【完結】私を捨てた皆様、どうぞその選択を後悔なさってください 〜婚約破棄された令嬢の、遅すぎる謝罪はお断りです〜

くろねこ

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第60話  ――名を受け取るという選択

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その部屋は、初めて訪れたときと同じだった。

飾り気のない応接室。判断のための地図も、契約書も置かれていない。あるのは、二脚の椅子と、小さな卓だけ。

エリシアは、そこで立ち止まった。

ここに来るまでに、誰かに背中を押されたわけではない。説得されたわけでもない。
ただ、一つずつ、自分で理解してきただけだ。

――私は、一人ではない。
――そして、守られるだけの場所には、戻らない。

扉の向こうで、静かな気配が動く。

「どうぞ」

エリーゼ・フォン・レグナール=ヴァルツェンの声。柔らかいが、曖昧ではない。エリシアは一歩踏み出し、深く礼をした。

「……お時間を、いただきありがとうございます」

「座りなさい」

命令ではない。だが、拒む余地もない。二人は向かい合って座った。距離は、以前と同じ。だが、空気が違う。逃げ場がないのではない。言葉を濁す理由が、もうないのだ。しばらく、どちらも口を開かなかった。先に沈黙を破ったのは、エリシアだった。

「私は」

声は、落ち着いている。

「以前、あなたに言いました」
「“私は姪でいい”と」

エリーゼの視線が、微かに揺れる。否定も、遮りもしない。

「それは、今も変わりません」

一拍。

「血縁ではない」
「名に守られたくない」
「誰かの後ろに立つ気はない」

それらは、すべて本音だった。エリーゼは、ゆっくり頷く。

「……ええ」

「でも」

エリシアは、はっきりと続けた。

「それは、“拒む理由”ではなくなりました」

エリーゼの指先が、わずかに動く。

「私は、もう知っています」

・一人で立つことの限界
・判断を引き受ける重さ
・切られずに立ち続けるには、構造が必要だということ

「そして」

エリシアは、まっすぐに言った。

「あなたが、私を前に出すためではなく」
「戻れる場所として、名を用意していたことも」

その言葉に、エリーゼは目を伏せた。否定しない。それ自体が、答えだった。

「私は」

エリシアは、息を吸い、吐く。

「守られたいわけではありません」
「救われたいわけでもありません」

声が、ほんのわずか低くなる。

「ただ――」
「選び続ける覚悟を、折られない場所が欲しい」

それは、乞う言葉ではない。条件の提示だった。

「だから」

エリシアは、頭を下げた。深く、だが、屈しない角度で。

「私は」
「あなたの“娘になる”という選択を、受け取ります」

静寂。部屋の空気が、完全に止まる。
エリーゼは、すぐには答えなかった。立ち上がり、ゆっくりと窓辺へ向かう。港の灯りが、揺れている。

「……それは」

背を向けたまま、言う。

「一度受け取れば、簡単には返せない名よ」

「分かっています」

即答だった。

「だから、今ここにいます」

振り返る。

エリーゼの目に、迷いはなかった。

だが――安堵もない。

「娘になる、というのは」

低く、確かな声。

「守られることではない」
「切られない、という保証でもない」

「ええ」

「私が前に出るとき、あなたも巻き込まれる」
「過去も、名前も、すべて掘り返される」

「それでも、構いません」

エリーゼは、エリシアをじっと見つめた。

その目は、試すものではない。

確認している。

この子が、
“選ばれる覚悟”ではなく、
“選び返す覚悟”を持っているかを。

やがて、エリーゼは静かに言った。

「……ならば」

一歩、近づく。

「私は、名を出す」

その言葉は、重い。

「あなたが逃げられないようにするためではない」
「あなたが立ち続けられるようにするために」

そして、はっきりと告げる。

「エリシア」
「私は、あなたを娘として迎える」

血ではない。
だが、選び取った関係だ。

エリシアは、ゆっくり顔を上げた。

その目に、揺れはない。

「……はい」

それだけ。

涙もない。
抱擁もない。

だが――
確かに、名が結ばれた瞬間だった。

エリーゼは、初めて、柔らかく言った。

「ようこそ」

それは、庇護の言葉ではない。
共に立つ者へ向けた、受け入れだった。

その夜。エリシアは一人、港を見下ろした。

もう、戻れない。だが、それでいい。

名を受け取ったのは、
逃げるためではなく――

立ち続けるためなのだから。
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