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第1章 能なしの巫女と堕ちかけの蛇神
6.蛇神ミズハ
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夜、真っ暗な百代の寝室に、ほんの少しだけ空いた襖から、一匹の蛇が滑り込んできた。白地に黒い斑模様のその蛇は、布団の中で寝息を立てる百代の枕元までやってきて、音も立てずに人型を取る。
暗闇に溶けるように布団の脇に座るミズハは、紅の瞳で眠る百代を見下ろした。
昨日の夜から、まるで嵐が来たようだった。
山がうるさいからと様子を見に行けば、彼女が山賊に襲われていた。成り行きで助ければ、彼女が自分に会いたかったと訳の分からないことを言い残して気を失うので、あまりに気になって連れて帰ってしまった。すると今度は巫女になりたいと言い始める。邪神と呼ばれる神の元へ自ら巫女を志願しにくる女なんて、意味がわからなさすぎて冗談でも言われているのかと思った。
そもそも巫女が自分の元に来るのは、二百と十数年ぶりなのだ。
ミズハは都の大河の上流であるこの草田瀬に社を置き、古くから信仰を集める蛇神だった。川を清め、嵐を鎮め、田畑に実りを助けながら、大勢の巫女や信仰をくれる人々と共に、穏やかな日々を送っていた。
けれど二百年前のある日、巫女が一人、二人と辞め始めた。みな病気だったり、家族の事情だったりと理由は異なっていたが、同時期に複数の巫女が辞めたことはそれが初めてだった。けれど人間個人に執着することはなかった当時のミズハは、特に引き留めもせず放置してしまう。気付けば美輪という苗字の巫女がやめたのを最後に、社から巫女が一人もいなくなってしまっていた。
巫女は神への信仰を集める手伝いをするとともに、自らも仕える神に信仰を捧げる存在でもある。故に全ての巫女を失ったミズハは急激に力を失った。その折りに草田瀬や都一帯に大嵐がやってくる。それまでであれば難なく鎮められていたが、力を失っていた状態では全く歯が立たなかった。
その結果、都や草田瀬で大きな被害が出て、その責任を全て押しつけられた。加えて嵐を起こしたのがミズハであるとの噂まで広まり、多くの人間に非難されてしまったのだ。
自分は何もしていない。そう訴えても、まるで人は聞き入れてくれず、結果穢れをため込んだミズハは、邪神と呼ばれて封印されてしまう。
そうしてミズハは全てを諦めた。人に期待することも、希望を抱くことも、潔白を証明することも、全て。
二百年経った今、何故か封印が解けてしまったが、その思いは変わっていない。もはや人間のために何かしてやろうという気さえ失っていたミズハは、このまま穢れに蝕まれ、消えてしまうことを望んでいた。なのに。
「君が、来ちゃうからさぁ」
するり、と。眠る百代の頬にそっと触れた。
とても温かくて、涙が出そうになる。昔失ったはずの、人間の温もり。本当はそれをずっと求めていたなんて、認めたくなかった。
「出て行かせようとしたのに、なんで残るんだよ」
事情があると言っていた。詳しいことは分からないけれど、巫女になろうとしたのも何か目的があってのことだろう。それでも。
拒否しても、嫌がられそうなことを言っても。彼女はここに残っていた。
社を掃除し、食事もミズハの分まで用意して、体に纏わり付いた穢れを祓ってみせた。彼女の思いは――捧げられた信仰は、本物だった。
だから巫女になる許可を与えた。三ヶ月という期限を定めて。
期限を定めたのは、意地悪ではない。この体が、もってあと三ヶ月だからだ。それまでに現状が変わらなければ、自分は穢れに飲まれて消えてしまうだろう。
けれど、彼女ならもしかしたら。
そんな思いが生まれていることに気づき、ミズハは自嘲する。
これ以上、人間に期待したくなかったのに。神になんて、戻りたくなかったのに。百代の存在が、捨てたはずの感情を思い出させる。
「ここにいるなら、せめて無理はさせないようにしないと」
彼女はできることが多い分、無茶な動きが多い。清めの儀式で立てなくなるまで霊力を使ったことも、その後自分で食材集めをしようとしたことも。普通なら途中で止めたり誰かに頼ったりするところを、すべて自分でこなそうとする。
それにミズハは昨日百代の服を着替えさせたとき、彼女の体が痣だらけだったのを目にしていた。家を出てきたと言っていたし、巫女の立場を望むのに髪が短いところを見るあたり、家族から酷い扱いを受けていたのかもしれない。もしそうなら、少しは気遣ってやらねば。
「ウズ、カガチ、出てこられる?」
ミズハが静かに名を呼ぶと、両脇に子供が二人現れた。紫の瞳の子供がウズ、金の瞳の子供がカガチ。彼らはミズハが神の力を使って作った眷属で、封印されていた間はずっと眠りについていた。今日百代が穢れを少し祓ってくれたお陰で、再び呼び出せるようになったのだ。
「主さま、お久しぶりですね!」
「ぼくたちに、なにかお仕事?」
「静かにしていて。この子が寝てるから」
飛び跳ねんばかりの二人に、ミズハは口元に人差し指を当てる。
カガチは眉をひそめて、百代の顔をのぞき込んだ。
「人間の女じゃないですか。なんで主さまの社にいるんです?」
「今日から僕の巫女になったんだよ。君たちにはこの子の身の回りの世話と、無茶しないよう見張りをしていてほしい」
これから巫女として動くつもりなら、草田瀬の村に行くこともあるだろう。本当は自分が見ていられればいいのだろうが、自分の外見では村人に恐れられてしまう。けれど子供の見た目をした二人なら、警戒されることはないだろう。
「無茶? どんな?」
ミズハの頼みに、ウズがこてんと首をかしげた。
「倒れそうになるまで頑張ったり、とかかな。そういう時はすぐに止めて」
「わかった。頑張る」
「人間の世話は嫌ですけど……主さまの頼みなら」
「うん、お願いね」
大人しく頷くウズと、若干不服そうなカガチの頭を撫でてから、ミズハは百代の寝顔に視線を戻す。すぐ傍で騒いでいても、彼女は全く起きる気配がなかった。やはり一連の出来事で、相当疲れていたのだろう。
おもむろに百代の頭に手を伸ばす。そのとき「んん……」と百代が寝返りをうった。ミズハは反射的に腕を引っ込めて、自分の手を凝視する。
「……なにしてるんだ、僕」
小さくため息をついた後、ミズハは立ち上がり百代の寝室を後にした。
外に出ると、ゆるやかな夜風が吹いていた。境内にはちろちろと、虫の声が響いている。天を仰ぐと、木々の間から瞬く星が覗いていた。
昨日まで、闇の中のあの輝きが煩わしかった。けれども今は、ほんの少しだけ美しいと思える気がした。
暗闇に溶けるように布団の脇に座るミズハは、紅の瞳で眠る百代を見下ろした。
昨日の夜から、まるで嵐が来たようだった。
山がうるさいからと様子を見に行けば、彼女が山賊に襲われていた。成り行きで助ければ、彼女が自分に会いたかったと訳の分からないことを言い残して気を失うので、あまりに気になって連れて帰ってしまった。すると今度は巫女になりたいと言い始める。邪神と呼ばれる神の元へ自ら巫女を志願しにくる女なんて、意味がわからなさすぎて冗談でも言われているのかと思った。
そもそも巫女が自分の元に来るのは、二百と十数年ぶりなのだ。
ミズハは都の大河の上流であるこの草田瀬に社を置き、古くから信仰を集める蛇神だった。川を清め、嵐を鎮め、田畑に実りを助けながら、大勢の巫女や信仰をくれる人々と共に、穏やかな日々を送っていた。
けれど二百年前のある日、巫女が一人、二人と辞め始めた。みな病気だったり、家族の事情だったりと理由は異なっていたが、同時期に複数の巫女が辞めたことはそれが初めてだった。けれど人間個人に執着することはなかった当時のミズハは、特に引き留めもせず放置してしまう。気付けば美輪という苗字の巫女がやめたのを最後に、社から巫女が一人もいなくなってしまっていた。
巫女は神への信仰を集める手伝いをするとともに、自らも仕える神に信仰を捧げる存在でもある。故に全ての巫女を失ったミズハは急激に力を失った。その折りに草田瀬や都一帯に大嵐がやってくる。それまでであれば難なく鎮められていたが、力を失っていた状態では全く歯が立たなかった。
その結果、都や草田瀬で大きな被害が出て、その責任を全て押しつけられた。加えて嵐を起こしたのがミズハであるとの噂まで広まり、多くの人間に非難されてしまったのだ。
自分は何もしていない。そう訴えても、まるで人は聞き入れてくれず、結果穢れをため込んだミズハは、邪神と呼ばれて封印されてしまう。
そうしてミズハは全てを諦めた。人に期待することも、希望を抱くことも、潔白を証明することも、全て。
二百年経った今、何故か封印が解けてしまったが、その思いは変わっていない。もはや人間のために何かしてやろうという気さえ失っていたミズハは、このまま穢れに蝕まれ、消えてしまうことを望んでいた。なのに。
「君が、来ちゃうからさぁ」
するり、と。眠る百代の頬にそっと触れた。
とても温かくて、涙が出そうになる。昔失ったはずの、人間の温もり。本当はそれをずっと求めていたなんて、認めたくなかった。
「出て行かせようとしたのに、なんで残るんだよ」
事情があると言っていた。詳しいことは分からないけれど、巫女になろうとしたのも何か目的があってのことだろう。それでも。
拒否しても、嫌がられそうなことを言っても。彼女はここに残っていた。
社を掃除し、食事もミズハの分まで用意して、体に纏わり付いた穢れを祓ってみせた。彼女の思いは――捧げられた信仰は、本物だった。
だから巫女になる許可を与えた。三ヶ月という期限を定めて。
期限を定めたのは、意地悪ではない。この体が、もってあと三ヶ月だからだ。それまでに現状が変わらなければ、自分は穢れに飲まれて消えてしまうだろう。
けれど、彼女ならもしかしたら。
そんな思いが生まれていることに気づき、ミズハは自嘲する。
これ以上、人間に期待したくなかったのに。神になんて、戻りたくなかったのに。百代の存在が、捨てたはずの感情を思い出させる。
「ここにいるなら、せめて無理はさせないようにしないと」
彼女はできることが多い分、無茶な動きが多い。清めの儀式で立てなくなるまで霊力を使ったことも、その後自分で食材集めをしようとしたことも。普通なら途中で止めたり誰かに頼ったりするところを、すべて自分でこなそうとする。
それにミズハは昨日百代の服を着替えさせたとき、彼女の体が痣だらけだったのを目にしていた。家を出てきたと言っていたし、巫女の立場を望むのに髪が短いところを見るあたり、家族から酷い扱いを受けていたのかもしれない。もしそうなら、少しは気遣ってやらねば。
「ウズ、カガチ、出てこられる?」
ミズハが静かに名を呼ぶと、両脇に子供が二人現れた。紫の瞳の子供がウズ、金の瞳の子供がカガチ。彼らはミズハが神の力を使って作った眷属で、封印されていた間はずっと眠りについていた。今日百代が穢れを少し祓ってくれたお陰で、再び呼び出せるようになったのだ。
「主さま、お久しぶりですね!」
「ぼくたちに、なにかお仕事?」
「静かにしていて。この子が寝てるから」
飛び跳ねんばかりの二人に、ミズハは口元に人差し指を当てる。
カガチは眉をひそめて、百代の顔をのぞき込んだ。
「人間の女じゃないですか。なんで主さまの社にいるんです?」
「今日から僕の巫女になったんだよ。君たちにはこの子の身の回りの世話と、無茶しないよう見張りをしていてほしい」
これから巫女として動くつもりなら、草田瀬の村に行くこともあるだろう。本当は自分が見ていられればいいのだろうが、自分の外見では村人に恐れられてしまう。けれど子供の見た目をした二人なら、警戒されることはないだろう。
「無茶? どんな?」
ミズハの頼みに、ウズがこてんと首をかしげた。
「倒れそうになるまで頑張ったり、とかかな。そういう時はすぐに止めて」
「わかった。頑張る」
「人間の世話は嫌ですけど……主さまの頼みなら」
「うん、お願いね」
大人しく頷くウズと、若干不服そうなカガチの頭を撫でてから、ミズハは百代の寝顔に視線を戻す。すぐ傍で騒いでいても、彼女は全く起きる気配がなかった。やはり一連の出来事で、相当疲れていたのだろう。
おもむろに百代の頭に手を伸ばす。そのとき「んん……」と百代が寝返りをうった。ミズハは反射的に腕を引っ込めて、自分の手を凝視する。
「……なにしてるんだ、僕」
小さくため息をついた後、ミズハは立ち上がり百代の寝室を後にした。
外に出ると、ゆるやかな夜風が吹いていた。境内にはちろちろと、虫の声が響いている。天を仰ぐと、木々の間から瞬く星が覗いていた。
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