5 / 40
第5話 知らぬ間に積み上がる
しおりを挟むそれは、ディートリヒが再び屋敷を離れてから、しばらく経った頃のことだった。
エレノアはいつものように、朝の執務室で帳簿に目を通していた。屋敷の支出、補給品の手配、領地から届く報告書――
どれも本来なら伯爵自身、あるいは執事が判断すべき内容だ。
だが、ディートリヒは不在であり、屋敷を滞りなく回すため、エレノアは“正妻”として、静かにその役目を引き受けていた。
「こちらの修正案ですが……」
机の前に立つのは、執事と数名の使用人たち。彼らは皆、自然とエレノアの言葉を待っている。
「この表現ですと、王都側に誤解を与えます。もう少し柔らかく整えましょう。
それから、こちらの商会には価格調整を求めました。条件は、今までより良くなっているはずです」
淡々と告げると、執事は一瞬だけ目を見開き、すぐに深く頷いた。
「……恐れ入ります、夫人。
あの商会が交渉に応じましたか。
ありがとうございます、実に見事なご判断です」
その声には、驚きと、はっきりした敬意が滲んでいた。
以前は、彼女の意見が求められることなどなかった。けれど今は違う。気づけば屋敷の中で、判断を仰がれる存在になっていた。
その日の午後、一通の書簡が屋敷に届いた。王城の印章が押された封蝋を見た瞬間、使用人たちの空気が、ぴんと張り詰める。
「……夫人宛、でございます」
エレノアは、わずかに目を瞬いた。自分宛に王城から書簡が届くなど、これまで一度もなかったからだ。慎重に封を切る。
そこに記されていたのは、先日彼女が整えた補給計画と文書についての評価だった。
「非常に配慮が行き届いた内容であった。
形式と実利の両立が見事である」
簡潔だが、言葉は明確だった。
エレノアは、思わず指先を止める。
――評価、されている。
それも、“伯爵夫人として”ではなく、
領主代行として。
胸の奥で、小さく、しかし確かな鼓動が響いた。
数日後、夜会の席でのこと。
以前と同じように、エレノアは控えめに微笑み、壁際に立っていた。
だが、声をかけてくる人々の態度が、明らかに変わっていた。
「先日の件、奥様がまとめられたとか」
「大変助かりました。おかげで話が円滑に進みまして」
「ぜひ、我が家のお茶会にもお越しください」
驚きに目を瞬かせるエレノアに、相手は柔らかく笑う。
「伯爵様はご不在でも、
屋敷が見事に回っていると聞いておりますよ」
その言葉は、胸の奥に、静かに染み込んでいった。
夜、寝室へ戻った後。
エレノアは、机の上に積まれた書簡や書類を見つめていた。それらは、誰かに命じられて集まったものではない。
――必要とされている。
そう思った瞬間、胸の奥で、何かがわずかに温度を持つ。
「……私は」
小さく、独り言のように呟く。
これまで、誰かの物語の端に追いやられてきた。けれど今は違う。ここでは、自分の判断が、誰かの役に立っている。
エレノアは、ゆっくりと息を吐いた。
ディートリヒは、まだ何も知らない。
自分が不在の間に、彼の妻が、静かに評価を積み上げていることを。
その事実が、この先どんな波紋を呼ぶのか――
エレノア自身も、まだ知らなかった。
ただ一つ。
この夜、彼女の中で、確かに何かが変わり始めていた。
1,241
あなたにおすすめの小説
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫」と笑った夫。~王宮から私が去ったあと「愛していた」と泣きついても、もう手遅れです~
水上
恋愛
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫だ」
夫である王太子はそう笑い、泣き真似が得意な見習い令嬢ばかりを優先した。
王太子妃セシリアは、怒り狂うこともなく、静かに心を閉ざす。
「左様でございますか」
彼女は夫への期待というノイズを遮断し、離縁の準備を始めた。
婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない
柴田はつみ
恋愛
伯爵令嬢セシリアは、王宮の舞踏会で王太子レイヴンから公開の場で婚約破棄を言い渡され、その場で倒れた。
目覚めた彼女は、礼儀も常識も覚えているのに――ただ一つ、レイヴンだけを思い出せない。
「あなたは、どなたですか?」
その一言に、彼の瞳は壊れた。
けれどレイヴンは何も語らず、セシリアを遠ざける。彼女を守るために、あの日婚約を捨てたのだと告げられないまま。
セシリアは過去を断ち切り、王宮の侍女として新しい生活を始める。
優しく手を差し伸べる護衛騎士アデルと心を通わせていくほど、レイヴンの胸は嫉妬と後悔で焼けていった。
――守るために捨てたはずなのに。忘れられたまま、他の男に笑う彼女を見ていられない。
一方、王宮では“偽聖女”の陰謀と、セシリアの血に眠る秘密が動き出す。
記憶を取り戻せば、彼女は狙われる。取り戻さなければ、二人は永遠に届かない。
これは、忘れてしまった令嬢と、忘れられてなお愛を捨てられない王太子が、もう一度“選び直す”恋の物語。
あなたへの愛を捨てた日
柴田はつみ
恋愛
公爵夫人エステルは、冷徹な夫レオニスを心から愛していた。彼の好みを調べ、帰宅を待ちわび、献身的に尽くす毎日。
しかし、ある夜会の回廊で、エステルは残酷な真実を知る。
レオニスが、未亡人クラリスの手を取り囁いていたのだ。
「君のような(自立した)女性が、私の隣にいるべきだった」
エステルは悟る。自分の愛は彼にとって「重荷」であり、自分という人間は彼にとって「不足」だったのだと。その瞬間、彼女の中で何かが音を立てて砕け散る。
私の人生に、おかえりなさい。――都合のいい「お姉ちゃん」は、もうどこにもいません
しょくぱん
恋愛
「お姉ちゃんなんだから」
――それは私を縛る呪いの言葉だった。
家族の醜い穢れを一身に吸い込み、妹の美しさの「身代わり」として生きてきた私。
痛みで感覚を失った手も、鏡に映らない存在も、全ては家族のためだと信じていた。
でも、、そんな私、私じゃない!!
―― 私は、もう逃げない。 失われた人生を取り戻した今、私は、私に告げるだろう。
「私の人生に、おかえりなさい。」
幼馴染最優先の婚約者に愛想が尽きたので、笑って家出しました ― 笑顔で去っただけなのに、なぜ泣いているのですか
ラムネ
恋愛
侯爵令嬢リオナは、婚約者アルベルトが「幼馴染が可哀想だから」と約束を破り続ける日々に耐えていた。領地再建の帳簿も契約も、実はリオナが陰で支えていたのに、彼は「君は強いから」と当然のように扱う。決定的な侮辱の夜、リオナは怒らず泣かず、完璧な笑顔で婚約指輪だけを返して屋敷を去った――引継ぎは、何一つ残さずに。
翌日から止まる交易、崩れる資金繰り、露出する不正。追いすがるアルベルトを置き去りに、リオナは王立監査院の臨時任官で辺境へ。冷徹と噂される監察騎士レオンハルトと共に、数字と契約で不正を断ち、交易路を再生していく。
笑顔で去っただけなのに、泣くのは捨てた側だった。
「君は大丈夫だろ?」と可哀想な元恋人を選択した夫。~今さら復縁を迫っても、愛は既に錆び付いています~
水上
恋愛
夫と白い結婚をして、傾いた領地を努力と苦労の末に立て直した伯爵令嬢ヴィクトリア。
夫との関係も良好……、のように見えていた。
だが夫は「君は強いから」と、めそめそ泣く元恋人を優先し、ヴィクトリアの献身を踏みにじった。
その瞬間、彼女の恋心は錆び付き始めた。
「私が去ったら、この領地は終わりですが?」
愛想を尽かした彼女は、完璧な微笑みの裏で淡々と離縁の準備を始める。
これは、有能な妻が去り、無能な夫が泥沼に沈むまでを描く、冷徹な断罪劇。
白い結婚の末、離婚を選んだ公爵夫人は二度と戻らない』
鍛高譚
恋愛
白い結婚の末、「白い結婚」の末、私は冷遇され、夫は愛人を溺愛していた――ならば、もう要らないわ」
公爵令嬢 ジェニファー・ランカスター は、王弟 エドワード・クラレンス公爵 のもとへ政略結婚として嫁ぐ。
だが、その結婚生活は冷たく空虚なものだった。夫は愛人 ローザ・フィッツジェラルド に夢中になり、公爵夫人であるジェニファーは侮辱され、無視され続ける日々。
――それでも、貴族の娘は耐えなければならないの?
何の愛もなく、ただ飾り物として扱われる結婚に見切りをつけたジェニファーは 「離婚」 を決意する。
しかし、王弟であるエドワードとの離婚は容易ではない。実家のランカスター家は猛反対し、王宮の重臣たちも彼女の決断を 「公爵家の恥」 と揶揄する。
それでも、ジェニファーは負けない。弁護士と協力し、着々と準備を進めていく。
そんな折、彼女は北方の大国 ヴォルフ公国の大公、アレクサンダー・ヴォルフ と出会う。
温かく誠実な彼との交流を通じて、ジェニファーは 「本当に大切にされること」 を知る。
そして、彼女の決断は、王都の社交界に大きな波紋を呼ぶこととなる――。
「公爵夫人を手放したことを、いつか後悔しても遅いわ」
「私はもう、あなたたちの飾り人形じゃない」
離婚を巡る策略、愛人の凋落、元夫の後悔――。
そして、新たな地で手にした 「愛される結婚」。
【完結】そんなに好きなら、そっちへ行けば?
雨雲レーダー
恋愛
侯爵令嬢クラリスは、王太子ユリウスから一方的に婚約破棄を告げられる。
理由は、平民の美少女リナリアに心を奪われたから。
クラリスはただ微笑み、こう返す。
「そんなに好きなら、そっちへ行けば?」
そうして物語は終わる……はずだった。
けれど、ここからすべてが狂い始める。
*完結まで予約投稿済みです。
*1日3回更新(7時・12時・18時)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる