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第29話 戻れない前提で
しおりを挟む書き始めたのは、夜だった。執務室には灯りが一つ。外は静まり返り、屋敷全体が眠りに落ちている。ディートリヒは、机に向かい、白紙の書類を前にしていた。
《伯爵不在時 行政対応指示書》
そう、表題だけを書いたところで、しばらく筆が止まる。
――不在時。
言葉にすれば簡単だ。これまでも何度もあった。軍務。視察。会議。だが、今夜この文書を書いている理由は、それらとは違う。
(……戻れないかもしれない)
その可能性を、初めて「仮定」ではなく、
前提として考えている自分に気づいた。
書き進める。王城からの急使。軍に関わる判断。商会との再交渉。一つ一つ、具体的に、簡潔に。余計な感情を挟まず、判断基準だけを記す。これは、自分のための文書ではない。
――彼女のためのものだ。
エレノアの顔が、脳裏に浮かぶ。静かな視線。淡々とした所作。評価も、期待も、求めない姿勢。彼女は、「自分が戻るかどうか」など、前提にしていない。戻らなければ、その分を回す。ただ、それだけだ。
(……それが)
(どれほど、異常なことか)
ようやく、理解し始めていた。
書類の末尾。
最終判断権限:伯爵夫人エレノア
そう書いて、一瞬、手が止まる。この一行は、単なる事務ではない。
――責任の所在を、完全に彼女へ渡すということだ。
だが同時に、それは“彼女の判断を疑わない”という宣言でもある。
(……俺は)
(戻れないかもしれない)
それは、戦死や失脚の話ではない。彼女が、この屋敷を去る可能性。そのとき、
自分が引き止められない立場になっている可能性。
胸の奥が、じわりと重くなる。怖い。だが、それ以上に――
(……当然だ)
そう思ってしまう自分がいた。
これまで、自分は何度、「戻らない」選択をしてきただろう。一言も告げず。理由も説明せず。当然のように。その積み重ねの先に、今がある。
ならば――
(今さら、“戻りたい”と言う資格はない)
その自覚は、痛みではなく、静かな確信だった。
署名を書く。
ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルト
その文字を見つめながら、彼は思う。
これは、彼女を縛るための文書ではない。
引き止めるためでもない。
――彼女が、「去るしかない」と思わずに済むためのものだ。
書き終えた指示書を、ゆっくりと綴じる。
引き出しに入れる前、ふと、手が止まる。
(……もし)
(これを使う日が来たら)
そのとき、自分は何者なのだろう。
夫か。元夫か。ただの、過去か。答えは、ない。だが一つだけ、確かなことがある。
これは、
彼女を失わないための行為ではない。失っても、彼女が困らないようにするための行為だ。その違いを、自分が選んだ。
灯りを落とす。執務室を出る前、ディートリヒは一度だけ、書棚に目をやった。そこに、彼女がその指示書を見つける日が来る。そのとき、何を思われるかは分からない。評価されるとも思っていない。
ただ――
(……戻れない可能性を)
(受け入れたのは、俺の方だ)
それだけは、はっきりしていた。ディートリヒは、何も持たずに部屋を出た。この夜、彼は初めて、「選ばれない未来」を覚悟として引き受けた。
それは、敗北ではなかった。
――彼女を、一人の人間として尊重する、最初の選択だった。
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