2 / 5
第2話 夫は私を見ていない
しおりを挟む
朝食の席で、アレクシスは一度もエレノアを見なかった。視線は常に手元の書類か、窓の外へ向けられている。
静かな食堂に響くのは、食器が触れ合う乾いた音だけだった。
「今朝は、少し冷えますね」
エレノアが勇気を振り絞って声をかけても、
返ってきたのは、あまりにも短い一言だけ。
「……そうだな」
それ以上、会話が続くことはない。
沈黙が重く流れた後、
彼は淡々とした口調で言った。
「必要な物があるなら、執事に伝えろ。
好きなものを買えばいい。私に報告する必要はない」
「……かしこまりました」
エレノアがそう答えても、
彼の視線がこちらに向くことはない。
今日も顔を合わせたのは、
婚礼の日から数えて、ようやく一か月ぶりだった。
まるで、同じ屋敷に暮らしていないかのように。
「社交も、無理に出なくていい。
伯爵夫人として最低限の体裁さえ整っていれば問題ない。――愛人は作るな」
最後の一言だけが、妙に強く言い切られた。
その言葉には、気遣いも、配慮も、温度もなかった。まるで、人を見ていない。
それは“優しさ”ではない。妻を思いやって距離を置いているわけでもない。
――ただの、関心のなさだった。
エレノアは、胸の奥で静かに息を吐く。
実家のリーヴェルト伯爵家でも、彼女の居場所はなかった。いつも話の中心にいるのは、美しく、天真爛漫な妹――マリアージュ。
かつて婚約者だったトーマス・カルバインも、常にエレノアより、妹を優先した。
「マリアージュが行きたがっているから、三人で行こう」
そう言われて演劇へ出かけても、気がつけば二人だけで楽しみ、エレノアの存在など忘れられていた。
そして、ある日。
「お姉様。私……トーマスと恋に落ちてしまったの」
マリアージュは、まるで仕方のないことのようにそう告げた。
両親に助けを求めても、
母――クレア伯爵夫人は微笑んで言った。
「まあ、あなたはお姉様なのだから、譲ってあげなさい」
そこからは、早かった。
渋っていた父も、やがて折れ、いつの間にかエレノアは“いないもの”として扱われるようになった。
驚きはなかった。
この態度にも、すでに慣れてしまっている自分がいたからだ。
――いつも、物語の中心にいるのは私ではない。
この結婚が、愛情とは無縁の政略であること。彼の心が、自分には向いていないこと。
エレノアは最初から、理解していた。もう慣れている。期待など、しない。
それでも――
朝食のたびに、向かいに座る夫が「他人」よりも遠く感じられるこの時間は、
少しずつ、確実に心を削っていった。
女主人としての仕事に、特別な制限がないことだけが、せめてもの救いだった。
静かな食堂に響くのは、食器が触れ合う乾いた音だけだった。
「今朝は、少し冷えますね」
エレノアが勇気を振り絞って声をかけても、
返ってきたのは、あまりにも短い一言だけ。
「……そうだな」
それ以上、会話が続くことはない。
沈黙が重く流れた後、
彼は淡々とした口調で言った。
「必要な物があるなら、執事に伝えろ。
好きなものを買えばいい。私に報告する必要はない」
「……かしこまりました」
エレノアがそう答えても、
彼の視線がこちらに向くことはない。
今日も顔を合わせたのは、
婚礼の日から数えて、ようやく一か月ぶりだった。
まるで、同じ屋敷に暮らしていないかのように。
「社交も、無理に出なくていい。
伯爵夫人として最低限の体裁さえ整っていれば問題ない。――愛人は作るな」
最後の一言だけが、妙に強く言い切られた。
その言葉には、気遣いも、配慮も、温度もなかった。まるで、人を見ていない。
それは“優しさ”ではない。妻を思いやって距離を置いているわけでもない。
――ただの、関心のなさだった。
エレノアは、胸の奥で静かに息を吐く。
実家のリーヴェルト伯爵家でも、彼女の居場所はなかった。いつも話の中心にいるのは、美しく、天真爛漫な妹――マリアージュ。
かつて婚約者だったトーマス・カルバインも、常にエレノアより、妹を優先した。
「マリアージュが行きたがっているから、三人で行こう」
そう言われて演劇へ出かけても、気がつけば二人だけで楽しみ、エレノアの存在など忘れられていた。
そして、ある日。
「お姉様。私……トーマスと恋に落ちてしまったの」
マリアージュは、まるで仕方のないことのようにそう告げた。
両親に助けを求めても、
母――クレア伯爵夫人は微笑んで言った。
「まあ、あなたはお姉様なのだから、譲ってあげなさい」
そこからは、早かった。
渋っていた父も、やがて折れ、いつの間にかエレノアは“いないもの”として扱われるようになった。
驚きはなかった。
この態度にも、すでに慣れてしまっている自分がいたからだ。
――いつも、物語の中心にいるのは私ではない。
この結婚が、愛情とは無縁の政略であること。彼の心が、自分には向いていないこと。
エレノアは最初から、理解していた。もう慣れている。期待など、しない。
それでも――
朝食のたびに、向かいに座る夫が「他人」よりも遠く感じられるこの時間は、
少しずつ、確実に心を削っていった。
女主人としての仕事に、特別な制限がないことだけが、せめてもの救いだった。
66
あなたにおすすめの小説
愛人がいる夫との政略結婚の行く末は?
しゃーりん
恋愛
子爵令嬢セピアは侯爵令息リースハルトと政略結婚した。
財政難に陥った侯爵家が資産家の子爵家を頼ったことによるもの。
初夜が終わった直後、『愛する人がいる』と告げたリースハルト。
まごうことなき政略結婚。教会で愛を誓ったけれども、もう無効なのね。
好きにしたらいいけど、愛人を囲うお金はあなたの交際費からだからね?
実家の爵位が下でも援助しているのはこちらだからお金を厳しく管理します。
侯爵家がどうなろうと構わないと思っていたけれど、将来の子供のために頑張るセピアのお話です。
短編 跡継ぎを産めない原因は私だと決めつけられていましたが、子ができないのは夫の方でした
朝陽千早
恋愛
侯爵家に嫁いで三年。
子を授からないのは私のせいだと、夫や周囲から責められてきた。
だがある日、夫は使用人が子を身籠ったと告げ、「その子を跡継ぎとして育てろ」と言い出す。
――私は静かに調べた。
夫が知らないまま目を背けてきた“事実”を、ひとつずつ確かめて。
嘘も責任も押しつけられる人生に別れを告げて、私は自分の足で、新たな道を歩き出す。
旦那様。私が悪女ならば、愛人の女は何になるのかしら?
白雲八鈴
恋愛
我が公爵家主催の夜会の最中。夫が愛人を連れてやってきたのです。そして、私を悪女という理由で離縁を突きつけてきました。
離縁して欲しいというのであれば、今まで支援してきた金額を全額返済していただけません?
あら?愛人の貴女が支払ってくれると?お優しいわね。
私が悪女というのであれば、妻のいる夫の愛人に収まっている貴女は何なのかしら?
完結 愛される自信を失ったのは私の罪
音爽(ネソウ)
恋愛
顔も知らないまま婚約した二人。貴族では当たり前の出会いだった。
それでも互いを尊重して歩み寄るのである。幸いにも両人とも一目で気に入ってしまう。
ところが「従妹」称する少女が現れて「私が婚約するはずだった返せ」と宣戦布告してきた。
元婚約者様へ――あなたは泣き叫んでいるようですが、私はとても幸せです。
有賀冬馬
恋愛
侯爵令嬢の私は、婚約者である騎士アラン様との結婚を夢見ていた。
けれど彼は、「平凡な令嬢は団長の妻にふさわしくない」と、私を捨ててより高位の令嬢を選ぶ。
絶望に暮れた私が、旅の道中で出会ったのは、国中から恐れられる魔導王様だった。
「君は決して平凡なんかじゃない」
誰も知らない優しい笑顔で、私を大切に扱ってくれる彼。やがて私たちは夫婦になり、数年後。
政争で窮地に陥ったアラン様が、助けを求めて城にやってくる。
玉座の横で微笑む私を見て愕然とする彼に、魔導王様は冷たく一言。
「我が妃を泣かせた罪、覚悟はあるな」
――ああ、アラン様。あなたに捨てられたおかげで、私はこんなに幸せになりました。心から、どうぞお幸せに。
遊び人の令嬢が目を付けたのは、私の真面目な婚約者でした
おいどん
恋愛
子爵家の令嬢エリーネと伯爵家の次男のノルトが婚約を結んだのは、半年前だった。
真面目で優秀なノルトに相応しい婚約者であろうとするものの、エリーネには自信がなかった。
ある日、遊び人と噂の令嬢べルティーナとノルトが共にいるところを見てしまう。
「真面目クンは壁さえ破っちゃえばこっちのもんだからね〜」
「きっと、彼女の美しさに嫉妬しているのだわ…」
「…今度は、ちゃんと言葉にするから」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる