2 / 9
2
しおりを挟む
ロウファン王都の外れに建つアマツキ家の屋敷は、夕暮れ色に沈みかけていた。
門番が見慣れぬ男の姿に目を剥いたのも無理はない。
赤い外套の女将軍のすぐ後ろを、無言の男がひとり、鎖も縄もないまま歩いているのだから。
「……将軍、その方は……?」
恐る恐る問う門番を、イサナは短く一瞥した。
「今日からここの住人よ。通して」
門番は、イサナの後ろを歩く傷だらけの、どう見ても訳ありな体躯のいい男を、不審そうに見つめた。
使用人として雇うにはあまりにも場違いな容姿。イサナより頭一つ以上高く、傷ついた身でありながら、その肉体が鍛え上げられていることは一目でわかる。
だが、イサナの一言で、それ以上は何も言えない。
視線の先、男――ザンザの“青狼”ことソウガは、門番の驚愕など意にも介さぬ様子で、ただまっすぐ前を見ていた。その無表情は、まるで自分のことではないかのようだ。
(……本当に、連れて帰ってきてしまった)
自分で言い出したこととはいえ、屋敷の敷居をまたいだ瞬間、イサナの胸の奥で今さらのように実感が膨れ上がる。
この家に、今日から自分以外の人間――しかも男が住む。
両親が事故で亡くなってからずっと、この広すぎる屋敷はイサナひとりのものだった。
掃除や洗濯、最低限の家事は、昼間だけ通ってくるばあやがこなしてくれている。
夕刻になれば、「じゃあ、将軍。何かあれば呼んでおくれ」と笑って帰っていく。
そのあとは、広い屋敷にイサナと静寂だけが残る。
それが心地よかった。
戦場の喧騒のあとで、誰もいない廊下を歩き、自分の足音だけを聞く時間が好きだった。
夜、ふと寂しさがよぎることもあったが、それでも“ひとりが辛い”と感じたことはない。
――なのに。
前を行くソウガの背を見つめながら、イサナは小さく息を呑む。
(今日から、この家には“気配”がもうひとつ増える)
◇ ◇ ◇
食堂の長机に向かい合って座るのは、どちらも不慣れだった。
ばあやの用意していった夕餉を、イサナは戦場帰りの腹に押し込むように、黙々と箸を動かす。
ソウガもまた、静かに食べていた。騒がしい音は一切立てない。皿を置く音さえ、妙に控えめだ。
(……何か、話すべき?)
戦場でなら、いくらでも話題はあった。
布陣の読み合い、地形、補給線、兵の疲弊。
だが、家の中では何を話せばいいのかわからない。
向かいの男は、敵国の将軍。いまは捕虜であり、形式上は自分の“夫になる予定の男”。
その事実の異様さを思うたび、イサナの胸のあたりがじわりとむず痒くなる。
やがて箸が止まり、沈黙が食堂を満たした。
「……」
「…………」
外では夜風が木々の梢を揺らしている。そのわずかな音すら、やけに大きく聞こえる。
先に口を開いたのは、ソウガだった。
「……俺は、ここで何をすればいい?」
低く抑えた声だった。
責めるでも嘲るでもなく、ただ事実だけを問う声音。
「別に、何もしなくていい……けど」
イサナはそう返したものの、自分でもそれが答えになっていないことはわかっていた。
何もしないで、ただこの屋敷の中に男の気配があり続ける――それがどれほど落ち着かないものか、今日一日で嫌というほど理解したのだ。
捕虜である以上、むやみに外を歩かせるわけにはいかない。
かといって、鎖で繋いで地下牢に放り込むような真似も、イサナにはできなかった。
ソウガは少しだけ視線を横にそらし、窓の外の闇を見た。
「何もしないでいる方が、お前には迷惑だろう」
その言い方があまりに淡々としていて、イサナは思わず言葉に詰まる。
(……そうね。迷惑、なのよ)
家の中で黙って座っているだけで、妙に意識させられる男。
敵将のくせに、戦場よりもこの屋敷の方が厄介だなんて思ってしまう。
沈黙が再び落ちかけた、そのとき。
イサナは椅子から立ち上がった。
「……じゃあ」
自分の口が勝手に動き出す。
「じゃあ、家事。あと、私の疲労を取るための――マッサージ」
口にしてから、しまったと思った。
だがもう遅い。ソウガがわずかに目を瞬かせる。
「……家事と、マッサージ?」
「そうよ。黙って座っているなら、動きなさい。掃除、片付け、風呂の準備。ばあやの手の届かないところの整理。戦場帰りの将軍を迎える家として恥ずかしくない程度にはね」
言いながら、イサナは自分の机の上を思い浮かべて内心で眉をひそめた。
書類、地図、資料。油断すればすぐに山になる。
ばあやはそこまで手を出さない。軍務の書類など触りたがらないからだ。
それに加え、ばあやはもうかなりの歳だ。腰を痛めてからは、高いところや隅の掃除までは手が回らない。
そういった場所の埃や塵も、イサナは特に気にしなかった。
だが、こんなにも背が高く屈強な男がこの屋敷に来たのだから、そういう面でも働いてもらわない手はない。
じっと屋敷に居座られるより、よっぽどいい。
イサナの判断は、それだけだった。
「……了解した」
ソウガは短く答えた。拒む気配は微塵もない。
「マッサージは?」
ついでのように付け足しながらも、イサナの声はほんの少しだけ硬くなる。
「戦場続きで肩と腰が死んでるの。ほぐしてくれれば、それでいいわ。変なことをしたら、叩き斬るから」
「しない」
即答だった。その迷いのなさに、イサナは逆に困惑する。
(……まぁ、そうよね。夫といえども、形だけだとわかっているはずだもの)
敵将としての警戒心は、まだまったく解けていない。
だが“女”としての危機感は、思っていたよりも薄らいでいくのを感じて、イサナは自分の心の変化に戸惑った。
◇ ◇ ◇
翌日から、屋敷の空気は目に見えて変わった。
廊下の隅に放り出されていた古い鎧や、壊れかけた槍は、いつの間にか倉庫へ運び込まれ、壁際はすっきりと整えられる。
軍から持ち帰った地図や報告書も、重要度ごとに仕分けされ、積み上がっていた机の上に規則正しく並べられていた。
「……あなた、いつの間に」
執務机の前で腕を組みながらイサナが呟くと、すぐ後ろから平然とした声が返る。
「散らかっていると、必要な時に必要なものが見つからない。戦場と同じだ」
「うるさいわね」
口ではそう言いながらも、イサナは素直に感心していた。
単に片付けただけではない。軍務の流れを理解した上で整理されている。それは長年、前線の将として部隊を動かしてきたソウガだからこそできる仕事だった。
風呂の湯加減も、驚くほどちょうどいい。
ばあやの残していった野菜と干し肉を使い、素朴ながら腹に優しい煮込みが夕餉に並ぶことも増えた。
ばあやは最初こそ「えぇ? 将軍、捕虜の人にこんなことまでさせて良いんですかい」と目を丸くしたが、ソウガの手際の良さを見てすぐに受け入れた。
「こういうのは、できる人がやればいいんですよ。ねぇ、ソウガさん」
ばあやが笑いながら言うと、ソウガはほんの一瞬だけ不器用に視線をそらし、小さく頷いた。
「……生きるために、覚えただけだ」
その一言が、妙に胸に残った。
◇ ◇ ◇
マッサージを頼んだのは、三日目の夜だった。
訓練場から戻り、風呂を済ませて簡単な食事を終えたあと。
イサナは居間の椅子に腰掛け、背もたれに身体を預ける。
「……じゃあ、約束どおり。肩と背中。頼むわ」
ソウガは無言で背後に立つ。
大きな手が、ためらいがちにイサナの肩に触れた。
ぐっ、と指が沈む。
「……っ」
思わず、喉の奥から声が漏れた。
イサナ自身、ここまで自分の肩が石のように固まっているとは思っていなかった。
肉の奥まで食い込むような痛気持ちよさが、じわじわと広がっていく。
「……ひどい硬さだ」
ソウガが低く呟く。
「うるさい……っ」
いつもなら笑い飛ばせる軽口も、いまはそれどころではない。
肩から肩甲骨、首筋へと指が移動する。そのたびに、凝り固まった筋が少しずつほどけていく。
戦場から戻っても、すぐに軍議、報告、訓練。
痛みや疲れなど、感じている余裕もないまま走り続けてきた。
そのツケが、一気に押し寄せてきたようだった。
「力加減は」
「……ちょうど、いい……」
返事をしたつもりが、声が掠れている。
肩から背中にかけて、温かいものがじんわりと広がっていく。
(なにこれ……こんなの、知らない)
ただのマッサージのはずなのに、全身から力が抜けそうになる。
誰かに“預けて”しまう感覚が、むず痒くて、怖くて、そして少しだけ心地いい。
ソウガは黙々と指を動かし続ける。
余計な言葉は一切ない。ただ、凝っているところを正確に見つけ、そこを集中的に押し、さする。
(この男……人の身体をよく見ている)
戦場で、兵の様子や敵の動きを見てきた目。
それがいま、イサナひとりだけに向けられている。
意識した瞬間、イサナは自分の頬が少し熱くなっているのを感じた。
「……今日はこのくらいにしておくか」
ソウガが手を離す。
途端に、背中に残る熱と、そこから突然取り上げられた支えに、イサナの身体がふらついた。
「っ……」
「すまない」
慌てて肩を支える大きな手。
その一瞬の触れ方が妙にやさしくて、イサナは、自分の心がどこへ向かおうとしているのか考えないことにした。
◇ ◇ ◇
夜になると、距離はまた戻る。
寝室はひとつ。広いベッドがひとつ。
だがソウガは、当然のようにベッドから距離を取り、その夜は居間の長椅子に横たわった。
翌晩も、その次の晩も同じだ。
イサナが寝室の扉を閉めると、ソウガは何も言わずに居間へ向かう。
ある夜、イサナは寝巻き姿のまま寝室の入口で立ち止まり、振り返った。
「……別に、床で寝ろなんて言ってないわよ」
居間のソファに毛布を敷いていたソウガが、こちらを振り向く。
「……近くにいると、お前が気まずそうだ」
事もなげな言い方だった。
あまりに的確で、イサナは言葉を失う。
「そ、そんなこと……」
否定しかけて、言葉が喉につかえた。
――そんなこと、ない。
と言い切る自信はなかった。
ソウガはそれ以上追及しなかった。
「ここで十分眠れる」
本心かどうかはわからない。
だがイサナの方が、そこでそれ以上何も言えなくなってしまった。
結局その夜も、イサナはひとりで広いベッドに横たわり、天井を見つめながら目を閉じる。
すぐ隣の居間に、もうひとつの気配がある。
それだけで、屋敷はもう、かつての“ひとりの城”ではなくなっていた。
◇ ◇ ◇
ばあやのメモを見つけたのは、そんな生活に少し慣れ始めた頃だ。
ソウガが整理してくれた机の上には、以前よりずっと少ない紙束が、整然と並んでいる。
その一角に、場違いなほど小さな紙片が紛れ込んでいた。
「……?」
何気なく手に取った瞬間、イサナの顔から血の気が引いた。
そこには、細かい字でびっしりと書き込みがされている。
日付と、その横に小さく引かれた印。丸印、三角印、波線のような印。
それはイサナ自身も見慣れた記号だった。
――生理の周期。
――体調の波。
――本来なら重い訓練を避けるべき日。
ばあやが、イサナの身体のためにこっそりつけていた“サイクル表”。
イサナは将軍だが、性別は紛うことなく女だった。
男と違い、女である身体は戦場で戦うには多少の不便が伴う。
月に一度訪れる月のもの。それはイサナを苦しめた。その期間になると途端に身体は重だるくなるし、思考も普段より鈍る。
その期間を避けるように実戦訓練を組み、戦であるならばそれに配慮し、薬を飲む。
ばあやは、幼い頃からイサナをよく知っている。
そして、女の体をよく知っている。
イサナが初めて初潮を迎えたときから――
まだ将軍として剣を振るう前から、腰を冷やすな、腹を温めろ、手先・足先、冷えは大敵、と口を酸っぱくして言ってきた。
その集大成が、このイサナの体のリズムのサイクル表だ。
本来なら自分で管理するはずの体のリズムに対して、ばあやは今でも几帳面にイサナを観察し、表に記している。
それが少し気恥ずかしくもあり、イサナにとってはありがたいことでもあった。
「……ばあや……机の上に置きっぱなしにしないでよ……」
思わず小さく悪態をつく。だが次の瞬間、イサナの指が止まった。
丸印の並び、その先。
計算上の――排卵日。
「……っ」
喉の奥がひゅっと鳴る。
皇帝の声が、耳の奥でよみがえった。
――捕虜との婚姻を許す。その代わり、子を成せ。
屋敷には、いま、イサナとソウガしかいない。
夜は毎日、同じ屋根の下。
(まだ……何も、していないのに)
初夜と言えるような夜は、まだ来ていない。
ソウガは一度たりとも、寝所に近づこうとはしなかった。
だが、皇帝の“条件”が消えるわけではない。
このサイクル表は、その現実をいやというほど突きつけてくる。
今までのように、ひとりの身体として扱うことはできない。
イサナの体は、“アマツキ家の血”を残す器でもあると、改めて知らされてしまう。
心臓がどくん、と大きく脈打った。
(……逃げられない)
戦場からは退くこともできる。撤退も転進も、戦術のうちだ。
だがこの屋敷からは、どこへも退けない。逃げ場はない。
サイクル表に視線を落としたまま、イサナはしばらくのあいだ、その場から動けなかった。
“今の関係のままではいられない”。
その予感だけが、じわりと胸を締めつけてくる。
屋敷の静けさは、もう居心地のいいものではなかった。
夜の訪れが、初めて少しだけ、怖いと思えた。
門番が見慣れぬ男の姿に目を剥いたのも無理はない。
赤い外套の女将軍のすぐ後ろを、無言の男がひとり、鎖も縄もないまま歩いているのだから。
「……将軍、その方は……?」
恐る恐る問う門番を、イサナは短く一瞥した。
「今日からここの住人よ。通して」
門番は、イサナの後ろを歩く傷だらけの、どう見ても訳ありな体躯のいい男を、不審そうに見つめた。
使用人として雇うにはあまりにも場違いな容姿。イサナより頭一つ以上高く、傷ついた身でありながら、その肉体が鍛え上げられていることは一目でわかる。
だが、イサナの一言で、それ以上は何も言えない。
視線の先、男――ザンザの“青狼”ことソウガは、門番の驚愕など意にも介さぬ様子で、ただまっすぐ前を見ていた。その無表情は、まるで自分のことではないかのようだ。
(……本当に、連れて帰ってきてしまった)
自分で言い出したこととはいえ、屋敷の敷居をまたいだ瞬間、イサナの胸の奥で今さらのように実感が膨れ上がる。
この家に、今日から自分以外の人間――しかも男が住む。
両親が事故で亡くなってからずっと、この広すぎる屋敷はイサナひとりのものだった。
掃除や洗濯、最低限の家事は、昼間だけ通ってくるばあやがこなしてくれている。
夕刻になれば、「じゃあ、将軍。何かあれば呼んでおくれ」と笑って帰っていく。
そのあとは、広い屋敷にイサナと静寂だけが残る。
それが心地よかった。
戦場の喧騒のあとで、誰もいない廊下を歩き、自分の足音だけを聞く時間が好きだった。
夜、ふと寂しさがよぎることもあったが、それでも“ひとりが辛い”と感じたことはない。
――なのに。
前を行くソウガの背を見つめながら、イサナは小さく息を呑む。
(今日から、この家には“気配”がもうひとつ増える)
◇ ◇ ◇
食堂の長机に向かい合って座るのは、どちらも不慣れだった。
ばあやの用意していった夕餉を、イサナは戦場帰りの腹に押し込むように、黙々と箸を動かす。
ソウガもまた、静かに食べていた。騒がしい音は一切立てない。皿を置く音さえ、妙に控えめだ。
(……何か、話すべき?)
戦場でなら、いくらでも話題はあった。
布陣の読み合い、地形、補給線、兵の疲弊。
だが、家の中では何を話せばいいのかわからない。
向かいの男は、敵国の将軍。いまは捕虜であり、形式上は自分の“夫になる予定の男”。
その事実の異様さを思うたび、イサナの胸のあたりがじわりとむず痒くなる。
やがて箸が止まり、沈黙が食堂を満たした。
「……」
「…………」
外では夜風が木々の梢を揺らしている。そのわずかな音すら、やけに大きく聞こえる。
先に口を開いたのは、ソウガだった。
「……俺は、ここで何をすればいい?」
低く抑えた声だった。
責めるでも嘲るでもなく、ただ事実だけを問う声音。
「別に、何もしなくていい……けど」
イサナはそう返したものの、自分でもそれが答えになっていないことはわかっていた。
何もしないで、ただこの屋敷の中に男の気配があり続ける――それがどれほど落ち着かないものか、今日一日で嫌というほど理解したのだ。
捕虜である以上、むやみに外を歩かせるわけにはいかない。
かといって、鎖で繋いで地下牢に放り込むような真似も、イサナにはできなかった。
ソウガは少しだけ視線を横にそらし、窓の外の闇を見た。
「何もしないでいる方が、お前には迷惑だろう」
その言い方があまりに淡々としていて、イサナは思わず言葉に詰まる。
(……そうね。迷惑、なのよ)
家の中で黙って座っているだけで、妙に意識させられる男。
敵将のくせに、戦場よりもこの屋敷の方が厄介だなんて思ってしまう。
沈黙が再び落ちかけた、そのとき。
イサナは椅子から立ち上がった。
「……じゃあ」
自分の口が勝手に動き出す。
「じゃあ、家事。あと、私の疲労を取るための――マッサージ」
口にしてから、しまったと思った。
だがもう遅い。ソウガがわずかに目を瞬かせる。
「……家事と、マッサージ?」
「そうよ。黙って座っているなら、動きなさい。掃除、片付け、風呂の準備。ばあやの手の届かないところの整理。戦場帰りの将軍を迎える家として恥ずかしくない程度にはね」
言いながら、イサナは自分の机の上を思い浮かべて内心で眉をひそめた。
書類、地図、資料。油断すればすぐに山になる。
ばあやはそこまで手を出さない。軍務の書類など触りたがらないからだ。
それに加え、ばあやはもうかなりの歳だ。腰を痛めてからは、高いところや隅の掃除までは手が回らない。
そういった場所の埃や塵も、イサナは特に気にしなかった。
だが、こんなにも背が高く屈強な男がこの屋敷に来たのだから、そういう面でも働いてもらわない手はない。
じっと屋敷に居座られるより、よっぽどいい。
イサナの判断は、それだけだった。
「……了解した」
ソウガは短く答えた。拒む気配は微塵もない。
「マッサージは?」
ついでのように付け足しながらも、イサナの声はほんの少しだけ硬くなる。
「戦場続きで肩と腰が死んでるの。ほぐしてくれれば、それでいいわ。変なことをしたら、叩き斬るから」
「しない」
即答だった。その迷いのなさに、イサナは逆に困惑する。
(……まぁ、そうよね。夫といえども、形だけだとわかっているはずだもの)
敵将としての警戒心は、まだまったく解けていない。
だが“女”としての危機感は、思っていたよりも薄らいでいくのを感じて、イサナは自分の心の変化に戸惑った。
◇ ◇ ◇
翌日から、屋敷の空気は目に見えて変わった。
廊下の隅に放り出されていた古い鎧や、壊れかけた槍は、いつの間にか倉庫へ運び込まれ、壁際はすっきりと整えられる。
軍から持ち帰った地図や報告書も、重要度ごとに仕分けされ、積み上がっていた机の上に規則正しく並べられていた。
「……あなた、いつの間に」
執務机の前で腕を組みながらイサナが呟くと、すぐ後ろから平然とした声が返る。
「散らかっていると、必要な時に必要なものが見つからない。戦場と同じだ」
「うるさいわね」
口ではそう言いながらも、イサナは素直に感心していた。
単に片付けただけではない。軍務の流れを理解した上で整理されている。それは長年、前線の将として部隊を動かしてきたソウガだからこそできる仕事だった。
風呂の湯加減も、驚くほどちょうどいい。
ばあやの残していった野菜と干し肉を使い、素朴ながら腹に優しい煮込みが夕餉に並ぶことも増えた。
ばあやは最初こそ「えぇ? 将軍、捕虜の人にこんなことまでさせて良いんですかい」と目を丸くしたが、ソウガの手際の良さを見てすぐに受け入れた。
「こういうのは、できる人がやればいいんですよ。ねぇ、ソウガさん」
ばあやが笑いながら言うと、ソウガはほんの一瞬だけ不器用に視線をそらし、小さく頷いた。
「……生きるために、覚えただけだ」
その一言が、妙に胸に残った。
◇ ◇ ◇
マッサージを頼んだのは、三日目の夜だった。
訓練場から戻り、風呂を済ませて簡単な食事を終えたあと。
イサナは居間の椅子に腰掛け、背もたれに身体を預ける。
「……じゃあ、約束どおり。肩と背中。頼むわ」
ソウガは無言で背後に立つ。
大きな手が、ためらいがちにイサナの肩に触れた。
ぐっ、と指が沈む。
「……っ」
思わず、喉の奥から声が漏れた。
イサナ自身、ここまで自分の肩が石のように固まっているとは思っていなかった。
肉の奥まで食い込むような痛気持ちよさが、じわじわと広がっていく。
「……ひどい硬さだ」
ソウガが低く呟く。
「うるさい……っ」
いつもなら笑い飛ばせる軽口も、いまはそれどころではない。
肩から肩甲骨、首筋へと指が移動する。そのたびに、凝り固まった筋が少しずつほどけていく。
戦場から戻っても、すぐに軍議、報告、訓練。
痛みや疲れなど、感じている余裕もないまま走り続けてきた。
そのツケが、一気に押し寄せてきたようだった。
「力加減は」
「……ちょうど、いい……」
返事をしたつもりが、声が掠れている。
肩から背中にかけて、温かいものがじんわりと広がっていく。
(なにこれ……こんなの、知らない)
ただのマッサージのはずなのに、全身から力が抜けそうになる。
誰かに“預けて”しまう感覚が、むず痒くて、怖くて、そして少しだけ心地いい。
ソウガは黙々と指を動かし続ける。
余計な言葉は一切ない。ただ、凝っているところを正確に見つけ、そこを集中的に押し、さする。
(この男……人の身体をよく見ている)
戦場で、兵の様子や敵の動きを見てきた目。
それがいま、イサナひとりだけに向けられている。
意識した瞬間、イサナは自分の頬が少し熱くなっているのを感じた。
「……今日はこのくらいにしておくか」
ソウガが手を離す。
途端に、背中に残る熱と、そこから突然取り上げられた支えに、イサナの身体がふらついた。
「っ……」
「すまない」
慌てて肩を支える大きな手。
その一瞬の触れ方が妙にやさしくて、イサナは、自分の心がどこへ向かおうとしているのか考えないことにした。
◇ ◇ ◇
夜になると、距離はまた戻る。
寝室はひとつ。広いベッドがひとつ。
だがソウガは、当然のようにベッドから距離を取り、その夜は居間の長椅子に横たわった。
翌晩も、その次の晩も同じだ。
イサナが寝室の扉を閉めると、ソウガは何も言わずに居間へ向かう。
ある夜、イサナは寝巻き姿のまま寝室の入口で立ち止まり、振り返った。
「……別に、床で寝ろなんて言ってないわよ」
居間のソファに毛布を敷いていたソウガが、こちらを振り向く。
「……近くにいると、お前が気まずそうだ」
事もなげな言い方だった。
あまりに的確で、イサナは言葉を失う。
「そ、そんなこと……」
否定しかけて、言葉が喉につかえた。
――そんなこと、ない。
と言い切る自信はなかった。
ソウガはそれ以上追及しなかった。
「ここで十分眠れる」
本心かどうかはわからない。
だがイサナの方が、そこでそれ以上何も言えなくなってしまった。
結局その夜も、イサナはひとりで広いベッドに横たわり、天井を見つめながら目を閉じる。
すぐ隣の居間に、もうひとつの気配がある。
それだけで、屋敷はもう、かつての“ひとりの城”ではなくなっていた。
◇ ◇ ◇
ばあやのメモを見つけたのは、そんな生活に少し慣れ始めた頃だ。
ソウガが整理してくれた机の上には、以前よりずっと少ない紙束が、整然と並んでいる。
その一角に、場違いなほど小さな紙片が紛れ込んでいた。
「……?」
何気なく手に取った瞬間、イサナの顔から血の気が引いた。
そこには、細かい字でびっしりと書き込みがされている。
日付と、その横に小さく引かれた印。丸印、三角印、波線のような印。
それはイサナ自身も見慣れた記号だった。
――生理の周期。
――体調の波。
――本来なら重い訓練を避けるべき日。
ばあやが、イサナの身体のためにこっそりつけていた“サイクル表”。
イサナは将軍だが、性別は紛うことなく女だった。
男と違い、女である身体は戦場で戦うには多少の不便が伴う。
月に一度訪れる月のもの。それはイサナを苦しめた。その期間になると途端に身体は重だるくなるし、思考も普段より鈍る。
その期間を避けるように実戦訓練を組み、戦であるならばそれに配慮し、薬を飲む。
ばあやは、幼い頃からイサナをよく知っている。
そして、女の体をよく知っている。
イサナが初めて初潮を迎えたときから――
まだ将軍として剣を振るう前から、腰を冷やすな、腹を温めろ、手先・足先、冷えは大敵、と口を酸っぱくして言ってきた。
その集大成が、このイサナの体のリズムのサイクル表だ。
本来なら自分で管理するはずの体のリズムに対して、ばあやは今でも几帳面にイサナを観察し、表に記している。
それが少し気恥ずかしくもあり、イサナにとってはありがたいことでもあった。
「……ばあや……机の上に置きっぱなしにしないでよ……」
思わず小さく悪態をつく。だが次の瞬間、イサナの指が止まった。
丸印の並び、その先。
計算上の――排卵日。
「……っ」
喉の奥がひゅっと鳴る。
皇帝の声が、耳の奥でよみがえった。
――捕虜との婚姻を許す。その代わり、子を成せ。
屋敷には、いま、イサナとソウガしかいない。
夜は毎日、同じ屋根の下。
(まだ……何も、していないのに)
初夜と言えるような夜は、まだ来ていない。
ソウガは一度たりとも、寝所に近づこうとはしなかった。
だが、皇帝の“条件”が消えるわけではない。
このサイクル表は、その現実をいやというほど突きつけてくる。
今までのように、ひとりの身体として扱うことはできない。
イサナの体は、“アマツキ家の血”を残す器でもあると、改めて知らされてしまう。
心臓がどくん、と大きく脈打った。
(……逃げられない)
戦場からは退くこともできる。撤退も転進も、戦術のうちだ。
だがこの屋敷からは、どこへも退けない。逃げ場はない。
サイクル表に視線を落としたまま、イサナはしばらくのあいだ、その場から動けなかった。
“今の関係のままではいられない”。
その予感だけが、じわりと胸を締めつけてくる。
屋敷の静けさは、もう居心地のいいものではなかった。
夜の訪れが、初めて少しだけ、怖いと思えた。
1
あなたにおすすめの小説
婚約解消されたら隣にいた男に攫われて、強請るまで抱かれたんですけど?〜暴君の暴君が暴君過ぎた話〜
紬あおい
恋愛
婚約解消された瞬間「俺が貰う」と連れ去られ、もっとしてと強請るまで抱き潰されたお話。
連れ去った強引な男は、実は一途で高貴な人だった。
魚人族のバーに行ってワンナイトラブしたら番いにされて種付けされました
ノルジャン
恋愛
人族のスーシャは人魚のルシュールカを助けたことで仲良くなり、魚人の集うバーへ連れて行ってもらう。そこでルシュールカの幼馴染で鮫魚人のアグーラと出会い、一夜を共にすることになって…。ちょっとオラついたサメ魚人に激しく求められちゃうお話。ムーンライトノベルズにも投稿中。
【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております
紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。
二年後にはリリスと交代しなければならない。
そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。
普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…
幼馴染の勇者に「魔王を倒して帰ってきたら何でもしてあげる」と言った結果
景華
恋愛
平和な村で毎日を過ごす村娘ステラ。
ある日ステラの長年の想い人である幼馴染であるリードが勇者として選ばれ、聖女、女剣士、女魔術師と共に魔王討伐に向かうことになる。
「俺……ステラと離れたくない」
そんなリードに、ステラは思わずこう告げる。
「そうだ‼ リードが帰ってきたら、私がリードのお願い、一つだけなんでも叶えてあげる‼」
そんなとっさにステラから飛び出た約束を胸に、リードは村を旅立つ。
それから半年、毎日リードの無事を祈り続けるステラのもとに、リードの史上最速での魔王城攻略の知らせが届く。
勇者一行はこれからたくさんの祝勝パーティに参加した後、故郷に凱旋するというが、それと同時に、パーティメンバーである聖女と女剣士、そして女魔術師の話も耳にすることになる。
戦いの昂りを鎮める役割も担うという三人は、戦いの後全員が重婚の認められた勇者の嫁になるということを知ったステラは思いを諦めようとするが、突然現れたリードは彼女に『ステラの身体《約束のお願い》』を迫って来て──?
誰がどう見ても両片思いな二人がお願いをきっかけに結ばれるまで──。
愛されないと吹っ切れたら騎士の旦那様が豹変しました
蜂蜜あやね
恋愛
隣国オデッセアから嫁いできたマリーは次期公爵レオンの妻となる。初夜は真っ暗闇の中で。
そしてその初夜以降レオンはマリーを1年半もの長い間抱くこともしなかった。
どんなに求めても無視され続ける日々についにマリーの糸はプツリと切れる。
離縁するならレオンの方から、私の方からは離縁は絶対にしない。負けたくない!
夫を諦めて吹っ切れた妻と妻のもう一つの姿に惹かれていく夫の遠回り恋愛(結婚)ストーリー
※本作には、性的行為やそれに準ずる描写、ならびに一部に性加害的・非合意的と受け取れる表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
※ムーンライトノベルズでも投稿している同一作品です。
世間知らずな山ごもり薬師は、××な騎士団長の性癖淫愛から逃げ出せない
二位関りをん
恋愛
平民薬師・クララは国境沿いの深い山奥で暮らしながら、魔法薬の研究に没頭している。招集が下れば山を下りて麓にある病院や娼館で診察補助をしたりしているが、世間知らずなのに変わりはない。
ある日、山の中で倒れている男性を発見。彼はなんと騎士団長・レイルドで女嫌いの噂を持つ人物だった。
当然女嫌いの噂なんて知らないクララは良心に従い彼を助け、治療を施す。
だが、レイルドには隠している秘密……性癖があった。
――君の××××、触らせてもらえないだろうか?
義兄に甘えまくっていたらいつの間にか執着されまくっていた話
よしゆき
恋愛
乙女ゲームのヒロインに意地悪をする攻略対象者のユリウスの義妹、マリナに転生した。大好きな推しであるユリウスと自分が結ばれることはない。ならば義妹として目一杯甘えまくって楽しもうと考えたのだが、気づけばユリウスにめちゃくちゃ執着されていた話。
「義兄に嫌われようとした行動が裏目に出て逆に執着されることになった話」のifストーリーですが繋がりはなにもありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる