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第26話 エリシアの余韻
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エリシアside
――名前が、まだ胸に残っている
朝の執務室は、いつもと同じだった。
机の配置。差し込む光の角度。ロザリーが淹れた茶の香り。何一つ、変わっていない。それなのに。
エリシアは、書類に視線を落としたまま、ペンを持つ手を止めた。
(……シア)
昨夜、呼ばれた名前が、思考の端に浮かぶ。ただの略称だ。愛称と呼ぶほどのものでもない。
それなのに――呼ばれた瞬間、自分が「役割」ではなかったことを、はっきり思い出してしまった。
公爵令嬢でもない。商会の長でもない。調整役でもない。ただ、一人の人間として。
(……困りますね)
判断は、鈍っていない。精度も、速度も落ちていない。むしろ、思考は澄んでいる。それが、余計に困る。感情が業務の邪魔をしていないからこそ、「切り捨てる理由」が見つからない。
エリシアは、書類に署名を入れる。
いつも通りの文字。
いつも通りの判断。
だが、胸の奥にだけ、小さな違和感が残る。今まで、振り返ることなどなかった。
名前で呼ばれることも、まして愛称など――生まれて初めてだ。
胸の奥が、むずむずとする。理由のつかない、落ち着かない感覚。
(……戻れる場所、ですか)
昨夜、アレクシスが口にしなかった言葉を、今になって、自分の中で反芻している。戻りたい、とは思っていない。縋りたいわけでもない。
ただ。
「……戻っても、いい場所」
そう思える場所が、この世界に一つ増えてしまった。それが、判断を狂わせないことが――一番、厄介だった。
♦︎
ロザリー視点
――大人は、見抜いてから黙る
ロザリーは、茶を差し替えながら、さりげなく主を観察していた。
姿勢はいつも通り。表情も、感情の揺れは見せていない。
だが――ペンを置く間が、ほんの少しだけ柔らかい。
(……あら)
これは、疲労ではない。迷いでもない。
余韻だ。ロザリーは、何も言わずに茶器を下げ、一歩引いた位置で口を開く。
「本日の予定ですが」
事務的な声。いつもの距離。エリシアが頷いた、そのあと。ほんの一拍だけ、間を置いてから、付け足す。
「……呼ばれ慣れない名前は、後に残りますね」
エリシアの手が、一瞬止まった。ロザリーは、視線を合わせない。確認もしない。笑いもしない。ただ、事実だけを置く。
「業務に支障が出ていないのなら、問題ありません」
一拍。
「ですが」
ほんの少しだけ、声を落とす。
「消そうとして消えるものではない、ということも」
それ以上は言わない。ロザリーは、書類を整え、静かに一礼する。
「では、通常業務に戻ります」
扉が閉まる音が、静かに響く。
一人残された執務室で、エリシアは、ゆっくり息を吐いた。
(……ずるいのは)
名前を呼んだことではない。
それを、「何も変えなかった」ことだ。
それでも――確かに残っている。
消えない余韻が。それを自覚してしまった時点で、彼女はもう、昨夜を「偶然」に戻せなくなっていた。
ロザリーが、なぜ“名を呼ばれたこと”を知っているのか――今のエリシアには、そこまで考える余裕はなかった。
――名前が、まだ胸に残っている
朝の執務室は、いつもと同じだった。
机の配置。差し込む光の角度。ロザリーが淹れた茶の香り。何一つ、変わっていない。それなのに。
エリシアは、書類に視線を落としたまま、ペンを持つ手を止めた。
(……シア)
昨夜、呼ばれた名前が、思考の端に浮かぶ。ただの略称だ。愛称と呼ぶほどのものでもない。
それなのに――呼ばれた瞬間、自分が「役割」ではなかったことを、はっきり思い出してしまった。
公爵令嬢でもない。商会の長でもない。調整役でもない。ただ、一人の人間として。
(……困りますね)
判断は、鈍っていない。精度も、速度も落ちていない。むしろ、思考は澄んでいる。それが、余計に困る。感情が業務の邪魔をしていないからこそ、「切り捨てる理由」が見つからない。
エリシアは、書類に署名を入れる。
いつも通りの文字。
いつも通りの判断。
だが、胸の奥にだけ、小さな違和感が残る。今まで、振り返ることなどなかった。
名前で呼ばれることも、まして愛称など――生まれて初めてだ。
胸の奥が、むずむずとする。理由のつかない、落ち着かない感覚。
(……戻れる場所、ですか)
昨夜、アレクシスが口にしなかった言葉を、今になって、自分の中で反芻している。戻りたい、とは思っていない。縋りたいわけでもない。
ただ。
「……戻っても、いい場所」
そう思える場所が、この世界に一つ増えてしまった。それが、判断を狂わせないことが――一番、厄介だった。
♦︎
ロザリー視点
――大人は、見抜いてから黙る
ロザリーは、茶を差し替えながら、さりげなく主を観察していた。
姿勢はいつも通り。表情も、感情の揺れは見せていない。
だが――ペンを置く間が、ほんの少しだけ柔らかい。
(……あら)
これは、疲労ではない。迷いでもない。
余韻だ。ロザリーは、何も言わずに茶器を下げ、一歩引いた位置で口を開く。
「本日の予定ですが」
事務的な声。いつもの距離。エリシアが頷いた、そのあと。ほんの一拍だけ、間を置いてから、付け足す。
「……呼ばれ慣れない名前は、後に残りますね」
エリシアの手が、一瞬止まった。ロザリーは、視線を合わせない。確認もしない。笑いもしない。ただ、事実だけを置く。
「業務に支障が出ていないのなら、問題ありません」
一拍。
「ですが」
ほんの少しだけ、声を落とす。
「消そうとして消えるものではない、ということも」
それ以上は言わない。ロザリーは、書類を整え、静かに一礼する。
「では、通常業務に戻ります」
扉が閉まる音が、静かに響く。
一人残された執務室で、エリシアは、ゆっくり息を吐いた。
(……ずるいのは)
名前を呼んだことではない。
それを、「何も変えなかった」ことだ。
それでも――確かに残っている。
消えない余韻が。それを自覚してしまった時点で、彼女はもう、昨夜を「偶然」に戻せなくなっていた。
ロザリーが、なぜ“名を呼ばれたこと”を知っているのか――今のエリシアには、そこまで考える余裕はなかった。
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