている澄空はずっしりと重かった。きゅう、と小動物の鳴き声のような音を時々漏らす。
腕がしびれてきたけれど、このままずっと抱きかかえていたい。もうすぐ会えなくなると思うと鼻の奥が痛くなってきた。
姪たちと同様に、澄空のことだってかわいくて仕方が無いのだ。
澄空のことが大好きだった。
――野田のことは?
「先生のことが、好きです」
ぬるい風に消されるほど、か細い声だった。独り言のようだが、聞こえなかったことにはできないくらいの、ぎりぎりの声量だった。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる