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第20話 空回る歩幅
しおりを挟む変わろう、と決めた。
それは衝動ではなく、
逃げ道を断たれた末の、必然だった。
ディートリヒは、それまで当然のように部下へ投げていた細かな確認を、自分の手で行うようになった。屋敷へ戻る時刻も、意識して早める。
「今日は、戻られるのですね」
使用人にそう言われるたび、胸の奥が、わずかにざわつく。
――今までは、戻らないのが当たり前だった。
夕刻。執務室の灯りが点いているのを見て、ディートリヒは足を止める。
ノックする。
「……どうぞ」
エレノアの声。
中へ入ると、彼女は書類に目を落としたままだった。
「……今日は」
言葉を探す。
「王城での授業は、どうだった」
以前なら、聞こうともしなかった問い。
エレノアは顔を上げ、事実だけを返す。
「順調です」
評価も、感想もない。
「……そうか」
沈黙。
埋めようとして、さらに言葉を重ねる。
「……無理は、していないか」
自分でも驚くほど、不器用な問いだった。
「無理は、しておりません」
丁寧だが、そこに踏み込む余地はない。
食事の席。
ディートリヒは、これまで一度も気に留めなかったことに気づく。
――彼女の配膳は、
自分が不在だった頃を基準に整えられている。
時間も、量も、変わらない。
「……これで、足りるか」
唐突な言葉に、
エレノアは一瞬だけ視線を上げた。
「はい。問題ありません」
それ以上でも、以下でもない。
彼は、自分が“変わった証”を探していることに気づき、内心で舌打ちする。
――評価を求めている。
その時点で、まだズレている。
数日後。第三王女の授業が休みの日。
「今日は王城へ行かないのか」
思わず、聞いてしまう。
「はい。今日は、絵本の続きを描きますので」
迷いのない答え。
「……そうか」
そこで、初めて理解する。
彼女の時間は、王城のものでも、屋敷のものでもない。
――彼女自身のものだ。
変わろうとしている。それは事実だ。
怒鳴らない。命令しない。話を聞こうとする。
だが――彼女の反応は、変わらない。
距離は、縮まらない。
夜、一人で書類を閉じながら、ディートリヒは拳を握る。
戦場では、努力は結果に結びついた。
鍛錬すれば強くなり、学べば勝てた。
だが――
人の心は、違う。
「……遅すぎるのか」
誰にともなく呟く。
その変化に、最初に気づいたのは執事だった。
長年仕えてきた男は、主人の足取りや声の調子のわずかな違いを見逃さない。
「……最近は、よく屋敷にお戻りですね」
夕刻、書類を受け取りながら、何気なく言う。
「問題があるか」
「いいえ。むしろ、結構なことかと」
一拍置き、続けた。
「ですが――少し、お疲れのようにも見えます」
「……そう見えるか」
「はい。“考えておられる”お顔です」
それは、戦の前とも、会議の前とも違う表情だった。
「……努力はしている」
ディートリヒは、ぽつりと言う。
「だが、何一つ、届いていない」
弱音に近い言葉。
執事はすぐには答えず、整えられた応接室へ視線を向ける。
「伯爵。“変わろうとしている”ことと、“伝わる”ことは、別でございます」
「分かっている。だが……どうすればいい」
執事は、はっきりと告げた。
「――相手が、何を大切にしているかを
見極めておられますか」
言葉が、胸に落ちる。
「“好きなもの”でも構いません。何に時間を使い、何を選び、何を守ろうとしているのか」
「それを知らずに近づけば、どんな言葉も、自己満足になります」
叱責ではない。
事実の指摘だった。
――彼女は、何を好んでいた?
思い浮かばない。
食事。
服装。
社交。
どれも、“妻として把握すべき項目”でしかなかった。
「奥様は、“理解されること”を求めておられません」
「……なら、何を」
「“邪魔されないこと”です」
短い答え。
「ご自身の時間と判断を、とても大切にされている」
王城での授業。
絵本作り。
領地の采配。
すべて、彼女が自分で選んだこと。
「それを尊重せずして、歩み寄りは成り立ちません」
その夜。
ディートリヒは自室へ向かわず、屋敷の廊下をゆっくりと歩いた。
灯りの位置。
本の置き方。
作業机の周囲。
――彼女の痕跡。
今まで、視界に入っていなかったもの。
変わるとは、行動を増やすことではない。
相手を見る視線を、持ち直すことなのだ。
だが――それでも、まだ足りない。
これは始まりにすぎない。
本当に届くかどうかは、彼がこれから
何を選ばず、何を奪わず、何を尊重できるかにかかっている。
その道は、まだ遠かった。
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