【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ

文字の大きさ
6 / 40

第6話 迷い込んだ令嬢

しおりを挟む
その茶会は、エレノアにとって義務のようなものだった。見栄の張り合いめいた貴族特有の言い回しには、いまだに慣れない。
けれど、隙を見せれば、あっという間に足元をすくわれる世界でもある。

伯爵夫人として招かれた以上、顔を出さないわけにはいかなかった。

そう割り切って訪れた屋敷は、白い回廊と、手入れの行き届いた庭園が美しい場所だった。けれど、人の輪の中にいても、
エレノアはどこか居心地の悪さを感じていた。

少しだけ風に当たろうと、彼女は庭園へ続く小道へ足を向ける。

その時だった。

小さな影が、植え込みの陰から、ひょっこりと現れた。

淡い色のドレスに身を包んだ、
まだ幼い令嬢。
年の頃は――五歳ほどだろうか。

きょろきょろと周囲を見回し、今にも泣き出しそうな表情をしている。

「……どうしましたか?」

エレノアが声をかけると、少女はびくりと肩を震わせた。

「……おうちが、わからなくなりました」

糸のように細い声だった。エレノアは自然と膝を折り、少女と目線を合わせる。

「大丈夫ですよ。ここはとても広いから、迷ってしまいますよね」

少女は、ぎゅっとドレスの裾を握りしめていた。

「お名前、教えてもらえますか?」

「……リリアです」

「リリア様。
私はエレノアと申します」

そう名乗ると、少女の表情が、わずかに緩んだ。人を探すにも、むやみに歩き回るのはよくない。

エレノアは近くのベンチに腰を下ろし、リリアの手をそっと取った。

「お母様は、どんな方ですか?」

「……きれいで、いっぱいおしゃべりします」

その答えに、エレノアは思わず微笑む。

「それなら、すぐ見つかりますね」

そう言いながら、少女の不安を紛らわせるように、エレノアは小さな遊びを提案した。

「ここに書いてある文字、読めますか?」

そう言って示したのは、庭園の案内札だった。リリアは、小さく首を横に振る。

「……むずかしい」

「では、一緒に読んでみましょう」

エレノアは指先で文字をなぞり、ゆっくりと音に出す。

「“ば・ら・えん”。お花がたくさん咲いている場所、という意味ですよ」

少女は目を丸くした。

「……きれい?」

「ええ。だから、ここに来たの」

理解した瞬間、リリアの顔がぱっと明るくなる。

「わかった……!」

その声に、エレノアの胸が、ふっと温かくなった。教えようとしたわけではない。
ただ、不安な心を落ち着かせたかっただけだった。



「リリア様!」

少し離れた場所から、切羽詰まった声が響く。

振り返ると、慌てた様子の侍女が駆け寄ってきた。

「申し訳ありません……リリア様、良かったです。目を離した隙に、いなくなってしまって」

「こちらに迷い込まれていました。
もう大丈夫ですよ」

エレノアがそう告げると、侍女はほっと息をつき、リリアを抱き寄せた。

「……まあ」

その視線が、エレノアの手元――
文字をなぞった案内札へ向けられる。

「リリア様は、こんなに落ち着いて話を聞くことは滅多にないのです」

リリアは誇らしげに言った。

「えれのあさまが、おしえてくれたの」

その言葉に、侍女は驚いたように目を見開く。

「……夫人は、とてもお上手なのですね」

何気ない一言だった。
けれど、その言葉はエレノアの胸に、静かに残った。



屋敷へ戻る馬車の中。

エレノアは、自分の手を見つめていた。

迷子の小さな令嬢。
不安そうな瞳。
理解した瞬間の、あの笑顔。

――教える、ということ。

それは、誰かの役に立ち、安心を与えること。

気づけば、胸の奥で、ある考えがはっきりと形を持っていた。

「……家庭教師」

その言葉は、もう偶然ではなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

「君は完璧だから、放っておいても大丈夫」と笑った夫。~王宮から私が去ったあと「愛していた」と泣きついても、もう手遅れです~

水上
恋愛
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫だ」 夫である王太子はそう笑い、泣き真似が得意な見習い令嬢ばかりを優先した。 王太子妃セシリアは、怒り狂うこともなく、静かに心を閉ざす。 「左様でございますか」 彼女は夫への期待というノイズを遮断し、離縁の準備を始めた。

婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ
恋愛
伯爵令嬢セシリアは、王宮の舞踏会で王太子レイヴンから公開の場で婚約破棄を言い渡され、その場で倒れた。 目覚めた彼女は、礼儀も常識も覚えているのに――ただ一つ、レイヴンだけを思い出せない。 「あなたは、どなたですか?」 その一言に、彼の瞳は壊れた。 けれどレイヴンは何も語らず、セシリアを遠ざける。彼女を守るために、あの日婚約を捨てたのだと告げられないまま。 セシリアは過去を断ち切り、王宮の侍女として新しい生活を始める。 優しく手を差し伸べる護衛騎士アデルと心を通わせていくほど、レイヴンの胸は嫉妬と後悔で焼けていった。 ――守るために捨てたはずなのに。忘れられたまま、他の男に笑う彼女を見ていられない。 一方、王宮では“偽聖女”の陰謀と、セシリアの血に眠る秘密が動き出す。 記憶を取り戻せば、彼女は狙われる。取り戻さなければ、二人は永遠に届かない。 これは、忘れてしまった令嬢と、忘れられてなお愛を捨てられない王太子が、もう一度“選び直す”恋の物語。

あなたへの愛を捨てた日

柴田はつみ
恋愛
公爵夫人エステルは、冷徹な夫レオニスを心から愛していた。彼の好みを調べ、帰宅を待ちわび、献身的に尽くす毎日。 しかし、ある夜会の回廊で、エステルは残酷な真実を知る。 レオニスが、未亡人クラリスの手を取り囁いていたのだ。 「君のような(自立した)女性が、私の隣にいるべきだった」 エステルは悟る。自分の愛は彼にとって「重荷」であり、自分という人間は彼にとって「不足」だったのだと。その瞬間、彼女の中で何かが音を立てて砕け散る。

白い結婚で結構ですわ。愛人持ちの夫に興味はありません

鍛高譚
恋愛
公爵令嬢ルチアーナは、王太子アルベルトとの政略結婚を命じられた。だが彼にはすでに愛する女性がいた。そこでルチアーナは、夫婦の義務を果たさない“白い結婚”を提案し、お互いに干渉しない関係を築くことに成功する。 「夫婦としての役目を求めないでくださいませ。その代わり、わたくしも自由にさせていただきますわ」 そうして始まった王太子妃としての優雅な生活。社交界では完璧な妃を演じつつ、裏では趣味の読書やお茶会を存分に楽しみ、面倒ごととは距離を置くつもりだった。 ——だが、夫は次第にルチアーナを気にし始める。 「最近、おまえが気になるんだ」 「もっと夫婦としての時間を持たないか?」 今さらそんなことを言われても、もう遅いのですわ。 愛人を優先しておいて、後になって本妻に興味を持つなんて、そんな都合の良い話はお断り。 わたくしは、自由を守るために、今日も紅茶を嗜みながら優雅に過ごしますわ——。 政略結婚から始まる痛快ざまぁ! 夫の後悔なんて知りませんわ “白い結婚”を謳歌する令嬢の、自由気ままなラブ&ざまぁストーリー!

私の人生に、おかえりなさい。――都合のいい「お姉ちゃん」は、もうどこにもいません

しょくぱん
恋愛
「お姉ちゃんなんだから」 ――それは私を縛る呪いの言葉だった。 家族の醜い穢れを一身に吸い込み、妹の美しさの「身代わり」として生きてきた私。 痛みで感覚を失った手も、鏡に映らない存在も、全ては家族のためだと信じていた。 でも、、そんな私、私じゃない!! ―― 私は、もう逃げない。 失われた人生を取り戻した今、私は、私に告げるだろう。 「私の人生に、おかえりなさい。」

白い結婚の末、離婚を選んだ公爵夫人は二度と戻らない』

鍛高譚
恋愛
白い結婚の末、「白い結婚」の末、私は冷遇され、夫は愛人を溺愛していた――ならば、もう要らないわ」 公爵令嬢 ジェニファー・ランカスター は、王弟 エドワード・クラレンス公爵 のもとへ政略結婚として嫁ぐ。 だが、その結婚生活は冷たく空虚なものだった。夫は愛人 ローザ・フィッツジェラルド に夢中になり、公爵夫人であるジェニファーは侮辱され、無視され続ける日々。 ――それでも、貴族の娘は耐えなければならないの? 何の愛もなく、ただ飾り物として扱われる結婚に見切りをつけたジェニファーは 「離婚」 を決意する。 しかし、王弟であるエドワードとの離婚は容易ではない。実家のランカスター家は猛反対し、王宮の重臣たちも彼女の決断を 「公爵家の恥」 と揶揄する。 それでも、ジェニファーは負けない。弁護士と協力し、着々と準備を進めていく。 そんな折、彼女は北方の大国 ヴォルフ公国の大公、アレクサンダー・ヴォルフ と出会う。 温かく誠実な彼との交流を通じて、ジェニファーは 「本当に大切にされること」 を知る。 そして、彼女の決断は、王都の社交界に大きな波紋を呼ぶこととなる――。 「公爵夫人を手放したことを、いつか後悔しても遅いわ」 「私はもう、あなたたちの飾り人形じゃない」 離婚を巡る策略、愛人の凋落、元夫の後悔――。 そして、新たな地で手にした 「愛される結婚」。

【完結】そんなに好きなら、そっちへ行けば?

雨雲レーダー
恋愛
侯爵令嬢クラリスは、王太子ユリウスから一方的に婚約破棄を告げられる。 理由は、平民の美少女リナリアに心を奪われたから。 クラリスはただ微笑み、こう返す。 「そんなに好きなら、そっちへ行けば?」 そうして物語は終わる……はずだった。 けれど、ここからすべてが狂い始める。 *完結まで予約投稿済みです。 *1日3回更新(7時・12時・18時)

「君は大丈夫だろ?」と可哀想な元恋人を選択した夫。~今さら復縁を迫っても、愛は既に錆び付いています~

水上
恋愛
夫と白い結婚をして、傾いた領地を努力と苦労の末に立て直した伯爵令嬢ヴィクトリア。 夫との関係も良好……、のように見えていた。 だが夫は「君は強いから」と、めそめそ泣く元恋人を優先し、ヴィクトリアの献身を踏みにじった。 その瞬間、彼女の恋心は錆び付き始めた。 「私が去ったら、この領地は終わりですが?」 愛想を尽かした彼女は、完璧な微笑みの裏で淡々と離縁の準備を始める。 これは、有能な妻が去り、無能な夫が泥沼に沈むまでを描く、冷徹な断罪劇。

処理中です...