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第31話 風向きが変わった日
しおりを挟む――エリシア視点
最初に気づいたのは、視線だった。
帝国評議会の控え室。次の案件を待つ、ほんの短い時間。誰も、露骨には見ない。
だが――避けもしない。
(……変わった)
空気の質が、昨日までと違う。
敵意ではない。
警戒でもない。
もっと厄介なものだ。
「位置を測られている」
エリシアは、無意識に背筋を伸ばした。声をかけられる内容も、変わった。
「第三国での再編、順調だそうですね」
「サミュエル・ロート殿との連携も、見事だ」
その名が出た瞬間、胸の奥で、何かが引っかかる。
(……なぜ、そこで彼の名前が出る?)
連携はしている。だが、主従でも、対でもない。それを――帝国は「一つの塊」として見始めている。ロザリーが、さりげなく囁いた。
「殿下の側近筋が、動いています」
「……私の件で?」
「ええ。正確には、“切れない形”に変わっています」
エリシアは、息を止めた。
(切れない……?)
帝国は、切るときは早い。正しい理由と、正しい順序で。
それを、“切れない構図”にするということは――
「……誰が」
問いかける声が、わずかに低くなる。ロザリーは、一拍だけ置いた。
「殿下です」
即答だった。エリシアの思考が、静かに止まる。
あの人が?
なぜ?
(私は、距離を取ったはずだ)
誤解を避けた。利用されないように。彼を、巻き込まないために。
「殿下は」
ロザリーが、言葉を選ぶ。
「“誤解を修正した”だけです」
「名前の置き方を、戻した」
それは、政治的には些細な調整だ。
だが――王子権限を使って行う修正は、
些細ではない。
「……それは」
エリシアは、ゆっくり言葉を探す。
「彼にとって、安全な判断だったんですか」
ロザリーは、首を横に振った。
「いいえ」
静かな否定。
「一番、安全ではない選択です」
胸の奥が、ひやりと冷える。
(……どうして)
守ってほしいと、言った覚えはない。
期待した覚えもない。
むしろ――距離を取った。それでも彼は、帝国の中で、自分の立場を使って立った。
エリシアは、ようやく理解する。これは、好意ではない。甘さでもない。
(……覚悟だ)
選ばれなくても引かない覚悟。
報われなくても、切らせない覚悟。
そして――その覚悟は、彼女に選択を迫るものではない。
ただ、「消されない場所」を作っただけだ。
それが、どれほど重いか。エリシアは、自分の指先が、わずかに震えていることに気づいた。
(知らなければ、楽だった)
知らなければ、仕事として、割り切れた。
だが――知ってしまった。
帝国の空気が変わった理由を。
自分の名が、消えなかった理由を。
そして。
(……私は)
距離を取ったつもりで、一番大事なところで、彼の覚悟を受け取ってしまった。ロザリーが、静かに言う。
「殿下は、何も求めていません」
「説明も、謝罪も、感謝も」
エリシアは、目を伏せる。
(それが、一番ずるい)
選ばせない。
縛らない。
だが、逃げ場も与えない。
「……参りましたね」
それは、敗北宣言ではない。認識だった。
帝国の空気が変わった。それは――
彼が、彼女を切らせなかったからだ。エリシアは、ゆっくりと息を吸い、
背筋を正した。判断は、まだ下さない。
だが、一つだけ、はっきりしたことがある。
(もう、この人を知らなかった頃には戻れない)
それは、恋の自覚ではない。
だが――恋よりも、ずっと重い理解だった。
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