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第26話 届いてしまった手紙
しおりを挟むそれは、よくある一通の私信だった。
装飾のない封筒。丁寧な筆跡。差出人の名を見た瞬間、ディートリヒはわずかに眉をひそめた。
――マリアージュ・リーヴェルト。
エレノアの妹。
(……なぜ、今)
宛名は確かにエレノアだ。だが彼女は王城に出ている。机の上に置かれたままの手紙を前に、ディートリヒは一瞬だけ迷った。
――見るべきではない。
分かっている。それでも、手は伸びてしまった。
(家のことだ。急ぎかもしれない)
言い訳はいくらでもあった。
手紙を手にとる。その瞬間、紙の上に並ぶ文字が、あまりにも――明るかった。
お姉様
お元気かしら。
最近、お名前をよくお聞きするので、
懐かしくなってお手紙を書きました。
(……)
冒頭から、違和感があった。第三王女殿下の先生をなさっているとか。正直、少し驚きました。でも、お姉様は昔から押しつけたりしないところがありましたものね。
押しつけない。その言葉に、ディートリヒの指が、わずかに強張る。きっと王女殿下も安心なさっているのでしょう。お姉様は、そういう“役割”に向いている方ですから。
――役割。
胸の奥に、鈍い痛みが走る。ただ、少し心配なのです。お姉様は、いつも無理をなさるから。あまり前に出ると、周囲が戸惑ってしまうこともあるでしょう?
善意の言葉だ。疑いようもなく。だからこそ、逃げ場がない。
昔から、お姉様は自分から欲しがることをなさらなかった。それは美徳だと思います。本当に。
――美徳。
だから、必要とされなくなったら、きっと静かに身を引くのでしょうね。
その一文で、ディートリヒの呼吸が止まった。
私は、お姉様が心配なだけです。周りが期待しすぎて、お姉様がまた傷つくことのないように。お姉様は、そういう人ですから。どうか、ご自愛ください。
妹より
マリアージュ
――そういう人。
何度も、何度も使われてきた言葉。便利で、やさしくて、すべてを決めつける言葉。
ディートリヒは、手紙を机の上に置いたまま、しばらく動けなかった。怒りはない。憎しみもない。
ただ――圧倒的な理解不足が、そこにあった。
(……彼女は)
(エレノアは、こんなふうに見られてきたのか)
静かで。欲しがらず。前に出ず。必要なくなれば、引く。
――だから、扱いやすい。
その評価が、どこから来たものか。今なら、はっきり分かる。
ディートリヒは、ようやく気づいた。
エレノアが、なぜ「評価されること」を信じなくなったのか。なぜ、褒められても、期待されても、決して喜ばなかったのか。
それは――いつも「引く前提」で語られてきたからだ。選ばれる前に、去るものとして扱われてきた。
その瞬間、彼は理解した。自分が、どれほど残酷な場所に彼女を置いてきたのかを。
沈黙を、従順だと思った。距離を、無関心だと誤解した。
だが本当は――彼女は最初から、逃げ道を持たされていなかったのだ。
ディートリヒは、手紙を折り畳み、
静かに封筒へ戻した。
――これは、彼女に渡してはいけない。
少なくとも、今のままでは。
だが同時に、分かっていた。この手紙は、決定打だ。
妹の無邪気な言葉は、彼女の背中を
そっと、しかし確実に押す。
――去る方向へ。
(……間に合うのか)
初めて、ディートリヒは自分に問いかけた。これは戦ではない。交渉でもない。
信頼を、一から築けるかどうかの話だ。彼は、まだ何も取り戻していない。
だが――失いかけているものの正体だけは、ようやく、はっきりと見えた。
封筒は、引き出しに収めた。処分はしない。証拠として、保管する。妹を責めるためでもない。「守った」と言うためでもない。
――ただ、同じ言葉が、二度と彼女を縛らぬようにするためだ。
ディートリヒは理解していた。噂は、消せない。否定すれば、逆に力を持つ。だからやるべきは逆だ。噂が、現実と噛み合わなくなる状況を作る。
誰が語ったかではなく、何が残ったか。
感想ではなく、結果。評価ではなく、記録。
彼は、ゆっくりと立ち上がる。これは謝罪の前段階だ。告白の前ですらない。彼女に向かって何かを言うための準備ではない。
――彼女の世界に、これ以上、勝手に踏み込まないための準備だ。
願いは、まだ胸の奥にしまったままでいい。今はただ、彼女が選ぶときに、
「去るしかない」と思わずに済む場所を、整える。それが、夫としてではなく、一人の人間として、初めて果たすべき役割だった。
ディートリヒは、静かに決めた。
自分の願いより先に――彼女の立場を、確保する。それが叶ったとき、初めて、選ばれなかったとしても、悔いはないと言える場所に立てる。
今は、まだそこにすら届いていない。
だが――やるべきことだけは、もう迷わなかった。
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