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第3話 私は必要な者ではない。
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結婚後、ディートリヒは屋敷にほとんど戻らなかった。
軍務、政務、会議――
そのすべてが、「伯爵として正しい行動」だった。だが、夫としては、何一つ果たされていなかった。
朝、目を覚ましても彼の姿はない。夜、灯りを落としても、扉が開く音を聞くことはなかった。
屋敷に彼の姿がないことは、いつしか特別なことではなくなり、もはや日常そのものになっていた。
使用人たちは何も言わない。まるで、それが最初から決められていた役割であるかのように。誰も寄り添わない。
――ただ一人、エレノア付きの侍女ユリアだけは違った。
ある日、エレノアの食事が用意されていないことがあった。その小さな異変に、彼女はいち早く気づき、すぐに手配を整えてくれた。
当たり前のことだ。けれど、その“当たり前”が守られたことで、エレノアの胸は、ほんの少しだけ救われた気がした。
「夫人に不要な情報は与えるな」
執事にそう命じたのも、ディートリヒ自身だという。
その言葉どおり、エレノアのもとに届くのは最低限の報告だけだった。
今日の予定も、いつ戻るのかも、どこへ向かっているのかさえ知らされない。
夫の行動は、彼女の生活と切り離された、まったく別の世界の出来事だった。
エレノアは、豪奢で、広く、静まり返った伯爵家の中で、“何も知らされない妻”として日々を過ごしていた。
手入れの行き届いた調度品。
季節の花が絶えず飾られる廊下。
不足のない衣食住。
けれど、そこにあるのは“満たされた生活”ではない。
愛もない。
説明もない。
期待すら、向けられていない。
ただ――
「正妻」という肩書きだけが、
彼女の存在をかろうじて繋ぎとめていた。
♦︎
夜会の日。
煌めくシャンデリアの下、
華やかな音楽と笑い声が広間を満たす。
エレノアは伯爵夫人として、完璧な微笑みを浮かべていた。
背筋を伸ばし、言葉を選び、誰にも違和感を抱かせないように。
その耳に、ひそやかな囁き声が届く。
「アイゼンヴァルト伯爵は、奥方に興味がないそうよ」
「ほら、軍の女神と呼ばれる令嬢と、随分親しいとか……」
言葉は小さい。けれど、確実に届く距離だった。
噂は、氷の刃のように、静かに胸へ刺さる。
けれどエレノアは、何も言わない。否定も、弁解もしない。
できなかったのではない。
しなかったのだ。
令嬢として。
伯爵夫人として。
感情を表に出さない術だけは、
いつの間にか、体に染みついていた。
夜会が終わり、静まり返った屋敷へ戻る。
ひとりきりの寝室。広いベッドに、もう一人分の温もりはない。
灯りを落とした部屋で、エレノアはそっと胸に手を当てた。
――私は、最初から必要なかったのだろうか。
問いかけても、答えは返ってこない。
返ってくるのは、自分の鼓動と、静かに満ちていく孤独だけ。
それは、声を上げるほどの痛みではない。
けれど確実に、心をすり減らしていく感情だった。
エレノアは目を閉じる。
こうしてまた一日が終わる。何も起こらず、何も変わらず、
ただ――
自分だけが、少しずつ削れていく夜だった。
軍務、政務、会議――
そのすべてが、「伯爵として正しい行動」だった。だが、夫としては、何一つ果たされていなかった。
朝、目を覚ましても彼の姿はない。夜、灯りを落としても、扉が開く音を聞くことはなかった。
屋敷に彼の姿がないことは、いつしか特別なことではなくなり、もはや日常そのものになっていた。
使用人たちは何も言わない。まるで、それが最初から決められていた役割であるかのように。誰も寄り添わない。
――ただ一人、エレノア付きの侍女ユリアだけは違った。
ある日、エレノアの食事が用意されていないことがあった。その小さな異変に、彼女はいち早く気づき、すぐに手配を整えてくれた。
当たり前のことだ。けれど、その“当たり前”が守られたことで、エレノアの胸は、ほんの少しだけ救われた気がした。
「夫人に不要な情報は与えるな」
執事にそう命じたのも、ディートリヒ自身だという。
その言葉どおり、エレノアのもとに届くのは最低限の報告だけだった。
今日の予定も、いつ戻るのかも、どこへ向かっているのかさえ知らされない。
夫の行動は、彼女の生活と切り離された、まったく別の世界の出来事だった。
エレノアは、豪奢で、広く、静まり返った伯爵家の中で、“何も知らされない妻”として日々を過ごしていた。
手入れの行き届いた調度品。
季節の花が絶えず飾られる廊下。
不足のない衣食住。
けれど、そこにあるのは“満たされた生活”ではない。
愛もない。
説明もない。
期待すら、向けられていない。
ただ――
「正妻」という肩書きだけが、
彼女の存在をかろうじて繋ぎとめていた。
♦︎
夜会の日。
煌めくシャンデリアの下、
華やかな音楽と笑い声が広間を満たす。
エレノアは伯爵夫人として、完璧な微笑みを浮かべていた。
背筋を伸ばし、言葉を選び、誰にも違和感を抱かせないように。
その耳に、ひそやかな囁き声が届く。
「アイゼンヴァルト伯爵は、奥方に興味がないそうよ」
「ほら、軍の女神と呼ばれる令嬢と、随分親しいとか……」
言葉は小さい。けれど、確実に届く距離だった。
噂は、氷の刃のように、静かに胸へ刺さる。
けれどエレノアは、何も言わない。否定も、弁解もしない。
できなかったのではない。
しなかったのだ。
令嬢として。
伯爵夫人として。
感情を表に出さない術だけは、
いつの間にか、体に染みついていた。
夜会が終わり、静まり返った屋敷へ戻る。
ひとりきりの寝室。広いベッドに、もう一人分の温もりはない。
灯りを落とした部屋で、エレノアはそっと胸に手を当てた。
――私は、最初から必要なかったのだろうか。
問いかけても、答えは返ってこない。
返ってくるのは、自分の鼓動と、静かに満ちていく孤独だけ。
それは、声を上げるほどの痛みではない。
けれど確実に、心をすり減らしていく感情だった。
エレノアは目を閉じる。
こうしてまた一日が終わる。何も起こらず、何も変わらず、
ただ――
自分だけが、少しずつ削れていく夜だった。
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