敵将を捕虜にしたら夫になって、気づけば家族までできていました

蜂蜜あやね

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ばあやのメモを見つけた夜から、イサナの胸の奥ではずっと小さな鼓動が続いていた。
 排卵日。
 紙切れに記されたその二文字が、やけに重くのしかかる。
 自分の身体に無頓着なイサナにだってわかる。子ができやすい日――そして、敵将であるソウガを“夫”として迎えてから初めての、その日だった。
 あのとき、ソウガを殺したくないと思った。
 そんな自分が口走った「夫にする」という言葉に、皇帝エンジュが出した条件。
 ――捕虜との婚姻を許す。その代わり、子を成せ。
 子を成すには、そういう行為をしなければならない。
 そして今日は、そのための“絶好の日”だとメモは告げていた。
 イサナの頭の中では、ぐらんぐらんと考えが巡る。
 心と頭が、それぞれバラバラに思いを走らせて止まらない。
(……逃げるわけには、いかない)
 アマツキ家の血。
 ロウファンの将。
 皇帝の右腕。
 肩に負ってきたものを思い出すほど、女としての自分が遠のいていくようで、苦笑したくなる。
 それでも、昼のうちにイサナはソウガを呼び止めていた。
「今夜、私の寝室に来なさい」
 短く、それだけを告げて。
 ソウガは一瞬だけ目を瞬かせ、深く頷いたきり、余計なことは何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
 その夜も、屋敷は静かだった。
 昼間はいつも通りの軍務、訓練。
 夕餉を終え、風呂を済ませたあと、ばあやは「じゃあ、将軍。何かあれば呼んでおくれ」と笑って帰っていった。
 残されたのは、イサナとソウガ、二人だけ。
 寝室の扉を閉めても、向こう側の居間にはもうひとつの気配がある。
 いつもなら、そこで互いの夜が分かれていくはずだった。
 ――今夜だけは、違う。
 寝台の端に腰を下ろし、イサナはゆっくりと息を吐いた。
 指先が、ばあやのメモをなぞるように布団の端をつまむ。
(逃げられない)
 任務でも、命令でもある。
 だがそれだけで割り切るには、胸の内が静かすぎた。
 そのとき、扉が控えめにノックされる。
「イサナ」
 低い声が、扉越しに響く。
 いつも通りの、抑えた調子のソウガの声。
 イサナは一拍置いてから、「入って」と答えた。
 扉が開き、ソウガが静かに足を踏み入れる。
 いつもの軍服ではなく、簡素な寝間着姿。それだけで、戦場から遠ざかったような奇妙な心地がした。
 しばし沈黙が落ちる。
 ソウガは寝台から距離を取り、壁際に立ったまま口を開いた。
「……俺は、お前が望まぬなら触れない」
 淡々とした宣言だった。
 欲を押し隠しているというより、本当に“任務”として線引きをしている声。
 イサナはきゅっとシーツを握る。
 本当なら、「望んでいない」と言えばいい。
 それで全てを先送りにできる。
 だが――。
 喉の奥で、別の言葉が膨らんだ。
「……望んでないとは、言ってない」
 自分でも驚くほど、か細い声だった。
 言葉が空気に溶けた瞬間、部屋の温度が一度上がったような気がした。
 ソウガの瞳が、ようやくイサナをまっすぐ捉える。
「イサナ」
 名を呼ぶ声に、肩がびくりと揺れた。
 逃げるなら今だ、と頭のどこかが囁く。
 だが、もう遅かった。
 皇帝の命令も、アマツキ家の血筋も、その全部を言い訳にするには、自分の胸の内が静かすぎる。
(……嫌では、ない)
 それが、誤魔化せない本音だった。
◇ ◇ ◇
 互いに鎧を脱ぎ捨てるのは、戦場だけのことではなくなった。
 ソウガが近づき、イサナの肩紐に指をかける。
 硬い指が衣擦れの音を引き連れて、布を滑らせていく。
 露わになった肌には、いくつもの細い傷跡が走っていた。
 剣士として、将として積み重ねてきた年月の線。
 ソウガは、それをじっと見つめた。
「……こんな身体で、俺と斬り結んでいたのか」
 独り言のような呟きに、イサナは眉をひそめる。
「“こんな”とは何よ」
「細い。……だが、よく鍛えてある」
 不器用なフォローに、思わず苦笑が漏れた。
 笑いかけた唇を、ソウガの手がそっと包む。
 今度は、イサナの指先がソウガの衣の前をつまむ番だった。
 布の下から現れた胸板にも、やはり無数の傷が刻まれている。
 硬い筋肉、深く走る古傷、浅く新しい傷。
 敵として遠くから見てきた背中が、目の前にある。
 戦場の緊張とは違う、妙な落ち着きのなさが胸を満たした。
「……本当に、いいのか」
 寝台に押し倒す代わりに、ソウガはイサナの手を取り、ゆっくりと腰を下ろさせる。
 顔を近づけながら、最後の確認のように問う。
「……子ができても、後悔はしない。あなたも聞いていたでしょう?」
 皇帝が子を成すのが婚姻の条件だと言ったことを――。
「……ああ」
「あなたの方はいいの? アマツキ家の血のために、まるで種馬のような……」
「俺はお前に従う。そう言ったはずだ……」
 互いに寝台の上で見つめ合い、言葉を交わす。
 夫婦の会話というよりは、契約の言葉に近い。だが、かつて敵同士だった二人が、こうして剣も持たずに近づいていること自体が、何とも言い難い。
「抱きなさい、ソウガ。……それがあなたの役目」
 どうにか絞り出した声。
 ソウガの瞳が、静かに細められる。
「わかった」
 彼はイサナをそっと抱き寄せた。
 乱暴なところは一つもない。
 ただ、確かめるように腕を回し、額を触れ合わせる。
 唇が重なる。
 熱くはない、けれど真剣な口づけだった。
 やがて、二人の身体はゆっくりと重なっていく。
 初めての感覚に、イサナの指先がシーツをつかんだ。
「……っ」
 小さく息が漏れる。
 痛みと、重さと、知らない圧迫感。
 ソウガの動きが一瞬止まる。
「……初めて、なのか」
 低く、少しだけ掠れた声。
「……将軍だからって、何度も経験してると思った?」
 強がり半分の皮肉を口にする余裕は、ぎりぎり残っていた。
 ソウガは返事をしなかった。
 ただ、深く息を吐き、動きをさらにゆっくりにする。
 痛みが、少しずつ和らいでいく。
 代わりに、身体の奥がじんじんと熱を帯びていく。
 任務でも命令でもない。
 けれど、逃げ出すこともできない。
 イサナは、自分の中まで満たされていく熱を、ただ黙って受け止めた。
 戦場で交わした剣とは違う。
 奪い合いでも勝ち負けでもない。
 「夫婦」として初めて過ごす、どうしようもなく不器用な夜だった。
◇ ◇ ◇
 終わったあと、寝台には奇妙な沈黙が降りた。
 荒い息だけが、しばらくのあいだ重なっている。
 イサナは天井を見上げたまま、何を言えばいいのかわからなかった。
 任務完了、などという言葉はさすがに喉で止まる。
 隣で横たわるソウガも、すぐには動かなかった。
 やがて、ぽつりと声が落ちる。
「……無理をさせたな」
「戦の傷に比べたら、どうということはないわ」
 自分でも、ずいぶんと不格好な返しだと思う。
 ぎこちない会話もそこで途切れた。
 それでも、先ほどまでとは違う。
 同じ寝台に並んでいるという事実が、どうしようもなく意識に上る。
 ソウガがゆっくりと身を起こそうとした。
「……居間に戻る」
「ちょっと」
 反射的に、イサナはその腕を掴んでいた。
「今日は……ここで寝ていいわ」
 言ってから、耳の裏まで熱くなるのがわかった。
 ソウガは一瞬だけ目を見開き、それから小さく頷く。
「……わかった」
 それ以上、何も言わない。
 ただ、寝台の端に身を戻し、ひと呼吸分だけ距離を空けて横たわる。
 互いの体温が、ほんのわずかに触れるか触れないかのところで揺れていた。
 イサナは目を閉じる。
 いつもより、夜が長く感じられた。


 
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