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温泉
第1章 3-9
しおりを挟むその頃朱有では、朱家に新しい家族が増えることで準備に追われていた。
系譜にその名を記すには、先祖の位牌が並ぶ前で、儀式をしなければならない上、お客を招いてのお披露目も行われる。
一切の失敗は許されない。
丹勇が子を欲しがっていることは知っていたが、こんなに早くそれが決まるとは、炎麗も思ってはいなかった。
炎麗は宇航の母であり、丹勇の叔母に当たるが、その子供の話を聞いたときは、一抹の不安を感じていた。
宇航から聞いた話ではあったが、親から見放され、心に傷を負った子供だ。その哀れな子を朱家で引き取って、丹勇や藍珠が幸せになれるのか心配だったからだ。
宇航の目を疑うわけではないが、その子に問題があったときに、責めを負うのは丹勇と宇航なのだ。
炎麗も親であり叔母である以上、心配して当然であろう。
しかし、宇航が珠璃へ向かう前日に、全てを打ち明けてくれた。
いかに桜綾が苦境の中にいたのか、いかに知識を持っているか、そしていかにまっすぐな人間なのかと言うことを。
そして、桜綾が朱家にとって、いや4領主と皇帝にとっていかに大切な存在かという事を話してくれたのだ。
勿論、このことは炎麗と宇航、そして4領主しか知られてはならない。皇帝にすら、今はまだ話せない内容なのだ。
桜綾は、琳家の血を引き、その琳家に嫁いだ鳳家の末裔である。
黄仁が平定され、安定してから500年。いつの間にかその存在を忘れられた一族の末裔。
桜綾自身も知らない事であろう。
知っているはずの母親は桜綾が1歳の時に亡くなっている。となれば、桜綾を失えば、鳳家の血筋は途絶えることになる。
ある日、宇航の枕元に朱雀神が現れた。そこで、宇航も鳳家の存在を初めて知ったのだ。
鳳家とは元々、巫女の血筋であるらしい。5神の話を聞き、国に何かがあれば、その5神をまとめる役目を担っている。
それぞれの領主と皇帝は、夢の中に気まぐれで守護神が現れる事があり、唯一その場でのみ会話することが出来る。
しかし巫女は違う。必要なときに必要な事を守護神達と話す事が出来る能力を持っている。
それは巫女が18になったときに得る能力で、桜綾はまだ16なので、その能力に目覚めてはいない。
その末裔が途絶える危機に、朱雀神が宇航に助けるように、促したそうだ。
例え巫女を朱家が引き取ったからと、何らかの恩恵がある訳ではないが、5神にとって大切な存在なら、この国の為にも守る責務がある。
5神の中で朱雀神が現れたのは、憂炎と桜綾が懇意にしており、その憂炎と宇航がつながっていたからだ。
桜綾の事は以前から、知っていた宇航だったが、調査の結果はひどい物だったらしい。
そのお告げを受けたこともあり、桜綾を助ける算段を整えたが、策が甘く、桜綾を失いかけた。
そこで、保護するために丹勇にも、このことは内緒で、引き取りを打診したのだ。
丹勇達も悩みはしたが、引き取る事を決め、桜綾にも直接、会いに行っている。
しかも藍珠(ランジュ)は、桜綾の側にいたいと、まだ朱有に帰っておらず、伝書で届く知らせは良い物ばかりだった。
それを聞くまでは、系譜に入れるまではしなくてもいいのではと思っていたが、丹勇達はその子を気に入っているらしい。
それならば、炎麗が反対する理由もない。
しかし、4領主にもお披露目会に出てもらわなければならない。
そう考えると、系譜の儀式は辰月の末、吉日を考えれば25日が良いだろう。
今は寅月の半ばだ。迷っている時間はないので、招待状を出さねばならない。
貴族の中からも勿論、参加してもらわねばならない者もいる。
そうなれば、食事や酒の手配も必要だろう。
後数日で、桜綾は朱有へ向かって出立することを考えれば、朱有まで30日から33日で到着する
それまでにやらなければならないことも多い。
そして桜綾が到着してからやることも。
そのおかげで、今屋敷は忙しい。招待状を書き、遠い地域から順次招待状を伝書で送る。
近い場所にいる者にはそれなりに形式張った招待状を作らなくてはならない。
それには紙一つ、装丁一つにこだわらなくてはならない。
料理の材料や酒に関しても早めに手配出来るものから、手配する。
儀式のための装飾も必要だ。
宇航は桜綾と会う度に表情が穏やかになっていく。
当初の目的はなんであれ、桜綾という娘がどんな人間かは朧気に見えてきた気がする。
とにかくこの儀式だけは、朱家の為にも成功させなければならない。
炎麗は筆を取り、招待状を書き始めた。
珠璃から出発する日、やはりこの馬車に乗ることに憂鬱を覚えて、躊躇していると、母がどこからともなく出してきた布団を座席に引き始めた。痩せているせいで、お尻の辺りに出っ張っている骨に、馬車の振動が響いて辛かったが、これなら少し楽かもしれない。母の気遣いに感謝する。
毎度毎度この馬車移動には悩まされるが、人の温かさや気遣いに気づかされる場面でもある。
馬車での移動は苦痛を伴うが、その分、私の知らない世界へ連れて行ってくれる。
そう思えば、馬車に感謝してもいいのかもしれない。
今回はおおよそ22日程の旅になる。
天候にもよるが、その日数の先に朱有がある。
南の都とも言われ、温かな気候と魚介が有名で、塩、真珠や珊瑚の産地でもある。
それに朱有の南は海が広がっており、泳いだりも出来るらしい。
記憶には桜の見た海があるが、私自身は体験した事はない。川とは違い海の水には塩辛い味がついている。
波が行ったり来たりして、それがいろんな物を運んでくる。それをこの手で、体で、体験してみたい。
海の温度や波の動き、潮の辛さや広さも。
その楽しみを心に一月過ごした珠璃を後にした。
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