【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ

文字の大きさ
27 / 40

第26話  届いてしまった手紙

しおりを挟む



それは、よくある一通の私信だった。

装飾のない封筒。丁寧な筆跡。差出人の名を見た瞬間、ディートリヒはわずかに眉をひそめた。

――マリアージュ・リーヴェルト。
エレノアの妹。

(……なぜ、今)

宛名は確かにエレノアだ。だが彼女は王城に出ている。机の上に置かれたままの手紙を前に、ディートリヒは一瞬だけ迷った。

――見るべきではない。

分かっている。それでも、手は伸びてしまった。

(家のことだ。急ぎかもしれない)

言い訳はいくらでもあった。



手紙を手にとる。その瞬間、紙の上に並ぶ文字が、あまりにも――明るかった。



お姉様

お元気かしら。
最近、お名前をよくお聞きするので、
懐かしくなってお手紙を書きました。

(……)

冒頭から、違和感があった。第三王女殿下の先生をなさっているとか。正直、少し驚きました。でも、お姉様は昔から押しつけたりしないところがありましたものね。
押しつけない。その言葉に、ディートリヒの指が、わずかに強張る。きっと王女殿下も安心なさっているのでしょう。お姉様は、そういう“役割”に向いている方ですから。

――役割。

胸の奥に、鈍い痛みが走る。ただ、少し心配なのです。お姉様は、いつも無理をなさるから。あまり前に出ると、周囲が戸惑ってしまうこともあるでしょう?

善意の言葉だ。疑いようもなく。だからこそ、逃げ場がない。

昔から、お姉様は自分から欲しがることをなさらなかった。それは美徳だと思います。本当に。

――美徳。

だから、必要とされなくなったら、きっと静かに身を引くのでしょうね。

その一文で、ディートリヒの呼吸が止まった。



私は、お姉様が心配なだけです。周りが期待しすぎて、お姉様がまた傷つくことのないように。お姉様は、そういう人ですから。どうか、ご自愛ください。

妹より
マリアージュ



――そういう人。

何度も、何度も使われてきた言葉。便利で、やさしくて、すべてを決めつける言葉。

ディートリヒは、手紙を机の上に置いたまま、しばらく動けなかった。怒りはない。憎しみもない。

ただ――圧倒的な理解不足が、そこにあった。

(……彼女は)
(エレノアは、こんなふうに見られてきたのか)

静かで。欲しがらず。前に出ず。必要なくなれば、引く。

――だから、扱いやすい。

その評価が、どこから来たものか。今なら、はっきり分かる。



ディートリヒは、ようやく気づいた。

エレノアが、なぜ「評価されること」を信じなくなったのか。なぜ、褒められても、期待されても、決して喜ばなかったのか。

それは――いつも「引く前提」で語られてきたからだ。選ばれる前に、去るものとして扱われてきた。



その瞬間、彼は理解した。自分が、どれほど残酷な場所に彼女を置いてきたのかを。
沈黙を、従順だと思った。距離を、無関心だと誤解した。

だが本当は――彼女は最初から、逃げ道を持たされていなかったのだ。



ディートリヒは、手紙を折り畳み、
静かに封筒へ戻した。

――これは、彼女に渡してはいけない。
少なくとも、今のままでは。

だが同時に、分かっていた。この手紙は、決定打だ。

妹の無邪気な言葉は、彼女の背中を
そっと、しかし確実に押す。

――去る方向へ。

(……間に合うのか)

初めて、ディートリヒは自分に問いかけた。これは戦ではない。交渉でもない。

信頼を、一から築けるかどうかの話だ。彼は、まだ何も取り戻していない。
だが――失いかけているものの正体だけは、ようやく、はっきりと見えた。



封筒は、引き出しに収めた。処分はしない。証拠として、保管する。妹を責めるためでもない。「守った」と言うためでもない。

――ただ、同じ言葉が、二度と彼女を縛らぬようにするためだ。



ディートリヒは理解していた。噂は、消せない。否定すれば、逆に力を持つ。だからやるべきは逆だ。噂が、現実と噛み合わなくなる状況を作る。

誰が語ったかではなく、何が残ったか。
感想ではなく、結果。評価ではなく、記録。


彼は、ゆっくりと立ち上がる。これは謝罪の前段階だ。告白の前ですらない。彼女に向かって何かを言うための準備ではない。

――彼女の世界に、これ以上、勝手に踏み込まないための準備だ。

願いは、まだ胸の奥にしまったままでいい。今はただ、彼女が選ぶときに、

「去るしかない」と思わずに済む場所を、整える。それが、夫としてではなく、一人の人間として、初めて果たすべき役割だった。



ディートリヒは、静かに決めた。
自分の願いより先に――彼女の立場を、確保する。それが叶ったとき、初めて、選ばれなかったとしても、悔いはないと言える場所に立てる。

今は、まだそこにすら届いていない。

だが――やるべきことだけは、もう迷わなかった。





しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

「君は完璧だから、放っておいても大丈夫」と笑った夫。~王宮から私が去ったあと「愛していた」と泣きついても、もう手遅れです~

水上
恋愛
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫だ」 夫である王太子はそう笑い、泣き真似が得意な見習い令嬢ばかりを優先した。 王太子妃セシリアは、怒り狂うこともなく、静かに心を閉ざす。 「左様でございますか」 彼女は夫への期待というノイズを遮断し、離縁の準備を始めた。

婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ
恋愛
伯爵令嬢セシリアは、王宮の舞踏会で王太子レイヴンから公開の場で婚約破棄を言い渡され、その場で倒れた。 目覚めた彼女は、礼儀も常識も覚えているのに――ただ一つ、レイヴンだけを思い出せない。 「あなたは、どなたですか?」 その一言に、彼の瞳は壊れた。 けれどレイヴンは何も語らず、セシリアを遠ざける。彼女を守るために、あの日婚約を捨てたのだと告げられないまま。 セシリアは過去を断ち切り、王宮の侍女として新しい生活を始める。 優しく手を差し伸べる護衛騎士アデルと心を通わせていくほど、レイヴンの胸は嫉妬と後悔で焼けていった。 ――守るために捨てたはずなのに。忘れられたまま、他の男に笑う彼女を見ていられない。 一方、王宮では“偽聖女”の陰謀と、セシリアの血に眠る秘密が動き出す。 記憶を取り戻せば、彼女は狙われる。取り戻さなければ、二人は永遠に届かない。 これは、忘れてしまった令嬢と、忘れられてなお愛を捨てられない王太子が、もう一度“選び直す”恋の物語。

あなたへの愛を捨てた日

柴田はつみ
恋愛
公爵夫人エステルは、冷徹な夫レオニスを心から愛していた。彼の好みを調べ、帰宅を待ちわび、献身的に尽くす毎日。 しかし、ある夜会の回廊で、エステルは残酷な真実を知る。 レオニスが、未亡人クラリスの手を取り囁いていたのだ。 「君のような(自立した)女性が、私の隣にいるべきだった」 エステルは悟る。自分の愛は彼にとって「重荷」であり、自分という人間は彼にとって「不足」だったのだと。その瞬間、彼女の中で何かが音を立てて砕け散る。

白い結婚で結構ですわ。愛人持ちの夫に興味はありません

鍛高譚
恋愛
公爵令嬢ルチアーナは、王太子アルベルトとの政略結婚を命じられた。だが彼にはすでに愛する女性がいた。そこでルチアーナは、夫婦の義務を果たさない“白い結婚”を提案し、お互いに干渉しない関係を築くことに成功する。 「夫婦としての役目を求めないでくださいませ。その代わり、わたくしも自由にさせていただきますわ」 そうして始まった王太子妃としての優雅な生活。社交界では完璧な妃を演じつつ、裏では趣味の読書やお茶会を存分に楽しみ、面倒ごととは距離を置くつもりだった。 ——だが、夫は次第にルチアーナを気にし始める。 「最近、おまえが気になるんだ」 「もっと夫婦としての時間を持たないか?」 今さらそんなことを言われても、もう遅いのですわ。 愛人を優先しておいて、後になって本妻に興味を持つなんて、そんな都合の良い話はお断り。 わたくしは、自由を守るために、今日も紅茶を嗜みながら優雅に過ごしますわ——。 政略結婚から始まる痛快ざまぁ! 夫の後悔なんて知りませんわ “白い結婚”を謳歌する令嬢の、自由気ままなラブ&ざまぁストーリー!

私の人生に、おかえりなさい。――都合のいい「お姉ちゃん」は、もうどこにもいません

しょくぱん
恋愛
「お姉ちゃんなんだから」 ――それは私を縛る呪いの言葉だった。 家族の醜い穢れを一身に吸い込み、妹の美しさの「身代わり」として生きてきた私。 痛みで感覚を失った手も、鏡に映らない存在も、全ては家族のためだと信じていた。 でも、、そんな私、私じゃない!! ―― 私は、もう逃げない。 失われた人生を取り戻した今、私は、私に告げるだろう。 「私の人生に、おかえりなさい。」

白い結婚の末、離婚を選んだ公爵夫人は二度と戻らない』

鍛高譚
恋愛
白い結婚の末、「白い結婚」の末、私は冷遇され、夫は愛人を溺愛していた――ならば、もう要らないわ」 公爵令嬢 ジェニファー・ランカスター は、王弟 エドワード・クラレンス公爵 のもとへ政略結婚として嫁ぐ。 だが、その結婚生活は冷たく空虚なものだった。夫は愛人 ローザ・フィッツジェラルド に夢中になり、公爵夫人であるジェニファーは侮辱され、無視され続ける日々。 ――それでも、貴族の娘は耐えなければならないの? 何の愛もなく、ただ飾り物として扱われる結婚に見切りをつけたジェニファーは 「離婚」 を決意する。 しかし、王弟であるエドワードとの離婚は容易ではない。実家のランカスター家は猛反対し、王宮の重臣たちも彼女の決断を 「公爵家の恥」 と揶揄する。 それでも、ジェニファーは負けない。弁護士と協力し、着々と準備を進めていく。 そんな折、彼女は北方の大国 ヴォルフ公国の大公、アレクサンダー・ヴォルフ と出会う。 温かく誠実な彼との交流を通じて、ジェニファーは 「本当に大切にされること」 を知る。 そして、彼女の決断は、王都の社交界に大きな波紋を呼ぶこととなる――。 「公爵夫人を手放したことを、いつか後悔しても遅いわ」 「私はもう、あなたたちの飾り人形じゃない」 離婚を巡る策略、愛人の凋落、元夫の後悔――。 そして、新たな地で手にした 「愛される結婚」。

【完結】そんなに好きなら、そっちへ行けば?

雨雲レーダー
恋愛
侯爵令嬢クラリスは、王太子ユリウスから一方的に婚約破棄を告げられる。 理由は、平民の美少女リナリアに心を奪われたから。 クラリスはただ微笑み、こう返す。 「そんなに好きなら、そっちへ行けば?」 そうして物語は終わる……はずだった。 けれど、ここからすべてが狂い始める。 *完結まで予約投稿済みです。 *1日3回更新(7時・12時・18時)

「君は大丈夫だろ?」と可哀想な元恋人を選択した夫。~今さら復縁を迫っても、愛は既に錆び付いています~

水上
恋愛
夫と白い結婚をして、傾いた領地を努力と苦労の末に立て直した伯爵令嬢ヴィクトリア。 夫との関係も良好……、のように見えていた。 だが夫は「君は強いから」と、めそめそ泣く元恋人を優先し、ヴィクトリアの献身を踏みにじった。 その瞬間、彼女の恋心は錆び付き始めた。 「私が去ったら、この領地は終わりですが?」 愛想を尽かした彼女は、完璧な微笑みの裏で淡々と離縁の準備を始める。 これは、有能な妻が去り、無能な夫が泥沼に沈むまでを描く、冷徹な断罪劇。

処理中です...