【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ

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第5話 知らぬ間に積み上がる

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それは、ディートリヒが再び屋敷を離れてから、しばらく経った頃のことだった。

エレノアはいつものように、朝の執務室で帳簿に目を通していた。屋敷の支出、補給品の手配、領地から届く報告書――
どれも本来なら伯爵自身、あるいは執事が判断すべき内容だ。

だが、ディートリヒは不在であり、屋敷を滞りなく回すため、エレノアは“正妻”として、静かにその役目を引き受けていた。

「こちらの修正案ですが……」

机の前に立つのは、執事と数名の使用人たち。彼らは皆、自然とエレノアの言葉を待っている。

「この表現ですと、王都側に誤解を与えます。もう少し柔らかく整えましょう。
それから、こちらの商会には価格調整を求めました。条件は、今までより良くなっているはずです」

淡々と告げると、執事は一瞬だけ目を見開き、すぐに深く頷いた。

「……恐れ入ります、夫人。
あの商会が交渉に応じましたか。
ありがとうございます、実に見事なご判断です」

その声には、驚きと、はっきりした敬意が滲んでいた。

以前は、彼女の意見が求められることなどなかった。けれど今は違う。気づけば屋敷の中で、判断を仰がれる存在になっていた。



その日の午後、一通の書簡が屋敷に届いた。王城の印章が押された封蝋を見た瞬間、使用人たちの空気が、ぴんと張り詰める。

「……夫人宛、でございます」

エレノアは、わずかに目を瞬いた。自分宛に王城から書簡が届くなど、これまで一度もなかったからだ。慎重に封を切る。

そこに記されていたのは、先日彼女が整えた補給計画と文書についての評価だった。

「非常に配慮が行き届いた内容であった。
形式と実利の両立が見事である」

簡潔だが、言葉は明確だった。

エレノアは、思わず指先を止める。

――評価、されている。

それも、“伯爵夫人として”ではなく、
領主代行として。

胸の奥で、小さく、しかし確かな鼓動が響いた。



数日後、夜会の席でのこと。

以前と同じように、エレノアは控えめに微笑み、壁際に立っていた。

だが、声をかけてくる人々の態度が、明らかに変わっていた。

「先日の件、奥様がまとめられたとか」
「大変助かりました。おかげで話が円滑に進みまして」
「ぜひ、我が家のお茶会にもお越しください」

驚きに目を瞬かせるエレノアに、相手は柔らかく笑う。

「伯爵様はご不在でも、
屋敷が見事に回っていると聞いておりますよ」

その言葉は、胸の奥に、静かに染み込んでいった。



夜、寝室へ戻った後。

エレノアは、机の上に積まれた書簡や書類を見つめていた。それらは、誰かに命じられて集まったものではない。

――必要とされている。

そう思った瞬間、胸の奥で、何かがわずかに温度を持つ。

「……私は」

小さく、独り言のように呟く。

これまで、誰かの物語の端に追いやられてきた。けれど今は違う。ここでは、自分の判断が、誰かの役に立っている。

エレノアは、ゆっくりと息を吐いた。

ディートリヒは、まだ何も知らない。

自分が不在の間に、彼の妻が、静かに評価を積み上げていることを。

その事実が、この先どんな波紋を呼ぶのか――
エレノア自身も、まだ知らなかった。

ただ一つ。

この夜、彼女の中で、確かに何かが変わり始めていた。
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