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第4話 久しぶりに戻られた旦那様
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その夜、珍しく屋敷に馬車の音が響いた。
深夜に近い時刻だった。エレノアは寝室の書き机で帳簿を閉じ、そろそろ灯りを落とそうとしていたところだった。
机の上には、ディートリヒが手がけている政務や軍備に関する資料が積まれている。
本来なら妻が目を通す必要のない書類だが、屋敷の管理と支出を滞りなく回すため、彼女は黙って整理を続けていた。
――これも、正妻の役目。
そう言い聞かせることには、もう慣れている。
「……旦那様が、お戻りです」
扉の外から、控えめな声が告げた。
一瞬、心臓が跳ねた。
それは期待というより――
反射に近い動きだった。
「そう……」
短く答えながら、エレノアは自分の声が驚くほど落ち着いていることに気づく。
最後に顔を合わせたのは、いつだっただろう。
――数か月ぶり。
もはや、数える意味すら薄れていた。
この屋敷で夫の存在を感じるのは、彼の署名が入った書類を見たときか、使用人たちの緊張が一段階増したときくらいだ。
しばらくして、寝室の扉が叩かれる。
「入る」
低く、抑揚のない声。
返事を待つことなく、ディートリヒは部屋へ入ってきた。
軍装を脱いだばかりの黒い外套。長い遠征と会議続きで、疲労の色は濃い。それでも、その姿は相変わらず凛としていて、
この男が“英雄”と呼ばれる理由を否応なく思い出させた。
エレノアは立ち上がり、伯爵夫人として、静かに頭を下げる。
「お帰りなさいませ」
それが、妻として用意された言葉だった。
「……ああ」
短い返答。視線は一瞬だけこちらをかすめ、すぐに逸らされる。
沈黙が落ちた。
重く、冷たい沈黙だった。同じ部屋にいても、二人の間には、埋めようのない距離が横たわっている。
「急ぎで伝えておくことがある」
彼はそう切り出すと、感情の起伏を感じさせない口調で続けた。
「しばらく、さらに戻れなくなる。
軍の再編と、国境視察が入った」
それは報告というより、決定事項だった。
妻の都合や心情を挟む余地は、最初からない。
「……承知いたしました」
エレノアは即座に答える。それ以外の選択肢はない。
「屋敷の管理は今までどおりでいい。特別な判断は求めない」
まるで、執事や使用人に指示を出すかのような言い方だった。
一瞬、迷いが胸をよぎる。
――今なら。
――今、この場なら。
エレノアは、ほんのわずかだけ息を吸った。
「旦那様」
名前を呼ぶと、
彼は少しだけ眉を動かした。
「……何だ」
「私に、何か至らぬ点がございましたでしょうか」
言葉を選び、壊れ物を扱うように、慎重に問いかける。
「もし、伯爵夫人として不適切であれば……」
ディートリヒは、はっきりと遮った。
「問題はない」
即答だった。
「君は役目を果たしている。それ以上を求める必要はない」
その言葉は、慰めでも、評価でもなかった。やはり、どこまでも形式張ったものだった。
――線を引くための言葉。
エレノアの胸が、静かに沈む。
「夫婦としての関係を、無理に築く必要もない」
淡々と、追い打ちのように続く。
「この結婚は政略だ。最初から、互いに期待すべきものではない」
それが、彼の“答え”だった。
エレノアは、何も言えなくなる。
怒りも、悲しみも、声になる前に押し込められていく。
「……失礼いたします」
深く頭を下げ、それ以上の言葉をすべて飲み込む。
ディートリヒは何も言わず、そのまま踵を返した。
扉が閉まる音が、やけに大きく寝室に響く。
ひとり残された部屋で、エレノアはしばらく動けずにいた。
――やはり。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れる。
彼にとって、私は――最初から“妻”ではなかった。
そう理解した瞬間、不思議なほど、心が静かになった。
涙も出ない。
ただ、一つの決意だけが、ゆっくりと形を持ち始めていた。
深夜に近い時刻だった。エレノアは寝室の書き机で帳簿を閉じ、そろそろ灯りを落とそうとしていたところだった。
机の上には、ディートリヒが手がけている政務や軍備に関する資料が積まれている。
本来なら妻が目を通す必要のない書類だが、屋敷の管理と支出を滞りなく回すため、彼女は黙って整理を続けていた。
――これも、正妻の役目。
そう言い聞かせることには、もう慣れている。
「……旦那様が、お戻りです」
扉の外から、控えめな声が告げた。
一瞬、心臓が跳ねた。
それは期待というより――
反射に近い動きだった。
「そう……」
短く答えながら、エレノアは自分の声が驚くほど落ち着いていることに気づく。
最後に顔を合わせたのは、いつだっただろう。
――数か月ぶり。
もはや、数える意味すら薄れていた。
この屋敷で夫の存在を感じるのは、彼の署名が入った書類を見たときか、使用人たちの緊張が一段階増したときくらいだ。
しばらくして、寝室の扉が叩かれる。
「入る」
低く、抑揚のない声。
返事を待つことなく、ディートリヒは部屋へ入ってきた。
軍装を脱いだばかりの黒い外套。長い遠征と会議続きで、疲労の色は濃い。それでも、その姿は相変わらず凛としていて、
この男が“英雄”と呼ばれる理由を否応なく思い出させた。
エレノアは立ち上がり、伯爵夫人として、静かに頭を下げる。
「お帰りなさいませ」
それが、妻として用意された言葉だった。
「……ああ」
短い返答。視線は一瞬だけこちらをかすめ、すぐに逸らされる。
沈黙が落ちた。
重く、冷たい沈黙だった。同じ部屋にいても、二人の間には、埋めようのない距離が横たわっている。
「急ぎで伝えておくことがある」
彼はそう切り出すと、感情の起伏を感じさせない口調で続けた。
「しばらく、さらに戻れなくなる。
軍の再編と、国境視察が入った」
それは報告というより、決定事項だった。
妻の都合や心情を挟む余地は、最初からない。
「……承知いたしました」
エレノアは即座に答える。それ以外の選択肢はない。
「屋敷の管理は今までどおりでいい。特別な判断は求めない」
まるで、執事や使用人に指示を出すかのような言い方だった。
一瞬、迷いが胸をよぎる。
――今なら。
――今、この場なら。
エレノアは、ほんのわずかだけ息を吸った。
「旦那様」
名前を呼ぶと、
彼は少しだけ眉を動かした。
「……何だ」
「私に、何か至らぬ点がございましたでしょうか」
言葉を選び、壊れ物を扱うように、慎重に問いかける。
「もし、伯爵夫人として不適切であれば……」
ディートリヒは、はっきりと遮った。
「問題はない」
即答だった。
「君は役目を果たしている。それ以上を求める必要はない」
その言葉は、慰めでも、評価でもなかった。やはり、どこまでも形式張ったものだった。
――線を引くための言葉。
エレノアの胸が、静かに沈む。
「夫婦としての関係を、無理に築く必要もない」
淡々と、追い打ちのように続く。
「この結婚は政略だ。最初から、互いに期待すべきものではない」
それが、彼の“答え”だった。
エレノアは、何も言えなくなる。
怒りも、悲しみも、声になる前に押し込められていく。
「……失礼いたします」
深く頭を下げ、それ以上の言葉をすべて飲み込む。
ディートリヒは何も言わず、そのまま踵を返した。
扉が閉まる音が、やけに大きく寝室に響く。
ひとり残された部屋で、エレノアはしばらく動けずにいた。
――やはり。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れる。
彼にとって、私は――最初から“妻”ではなかった。
そう理解した瞬間、不思議なほど、心が静かになった。
涙も出ない。
ただ、一つの決意だけが、ゆっくりと形を持ち始めていた。
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