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第2話 第1章 驚くべき出会い①

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 晴れやかなる空を、悩み一つなさそうな顔で小鳥が駆けていく。しかし、軽やかに舞う彼らを見送る黒羽の顔は、げっそりと青ざめ、文字通り天と地ほどの差がある。
「ついに、この日が来てしまったか」
「やっとこの日が来たわね。もう、喜びなさい。美味しい食べ物が食べられるし、あなたの長かった心の重荷も今日でお別れできるわよ」
「そ、そうだな。よーし、……ハア」
「もう、ハアはこっちだわ」
 呆れた様子で、彩希は前方を見据える。艶やかな黒髪をさらう風に混じる潮の匂いと、人々の活気ある声。
 ――それは、陽光の町プリウが目と鼻の先であることを告げる報せだ。
 港町だからだろうか。彼女にとって第二の故郷となりつつある沖縄に似たこの町に訪れると、懐かしい感覚に出会える。
「え?」
 けれども、その感覚はいずこかに消え去り、代わりに頭が痛くなりそうな感覚に襲われる。
「……秋仁、あの人達って」
「ん? あれって、キースさん達の部隊だよな。随分多いな。百人くらいいるんじゃないか?」
 照りつける太陽の光を弾く銀色の鎧と、身長の二倍ほどある長い槍。彩希としては無視をしたいところだが、あの暑苦しい連中こそが、案内人である。
 近づくと、一人の男が手を挙げて話しかけてきた。
「やあ、来ましたな」
 男の名は、キース・ベルナール・シリル・ダミアン。ウトバルク王国第五騎士団の隊長だ。
 口ひげと精悍な顔立ちをした男の瞳に、漫勉な笑みを投げかけた。
「来たわよ。まったく、そんな仰々しいお出迎えいらないわよ」
「何をおっしゃる。大事な客人を招くのですから、このくらいは当然です」
 真剣な眼差しに、限度を覚えろと言いたくなったが、どうせ平行線をたどる。彩希は肩をすくめ
「さっそく行きましょう」
 と、先を促した。
「ハハハ、彩希殿は相変わらずですな。ねえ、黒羽殿。……黒羽殿?」 
 目を瞑り、腹部を手で押さえている。彩希は彼が何を考えているのか、面白いほどよく分かった。
「食事会にお偉いさんが来るから緊張しているのよ。そしてね。この様子だと、『ああ、キースさんと会った。とうとうだ。うう、お腹が』って思ってるはずだわ」
 キースは鎧を派手に鳴らしながら笑った。
「ハハハハ。国を救った英雄がなにを。もっと堂々となさればよいではないですか」
「いや、僕は英雄などでは」
 首を振る黒羽の背中を、彩希は思いっきり叩く。
「痛! 何だよ毎度毎度」
「腑抜けた顔しているからよ。お客さんを相手にしている時みたいに、シャンとなさい。さあ、行くわよ。キース、案内して」
 彩希の言葉に、騎士達は和やかに笑う。
「こらお前達、笑い過ぎだぞ。失礼、上をご覧ください」
 キースは、空を指差した。
「何?」
「ウトバルク本国は、ウト大陸のちょうど真ん中に位置しています。大陸最南端のプリウからはかなりの距離がありますので、空を飛んで向かいましょう」
 どうやって空を? と思ったのは束の間。地面を塗りつぶす黒い影とともに、巨大な鳥の大群が現れた。
 真っ白い体毛に、鋭いくちばしが特徴的だ。緩やかに高度を下げ、ふわりと降り立った。
「運搬用に調教した魔獣です。こやつならばどの魔物よりも早く、安全に飛行することができます」
「す、すごい。初めて見たぞ。なあ、彩希」
 さっきの陰鬱な表情はどこかへやら消え去り、黒羽の表情は実に晴れやかだ。異世界らしきものに出会えるといつもこうだ。
「そうね。あなた、目的地までよろしくね」
「クールルル」
 身の丈三メートルはあろう巨体に似合わず、鳴き声は可愛らしい。彩希は頬が緩むのを自覚しながら、地面に降り立ったその体を撫でてやる。
「気に入ってくれたようですな。では、さっそくまいりましょう。鞍には私が跨りますので、彩希殿と黒羽殿は、ルー・バードのポケットにお入りください」
「ポケット?」
 黒羽の問いに答えるように、ルー・バードは体を正面に向ける。
「なるほどね」
「カンガルーみたいだ」
「カンガルー? ……私は、その生物は存じませんが、この魔獣は子育てに使うポケットがお腹の方にありましてな。ここに入れば、楽に移動できます。さあ、どうぞ」
 近寄って腹部の辺りに触れてみると、真っ白い毛に隠れていた切れ目に手が入る。中は……思ったよりもひんやりとしていて、気持ちが良さそうだ。
「秋仁は右、私は左側に入るわ」
「分かった」
 彩希はポケットに入る前に空を見上げた。今日は風の流れが速いようで、雲が道路を走る車のように流れていく。
 ――まるで楽しみで仕方のない私の心のようだわ。
 子供じみた己の純真さを、彩希は鼻で笑った。だが、心がそう感じたのであれば、偽るのも妙な話だろう。そう思い直し、今度は純真さが滲む笑みを浮かべた。
 ※
 人などすっぽりと入るほど高く生い茂った草原を、二匹のヌーが走り抜ける。
 群れから切り離された彼らが、地を蹴る理由はただ一つ。真後ろからラ・ホース――馬型の魔獣――の背に跨る追跡者達が迫っているからだ。
「右翼の者は先行し、右側に逃げぬように威嚇せよ。左翼の者は弓を構えておれ」
 騎士達は、男の命令を寸分の狂いもなく実行する。
 ラ・ホースが動くたび、鎧がけたたましく鳴り、蹄の音と草の擦れる音が混じり合い独特のリズムを奏でる。
「たあ、たあ! ここは通行止めだ」
 二匹のルーは、右側から迫るプレッシャーから逃れるために、左へ進路を切った。
 死に物狂いの走りは、草の束を物ともせず蹴散らす。命を明日へ繋げるために。
 ――だが、彼らは知らなかったのだ。己が走る方向こそが、死へと続く道だということに。
「視界が開けたぞ。今だ、放て」
 放たれた矢は、弧を描きながら空気を切り裂き、ヌーの体へと突き刺さる。
「グゥゥゥゥ」
 一頭は、的確に心臓を貫かれ即死した。しかし、
「もう一匹は軽傷だ。逃げるぞ」
 ヌーは駆ける。仲間の死を気にしている余裕などない。
「……?」
 ――唐突に何かが、上から降ってきた。
「許せ」
 ヌーの意識はそこで途絶えた。
 ※
「人? いや、まさかな」
 ウトバルク王国の宰相エイトール・エマは、騎士達に停止を命じ、ジッと乱入者の姿を見つめた。
 身長は三メートルほど。マントで全身を覆っていて顔は判別できないが、素手でヌーを仕留めたのだ。どう考えても人ではあるまい。
「どなたかな?」
 緊張をややにじませた声で問いかける。
「……名乗る名はない」
 低い、ナイフのような鋭い声。ツーと冷たい汗が、エイトールのこめかみから頬にかけて流れた。フードのせいで顔は見れないが、きっとナイフの鋭さは目にも現れているはずだ。
「貴様、その態度は何だ」
「よさんか! 君はそのヌーが欲しいのか?」
 返事はないが、謎の男は首を縦に振った。
 こちらの数は、自身を入れて七人。武装もしている。しかし、
(勝てる気がせん)
 エイトールは決していくじなしな男ではない。むしろ、戦場で覇を唱え、今の地位を得た勇士だ。
 忘れかけていた戦場の血が、皮膚の下で波打ち、心臓が警報のようにけたたましく鼓動する。
(……ヌーを横取りされた形だが、どうでもよいか)
 エイトールは、瞬時に判断を下した。
「分かった。そのヌーは、好きに持って行くがいい」
「宰相! 我らが獲物を横取りした者ですよ。行かせるわけには」
 騎士の一人が剣をスラリと抜き放つ。
 ――その瞬間、場に満ちる空気が戦の空気と同質になった。
「来るなら来い。ただし、死を覚悟しろ」
 手に触れられそうな濃度の殺意が、全身を撫でる。
 エイトールは咄嗟に騎士を叱り、それから男にできるだけ穏やかな口調で謝罪した。
「すまない。部下が失礼なことをしてしまった。私達は今度こそ何もしない。だから、安心してヌーを持って行ってくれ」
 額から一筋、汗が零れた。
(大人しく引いてくれるだろうか?)
 万が一に備えて、頭の中で作戦を考えつつ、男の様子を見守る。 
「……」
 男は、石像のようにしばらく動かなかったが、ヌーを担ぐとゆっくりと歩き出した。
 エイトールは吐息を吐くと、額の汗を拭った。
「終わりは近い。強き意思を秘めた者よ」
「今何と? ぬ」
 わずかな時間目を離しただけなのにもかかわらず、男の姿はどこにも見当たらなかった。
 白昼夢を見ていたのだろうか、とも思ったが、心に満ちる安堵感が現実であったことを如実に物語っていた。
「宰相、何だったのでしょうか?」
「分からぬ。まあ、おおかた傭兵くずれか何かであろう。ああゆう輩は刺激せねば問題ない。それより、そこの二人はヌーを持って行け。残りは私と一緒に狩りの続きだ」
 エイトールの指示に、部下が恭しく頭を下げた。
「宰相もお戻りになっては? そもそも食事会用の獲物を宰相が集める必要などないでしょうに」
「それはそうだが。私もたまには外にでないと息がつまる。それに」
(食事会なぞよりも大事な日が間もなく迫っている。今のうちにリフレッシュせんとな)
 急に黙り込むエイトールに、部下が心配そうに近寄る。彼はハッとした様子で首を振ると、「案ずるな。少し目眩がしただけだ」と笑いかけた。
「脅かさないでくださいよ」
 部下が肩をすくめ、前を向く。瞬間、エイトールの笑みの質が重く恐ろしいものに変化する。
 ――そう、国の未来が変わる日は近い。
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