【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ

文字の大きさ
30 / 40

第29話  戻れない前提で

しおりを挟む

書き始めたのは、夜だった。執務室には灯りが一つ。外は静まり返り、屋敷全体が眠りに落ちている。ディートリヒは、机に向かい、白紙の書類を前にしていた。

《伯爵不在時 行政対応指示書》

そう、表題だけを書いたところで、しばらく筆が止まる。



――不在時。

言葉にすれば簡単だ。これまでも何度もあった。軍務。視察。会議。だが、今夜この文書を書いている理由は、それらとは違う。

(……戻れないかもしれない)

その可能性を、初めて「仮定」ではなく、
前提として考えている自分に気づいた。
書き進める。王城からの急使。軍に関わる判断。商会との再交渉。一つ一つ、具体的に、簡潔に。余計な感情を挟まず、判断基準だけを記す。これは、自分のための文書ではない。

――彼女のためのものだ。


エレノアの顔が、脳裏に浮かぶ。静かな視線。淡々とした所作。評価も、期待も、求めない姿勢。彼女は、「自分が戻るかどうか」など、前提にしていない。戻らなければ、その分を回す。ただ、それだけだ。

(……それが)

(どれほど、異常なことか)

ようやく、理解し始めていた。


書類の末尾。

最終判断権限:伯爵夫人エレノア

そう書いて、一瞬、手が止まる。この一行は、単なる事務ではない。

――責任の所在を、完全に彼女へ渡すということだ。

だが同時に、それは“彼女の判断を疑わない”という宣言でもある。

(……俺は)

(戻れないかもしれない)

それは、戦死や失脚の話ではない。彼女が、この屋敷を去る可能性。そのとき、
自分が引き止められない立場になっている可能性。


胸の奥が、じわりと重くなる。怖い。だが、それ以上に――

(……当然だ)

そう思ってしまう自分がいた。


これまで、自分は何度、「戻らない」選択をしてきただろう。一言も告げず。理由も説明せず。当然のように。その積み重ねの先に、今がある。

ならば――

(今さら、“戻りたい”と言う資格はない)

その自覚は、痛みではなく、静かな確信だった。


署名を書く。

ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルト
その文字を見つめながら、彼は思う。

これは、彼女を縛るための文書ではない。
引き止めるためでもない。

――彼女が、「去るしかない」と思わずに済むためのものだ。



書き終えた指示書を、ゆっくりと綴じる。
引き出しに入れる前、ふと、手が止まる。

(……もし)

(これを使う日が来たら)

そのとき、自分は何者なのだろう。

夫か。元夫か。ただの、過去か。答えは、ない。だが一つだけ、確かなことがある。


これは、
彼女を失わないための行為ではない。失っても、彼女が困らないようにするための行為だ。その違いを、自分が選んだ。


灯りを落とす。執務室を出る前、ディートリヒは一度だけ、書棚に目をやった。そこに、彼女がその指示書を見つける日が来る。そのとき、何を思われるかは分からない。評価されるとも思っていない。

ただ――

(……戻れない可能性を)

(受け入れたのは、俺の方だ)

それだけは、はっきりしていた。ディートリヒは、何も持たずに部屋を出た。この夜、彼は初めて、「選ばれない未来」を覚悟として引き受けた。

それは、敗北ではなかった。

――彼女を、一人の人間として尊重する、最初の選択だった。





しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

「君は完璧だから、放っておいても大丈夫」と笑った夫。~王宮から私が去ったあと「愛していた」と泣きついても、もう手遅れです~

水上
恋愛
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫だ」 夫である王太子はそう笑い、泣き真似が得意な見習い令嬢ばかりを優先した。 王太子妃セシリアは、怒り狂うこともなく、静かに心を閉ざす。 「左様でございますか」 彼女は夫への期待というノイズを遮断し、離縁の準備を始めた。

婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ
恋愛
伯爵令嬢セシリアは、王宮の舞踏会で王太子レイヴンから公開の場で婚約破棄を言い渡され、その場で倒れた。 目覚めた彼女は、礼儀も常識も覚えているのに――ただ一つ、レイヴンだけを思い出せない。 「あなたは、どなたですか?」 その一言に、彼の瞳は壊れた。 けれどレイヴンは何も語らず、セシリアを遠ざける。彼女を守るために、あの日婚約を捨てたのだと告げられないまま。 セシリアは過去を断ち切り、王宮の侍女として新しい生活を始める。 優しく手を差し伸べる護衛騎士アデルと心を通わせていくほど、レイヴンの胸は嫉妬と後悔で焼けていった。 ――守るために捨てたはずなのに。忘れられたまま、他の男に笑う彼女を見ていられない。 一方、王宮では“偽聖女”の陰謀と、セシリアの血に眠る秘密が動き出す。 記憶を取り戻せば、彼女は狙われる。取り戻さなければ、二人は永遠に届かない。 これは、忘れてしまった令嬢と、忘れられてなお愛を捨てられない王太子が、もう一度“選び直す”恋の物語。

あなたへの愛を捨てた日

柴田はつみ
恋愛
公爵夫人エステルは、冷徹な夫レオニスを心から愛していた。彼の好みを調べ、帰宅を待ちわび、献身的に尽くす毎日。 しかし、ある夜会の回廊で、エステルは残酷な真実を知る。 レオニスが、未亡人クラリスの手を取り囁いていたのだ。 「君のような(自立した)女性が、私の隣にいるべきだった」 エステルは悟る。自分の愛は彼にとって「重荷」であり、自分という人間は彼にとって「不足」だったのだと。その瞬間、彼女の中で何かが音を立てて砕け散る。

白い結婚で結構ですわ。愛人持ちの夫に興味はありません

鍛高譚
恋愛
公爵令嬢ルチアーナは、王太子アルベルトとの政略結婚を命じられた。だが彼にはすでに愛する女性がいた。そこでルチアーナは、夫婦の義務を果たさない“白い結婚”を提案し、お互いに干渉しない関係を築くことに成功する。 「夫婦としての役目を求めないでくださいませ。その代わり、わたくしも自由にさせていただきますわ」 そうして始まった王太子妃としての優雅な生活。社交界では完璧な妃を演じつつ、裏では趣味の読書やお茶会を存分に楽しみ、面倒ごととは距離を置くつもりだった。 ——だが、夫は次第にルチアーナを気にし始める。 「最近、おまえが気になるんだ」 「もっと夫婦としての時間を持たないか?」 今さらそんなことを言われても、もう遅いのですわ。 愛人を優先しておいて、後になって本妻に興味を持つなんて、そんな都合の良い話はお断り。 わたくしは、自由を守るために、今日も紅茶を嗜みながら優雅に過ごしますわ——。 政略結婚から始まる痛快ざまぁ! 夫の後悔なんて知りませんわ “白い結婚”を謳歌する令嬢の、自由気ままなラブ&ざまぁストーリー!

私の人生に、おかえりなさい。――都合のいい「お姉ちゃん」は、もうどこにもいません

しょくぱん
恋愛
「お姉ちゃんなんだから」 ――それは私を縛る呪いの言葉だった。 家族の醜い穢れを一身に吸い込み、妹の美しさの「身代わり」として生きてきた私。 痛みで感覚を失った手も、鏡に映らない存在も、全ては家族のためだと信じていた。 でも、、そんな私、私じゃない!! ―― 私は、もう逃げない。 失われた人生を取り戻した今、私は、私に告げるだろう。 「私の人生に、おかえりなさい。」

白い結婚の末、離婚を選んだ公爵夫人は二度と戻らない』

鍛高譚
恋愛
白い結婚の末、「白い結婚」の末、私は冷遇され、夫は愛人を溺愛していた――ならば、もう要らないわ」 公爵令嬢 ジェニファー・ランカスター は、王弟 エドワード・クラレンス公爵 のもとへ政略結婚として嫁ぐ。 だが、その結婚生活は冷たく空虚なものだった。夫は愛人 ローザ・フィッツジェラルド に夢中になり、公爵夫人であるジェニファーは侮辱され、無視され続ける日々。 ――それでも、貴族の娘は耐えなければならないの? 何の愛もなく、ただ飾り物として扱われる結婚に見切りをつけたジェニファーは 「離婚」 を決意する。 しかし、王弟であるエドワードとの離婚は容易ではない。実家のランカスター家は猛反対し、王宮の重臣たちも彼女の決断を 「公爵家の恥」 と揶揄する。 それでも、ジェニファーは負けない。弁護士と協力し、着々と準備を進めていく。 そんな折、彼女は北方の大国 ヴォルフ公国の大公、アレクサンダー・ヴォルフ と出会う。 温かく誠実な彼との交流を通じて、ジェニファーは 「本当に大切にされること」 を知る。 そして、彼女の決断は、王都の社交界に大きな波紋を呼ぶこととなる――。 「公爵夫人を手放したことを、いつか後悔しても遅いわ」 「私はもう、あなたたちの飾り人形じゃない」 離婚を巡る策略、愛人の凋落、元夫の後悔――。 そして、新たな地で手にした 「愛される結婚」。

【完結】そんなに好きなら、そっちへ行けば?

雨雲レーダー
恋愛
侯爵令嬢クラリスは、王太子ユリウスから一方的に婚約破棄を告げられる。 理由は、平民の美少女リナリアに心を奪われたから。 クラリスはただ微笑み、こう返す。 「そんなに好きなら、そっちへ行けば?」 そうして物語は終わる……はずだった。 けれど、ここからすべてが狂い始める。 *完結まで予約投稿済みです。 *1日3回更新(7時・12時・18時)

「君は大丈夫だろ?」と可哀想な元恋人を選択した夫。~今さら復縁を迫っても、愛は既に錆び付いています~

水上
恋愛
夫と白い結婚をして、傾いた領地を努力と苦労の末に立て直した伯爵令嬢ヴィクトリア。 夫との関係も良好……、のように見えていた。 だが夫は「君は強いから」と、めそめそ泣く元恋人を優先し、ヴィクトリアの献身を踏みにじった。 その瞬間、彼女の恋心は錆び付き始めた。 「私が去ったら、この領地は終わりですが?」 愛想を尽かした彼女は、完璧な微笑みの裏で淡々と離縁の準備を始める。 これは、有能な妻が去り、無能な夫が泥沼に沈むまでを描く、冷徹な断罪劇。

処理中です...