【完結】私を捨てた皆様、どうぞその選択を後悔なさってください 〜婚約破棄された令嬢の、遅すぎる謝罪はお断りです〜

くろねこ

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外伝

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外伝

――夜が、境界を越える前

灯りは、最初から落とされていた。

窓の外に浮かぶ港の灯だけが、
部屋の輪郭を柔らかく縁取っている。

二人は、向かい合ってはいなかった。

椅子でも、卓でもなく、
寝台の端に並んで腰を下ろしている。

距離は近い。
だが、触れてはいない。

沈黙は、以前よりも深かった。

言葉を選ばなくなった分、
空気の温度だけが、静かに上がっている。

「……眠らないのか」

アレクシスが、低く言った。

命令でも、気遣いでもない。
ただの事実確認。

「ええ」

エリシアは、視線を落としたまま答える。

「今は、目を閉じるのが惜しい」

その言葉に、
彼の肩が、ほんのわずかに緩む。

「……そういうことを、平気で言う」

責める調子ではなかった。
むしろ、困ったような声音だ。

エリシアは、初めて彼のほうを見る。

「平気ではありません」

そう言ってから、
少しだけ間を置く。

「でも――言わないでいる方が、怖い」

その瞬間、
彼女の肩に、温度が触れた。

アレクシスの指先だった。

確かめるようで、
それ以上、進まない。

「……ここから先は」

彼が、静かに言う。

「戻らない」

エリシアは、すぐに頷かなかった。

代わりに、
彼の手首に、そっと自分の指を重ねる。

逃げない。
だが、縛らない。

「分かっています」

声は、揺れていない。

「だから、ここにいます」

それで、十分だった。

アレクシスは、息を一つ吐き、
ゆっくりと彼女を引き寄せる。

抱きしめる、というほど強くない。
だが、離れない距離。

彼女の額が、彼の胸に触れる。

鼓動が、近い。

速くも、乱れてもいない。

ただ――確かに、生きている音。

エリシアは、目を閉じた。

(……ああ)

この距離を、
ずっと拒んできたのだと、今さら気づく。

弱くなるのが怖かった。
失うのが怖かった。

けれど――

彼の腕の中で、
自分は何も失っていない。

代わりに、
「一人で立たなくていい時間」を得ている。

アレクシスの顎が、
彼女の髪に触れる。

口づけるほど近く、
だが、触れない。

「……君は」

低い声が、胸に落ちる。

「こういう距離でいるくせに、
 踏み込ませない」

エリシアは、小さく息を吐いた。

「踏み込まれたら、
 戻れなくなりますから」

「もう、戻らないと決めたはずだ」

「はい」

即答だった。

それでも、
彼女は顔を上げない。

その慎重さが、
彼をさらに静かにさせた。

アレクシスは、
彼女の背に手を回し、
ただ、支える。

奪わない。
急がない。

(……これでいい)

彼の内心が、
一瞬だけ、形を持つ。

(彼女が自分で踏み出すまで、
 俺は、ここにいる)

夜は、深まる。

二人は、横にならない。
何も誓わない。
名前も呼ばない。

ただ、
同じ呼吸の中で、
眠りに落ちる寸前まで、起きている。

それが――
境界を越える前の、最も親密な夜だった。



外伝

――朝、絡んだ腕の重さ

目を開けたとき、
エリシアは一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。

窓から差し込む光が、柔らかすぎたからだ。
港の朝は、こんな色をしていたか――と、考えかけて。

気づく。

腕が、動かない。

正確には、
動かせるが、動かしたくない重さがある。

背中に回された腕。
眠ったままの、アレクシスの腕だった。

指先は、彼女の肋骨のあたりに触れている。
強くも、抱き寄せてもいない。
ただ、そこに「ある」だけ。

(……あ)

昨夜の記憶が、静かに繋がる。

エリシアは、息を殺した。
起こしたくなかった。

そのまま、天井を見る。

規則的な呼吸。
胸に伝わる、微かな上下。

(……離れていない)

それだけで、胸の奥が温かくなる。

彼女が動かなかったせいか、
腕が、ほんの少しだけ締まった。

無意識だ。

確かめるようでも、
引き留めるようでもない。

ただ、
朝になっても同じ場所にいることを、体が知っている動き。

エリシアは、そっと指を伸ばし、
彼の手首に触れた。

握らない。
解こうともしない。

触れていると、伝えるだけ。

その瞬間、
背後で、小さく息が変わる。

「……起きているのか」

低い声。
まだ、眠りの底。

「いいえ」

エリシアは、正直に答えた。

「起きたところです」

一拍。

「……そうか」

それきり、言葉はない。

腕は、解かれない。

むしろ、
彼女が逃げないことを確認したように、
わずかに位置が整えられる。

その距離で、
二人は、もう一度、目を閉じた。

朝は、急がない。

何かを決める前に、
ただ――同じ重さを、確かめる時間があってもいい。

エリシアは、思う。

(……これなら)

今日も、立てる。

一人ではないまま、
誰の後ろにも行かずに。

腕の重さは、
そのための、静かな証明だった。



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