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一章 エルメの冬

(五)幽霊雲と鹿カレー

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 最初に『幽霊雲ゆうれいぐも』が現れたのは、北歴ほくれき元年の夏頃とされている。海に近い土地ではそれより以前から大雨があった、とも言われているが、ともかくその頃はまだ、人々から「少し強い雨」と認識される程度のものだったという。

 東世とうぜの天候は知狎ちこうつかさどる。東世は空の色さえ気まぐれで、太陽も月もない。雨も雪も、朝も夜も、すべて神がもたらす『恵み』である。

 当然ながら、当時の四つ国よつくに神僧しんそうたちは、大地を削るほどの雨を止めてほしいと知狎へ懇願した。おりしも、異変の始まりは暦が西歴せいれきから北歴へ変わった直後である。暦が変わるのは四九六年に一度のことだ。多くの人々がこれにかこつけ、浮かれ気分で様々な商売をしたし、旧主都しゅとである白虎びゃっこ西苑せいえん、そして新たな主都となった玄武げんぶ北苑ほくえんには大勢の人が訪れた。そのような人の営みのが、神の怒りに触れ、罰として暴雨を与えている、と、当時の人々は考えたのである。

 しかし驚くべきことに、北歴三年の六月、件の大雨と知狎は一切関与がない、と発表された。

「知狎が司るものではないから、止めることも弱めてやることもできない。あれにはさすがの知狎も手を焼いているらしい。被害の程度は不明だが、西世せいぜでも同じ頃からあのような酷い雨があるらしい」

 当時から東苑とうえんの神僧を勤めていたガレアは、寺院の僧尽そうじんらにそう伝えた。他の三つの知狎苑から神僧が賜ったのも、当然ながら同じ内容であった。
 知狎は一人ではない。一つの知狎苑に複数存在し、人と同じように性質や姿形に差異があるが、人と違い、彼らの意思は最終的に必ず一つとなる。東苑と他の知狎苑で異なることを言われるはずもない。

 北歴五年を過ぎた頃から、四つ国の各地で毎年必ず天災による死者が出るようになった。
 太古の昔から知狎の加護を受けて暮らしていた東世の人間は、土砂崩れや河川の氾濫を予測できなかったのである。無知な人々が魔法でできることといえば、せいぜい自分の家に水除けを施す程度だった。しかし魔法は、未知のものや想像の及ばないものに対してはひどく弱い。どんなに予防をしても、雨に、川に、山に、海に負けて、大勢の人々が命を落としてきた。

 古くから『幽霊』は、何らかの理由で知狎の手を離れてしまったものと考えられている。一度神と縁が切れると、その魂は神の加護を得ることができず、また神が律することもできない。
 そのため、いつしか人々は命を奪う大雨を指して「悪霊」とし、それをもたらすおぞましい黒雲を「幽霊雲」と呼んだ。

 年が明けて第二月になった。今年は北歴三十五年である。東世の暦に習うと、エルメは北歴十八年生まれということになるらしい。

 シャートは西歴最後の年である四九六年生まれである。
 物心ついた頃から幽霊雲の存在があったか否かにより、東世ではと分けて考えることが多いが、確かにエルメの目から見ても、シャートより年上の者は災害に備えるのが不得手に見えた。そして年長のものほど、神の手が及ばない不気味なものとして、雨自体をひどく恐れる。

 ユノンは北歴六年生まれだが、彼ほど若い世代になると、寺院や学院などで幽霊雲が現れた際にどう行動するかを学ぶようになる。年若い者たちは、かつての知狎に守られた穏やかな東世の姿を知らない。しかし同時に、幼い頃から悪霊とともにある彼らは非常に用心深く、また慢心がなかった。

 東世では昔から、大切な決定はより若い者にさせる、という慣習がある。無知な者に無謀な決定をさせたりはしないが、東世ではとにかく子どものうちから「より良いことが何か」を考えさせようとする。
 子どもを学院や寺院で学ばせるのは、そこに多様な性質や思考を持つものが多く集うからだ。子どもたち一人一人が親とも兄弟とも異なる考え方ができるようになれば、それだけ東世全体のは豊かになる。
 どんなに奇妙な『思いつき』も、あるいは誰かの抱える些細な『悩み』であっても、それらはいつかどこかで、誰かの役に立つかもしれない解決の種となり得るのだ。

 より若い者の意見を尊重するという慣習は、エルメにとっては不可思議であるものの、東世にとっては幸いだったかもしれない。
 幽霊雲がもたらす雨への備えや被害の手当は、若者たち、つまり『を過度に恐れない者』と『に対し慎重な態度の者』両者の研究報告と意見が積極的に取り入れられ、今や国を問わず各地で迅速に行なわれるようになっていた。家屋を始め、学院などの大きな建物への防護も年々強固になってきている。

 しかし彼らの努力を嘲笑あざわらうように、かの雨はますます凶暴性を増して人々に襲いかかった。エルメが冥裏郷めいりきょうから東世へ渡ってちょうど十年になるが、来たばかりの頃の雨量はここまで酷くなかったように思う。それに、かつてユノンから「幽霊雲は年に六~十回の頻度で現れる」と教わったが、近年、悪霊の襲来がたった六回で済んだ年はない。

「幽霊雲なんて暢気な名前のくせに、このおせっちん野郎」
 エルメは顔に貼りつこうとする長い髪を振り払いながら、天に向かって苦々しく独りごちた。

 視界は悪いが、おそらく理天学院りてんがくいんまで、もうほんの四キロメートルほどしかないはずだ。東世の言い方をすれば四ゴーン、あるいは八帰路キロとなる。

 幽霊雲の存在に気付いたとき、エルメとガレアはやや危険な細い道の上にいた。道の右手側は、崖っぷちというほどではないが、根雪で白んだ急勾配の斜面となっている。ここは夏でも背の高い草が覆い繁るため、常から誤って滑り落ちぬよう注意して歩くような場所だった。左手側は緩やかな山肌で、道幅が狭いのを歩きやすくするため人が故意に削ったのだろう。赤っぽい土がむき出しになっているが、エルメの目線より上は草木が多い。すぐに地滑りを起こしにくい条件が揃っているように見えるが、雪崩の危険までは計りかねた。

 エルメはガレアを励まし、雨が酷くなる前にその細道を突っ切ることを決断した。
 理天東鹿寺院りてんとうかじいんの近くにある山小屋まで引き返す手もあったが、そこへたどり着くには何度か川の近くを通らねばならない。その川がどれほど増水するかはエルメにもわからないが、ともかく幽霊雲が現れたら水から離れるように、とは、幼い頃から口を酸っぱくして言われてきたことだ。
 学院の方へ進めば、少なくとも河川へ近づかずに済む。

「エルメ、ごめんよ。ぼくはとても怖がりだから。ここで立ち止まって、悪霊が去るのを待っているのではだめなんだね?」
「いや。もしかしたら、ここでじっとしているのが正解かもしれない。でも、ここを抜ければもっと道が広くなるだろう。夜まで雨がずっと止まないかもしれないし、少しだけ頑張って進もう。何も見えなくなるほど雨が強くなったとき、ふらついて下へ落っこちるかもしれないから」

 ここから暴雨をかいくぐって学院へたどり着くのは難しいだろう、とエルメは言った。結局どこかでうずくまって雨をやり過ごすことにはなるだろう。しかし少しでも平らで拓けたところにいれば、多少は見通しも良いし、急に上から濁流や土砂が降ってきてもなんとか逃げられるかもしれない。

 黒い雲に怯え、濡れた土の上に膝をついてしまったガレアの右手を取り、エルメは両の手でぎゅっと強く握った。

「大丈夫、ほんの少し頑張るだけだ。そうだ、いいものを貸してあげるよ。わたしがずっと持っている魔除けの鏡」
「魔除けの……?」
 ガレアはか弱い声でエルメの言葉を繰り返した。

 エルメは襟の合わせの間に手を入れ、ごそごそと小さな金色のものを取り出す。首から提げていたものを懐に挟んでいたらしい。髪や着物が濡れてまとわりつくせいか、少々煩わしそうに首から紐を外すと、エルメは鏡面を伏せてガレアに差し出した。魔力の高い魔法使いは顔が映るものを苦手とするため、鏡を取り出すときは必ずそうする。

夏学生かがくせいになってすぐの頃に、サン先生がくれたんだ。わたしは冥裏郷の生まれだから、みんなの魂と少し違う。だから知狎はわたしの魂をちゃんと見つけられなくて、いざというときに守ってくれないかもしれない。そう心配して、知狎が見つけやすいようにって、サン先生が自分の魂を分けてくれたんだ」

 真鍮しんちゅうのような鈍い輝きを放つ手鏡のには、確かにサンのものらしい黒っぽい髪がほんの少し巻き付けられている。
「だからこれ、ガレア先生に貸してあげる。頼りになるのは神様だけじゃない。サン先生もきっと今頃わたしたちのために祈ってくれていると思う。悪霊からは逃れられないし、神様も助けてくれないかもしれないけど、サン先生の魂はここにいるんだ。だから今のわたしたちは二人じゃなくて三人。みんなで一緒に家に帰ろう」

 ガレアは目を細め、泣き出しそうな表情を見せたが、すぐに自分を奮い立たせるように顔を上げた。
「ありがとう。少しだけ貸してもらおう、怖がりのぼくにはぴったりだから。その代わり、エルメも絶対に離れてはいけないよ、ぼくからもサンからも」
「うん、わかってる。さあ、行こう。滑るから手を離さないで」

 エルメとガレアは互いに励まし合って走り、どうにか見通しの良い広い道まで出ることができた。この場所で幽霊雲をやり凌ぐという算段であったが、エルメはなぜか、説明しがたい不安のようなものを感じてならなかった。
 何が危険なのかすぐには思いつかず、考え込んでいる間にも、雨の勢いはどんどん激しくなってゆく。

「幽霊雲なんて暢気な名前のくせに。このおせっちん野郎」

 エルメが悪態をついている間も、せめて寒くないように、と、ガレアはエルメにかかる雨をけてくれようとしていた。どのような魔法かはわからない。なんとなく、エルメは透明な厚い布を頭から肩まで被せられているようだと感じた。そのためか、雨に遮られているのとは異なるがあり、何もかもがうっすらとぼやけて見える。

 少しの間だけ視界を良くできるか、とガレアに尋ねてみると、案外と軽い調子で「うん」と言う。

 すると、エルメの不安を掻き立てるものの正体が見えた。
 飛沫しぶきで霞んでいてよくわからなかったが、学院へ続く方の道の上に倒木が横たわっていたのである。幹の立派な大木ではない。しかし枝が多く、枝と幹との間に大きな水溜まりがいくつもできている。ガレアの魔法が長くは続かなかったため、エルメが目視できたのはそこまでだった。

「少し先に倒木があった。普段ならわたしでも頑張れば跨げるくらいの大きさに見えた。でもその木の周りにたくさん水溜まりができていて、もしかしたら幹に沿ってだんだん川みたいな水の流れができるかもしれない。そうしたらもう、これ以上あっちへ近づけなくなる」

 やはりここから動くことは難しい、とエルメは考えたが、ガレアは不安そうな声でエルメを呼んだ。

「ねえ、雨の勢いで倒れたのなら、他の木も同じように倒れて来ないだろうか?」

 言われてみればもっともな心配だった。しかしエルメは以前から、この辺りは地面が固いのだ、と聞いている。土を掘り起こそうとしても子どもの力では難しく、半分石化したような固い土しか取れない。鉄製の農具などを突きたてようとしても、透明な水晶のような石の塊が土に混じっていて、それに遮られてしまうのだそうだ。

 確かに、この山を豪雨が襲ったのは一度や二度ではない。度重なる大雨と長雨に、とうとうこの土も根負けしたのかもしれなかった。しかし、降り注ぐ雨の勢いだけで木が倒れるものだろうか。もしかすると、ここに生えていたものがただ倒れたのではないかもしれない。
 しかし、もし別の場所から流されてきたならば、この木を運んできた水流も見えたはずである。幹の周りには確かにまだ水溜まりしかなかった。

 ではこの木は一体、どこから来たのか?

 バン、と、土砂降りの雨音に混じり、どこかそう遠くない場所で異音が響いた気がした。エルメは反射的に頭上を見上げ、ガレアの手を取って叫ぶ。

「ニエ!」

 エルメの叫び声と同時に、まるで二人を狙いすましたかのように大きな塊が落ちてきた。
 それは折れた大木の枝であった。熊一頭よりもはるかに大きい。腐食した部分が雨の重さに耐えきれず、山頂付近からここまで落ちてきたのである。

 耳がおかしくなるほどの轟音ごうおんが辺り一面に響き、ずしんと地面が揺れる。しかし、ガレアはそれの振動には気づかなかった。

 上半身を揺さぶられ、何かが妙だとおそるおそるガレアが目を開けると、すぐ目の前にエルメの背中が見える。顔を少しだけ動かしてみたが、少し常より視線が高い気がした。

「ニエ!」
 首の後ろから杖を取り出しながら、まるで高らかに名乗りを上げるように、エルメがもう一度叫ぶ。
 ガレアが下を見ると、二人は色のない何かの上に跨がっていた。

 それは、水でできた大きな馬だった。

 エルメは一旦杖を口にくわえると、水の手綱を力強く握りしめ、位置を確認するように水のあぶみを踏みしめて立ち上がる。
 水の魔法でかたどった馬ならいななきはしないはずだが、ガレアには不思議と、馬がブルブルと鼻を震わせる音が聞こえた気がした。


  * * *


 ガレアは自分のことを怖がりだと言った。それは彼が臆病だからではない。天災のないかつての穏やかな世こそ、東世本来の姿だと知っているからである。

 彼らが雨を異常に恐れる感覚は、エルメにとってにわかに理解しがたいものだ。それでも、ガレアが恐れ、怯える気持ちをないがしろにしたくはなかった。そんなものは怖くなんかない、と一蹴することは、彼らの信仰に唾を吐くことに似ている、と思う。

 エルメには東世の信仰を理解することは難しい。例えこの世界でエルメだけが神から愛されなくとも、おそらくさほど悲しくはないだろう。だがエルメには、東世の人々への愛着があった。

 彼らはエルメとメルを『外国人』と呼ばない。差別もしないし、変だと言って責めることさえしない。庇護ひごされるべき弱き子らとして、当然のようにエルメたちを受け入れてくれた。エルメは彼らに自分のことを否定されたことがなく、それはなぜかと問えば「誰の魂も傷つけてはいけないから」だという。
 エルメの目に映る東世の人間は、皆あまりに無垢で暢気だ。まるで箱庭育ちの世間知らずか、はたまた愛されるためだけに生まれてきた仔犬のようだ、と思うこともあった。

 そんな魔法使いたちを、エルメは幼い頃から今までずっと、敬愛してやまないのである。

 右手に杖を持ち直しながら、エルメは叫ぶ。

「わたしには悪霊を恐れる気持ちが足りなかったみたいだ! こんな山の中に安全な場所なんか、ないよな!」

 さほど手綱を動かしているようには見えないが、エルメはガレアが感心するほど器用に水の馬を乗りこなす。軽々と倒木を二本跳び越え、一度馬は窮屈そうに首を振ったが、エルメが何度か首を擦ってやると、少し落ち着いたようだった。それを見計らい、エルメは右足を使いドンと馬の腹を叩く。エルメの合図を受け取り、水に浸かった泥道をものともせず、大きな馬は全身を躍動させるようにして駆け出した。

「一か八か、このまま走って帰ろう!」
「ぼくは構わないけど、前が見えるの!」
「全然見えない! 実はさっきからずっと、雨が入るから目を閉じてる! 記憶を頼りに勘で走ってるだけ!」
 風と水の音に声がかき消されるため、自然と怒鳴りあうような会話になった。

「じゃあ、なるべくぼくがきみの目の役をしよう! しかしエルメ、この馬ちょっと大きすぎないか! ぼくは小柄な子が好きなんだけど!」
「この子は『からくないおいしい鹿しかカレー藤京とうけいちゃん』だ! 鹿カレーちゃんは、理天学院の馬の中で一番でかくて勇敢だろう!」
「なるほど! じゃあ仕方ないね!」

 エルメたちが鹿カレーちゃんと呼ぶ馬は、去年学院の馬小屋で死んでしまった。学院へ寄贈されたときからすでに高齢だったらしい。水の魔法では毛色まで再現されないが、本来は逞しい黒鹿毛くろかげの馬である。
 幼子が集う学院へ寄越されるだけあって、鹿カレーちゃんは辛抱強い性格の馬だった。少し意地悪で気難しい点もあったが、どんなに嫌なことをされても、彼は決して小さな子どもを振り落としたりしなかった。

 初めてエルメが乗せられた馬も、この鹿カレーちゃんである。辛抱強い者同士で何か感じるところがあったのか、この鹿カレーちゃんはエルメのことを気に入ったようだった。ユノンがエルメに乗馬の練習をさせる際、エルメを抱えて他の馬に乗せようとすると、鹿カレーちゃんはそれに嫉妬し、幾度となくユノンの髪を歯でむしった。

 だからエルメの相棒は、長らくこの鹿カレーちゃんただ一頭だったのだ。彼の癖も、嫌がることも、喜ぶことも、得意なことも、勇猛で優しいことも、エルメは誰より熟知している。

 魔法の源は魂だ。だが想像力がなければ、どんなに強力な魔力を持っていても使いこなせない。エルメにとって最も想像しやすく、かつ自在に操ることができる強靭な生き物といえば、この鹿カレーちゃんに他ならなかった。

 ガレアもかつて鹿カレーちゃんに髪を毟られた経験があり、馬小屋へ入るのが少し怖かった時期がある。しかしながら、鹿カレーちゃんの走り方は慎重、あるいは丁寧なのだろうか。なかなか悪くない乗り心地だ、とガレアは感じた。

「ハヤ、ハヤ!」
 エルメのように馬上で右手を離すことができず、杖は出せなかったが、ガレアは可能な限りエルメの視野を広げてやる。
 最初は雨粒を消そうと躍起になっていたが、すぐに考えかたを変え、行く手に次々と細長い屋根を連ねる方法に替えた。どちらにしろあまり先の方までは見通せないが、エルメの腕ならばきっと、すぐ目の前に危険が現れても、手綱一つで鹿カレーちゃんを瞬時に反応させられるだろう。

「ニエ!」

 ガレアがそのように想像していたそばから、エルメの呪号じゅごうとともに鹿カレーちゃんが大きく跳躍した。浮遊した状態のままガレアが下を向くと、茶色っぽい岩、あるいは粘土質の大きな泥の塊のようなものがあり、それを避けたのだとわかる。
 エルメは晴れている日の土の道や、散歩の時に通る草の上を想像しながら鹿カレーちゃんを走らせていた。そうでなければ、泥に脚をとられて動けなくなってしまうのだ。実際の鹿カレーちゃんは、前も見えず足場も悪い暴雨の中を、これほどの速さで走れないはずである。

 エルメは疲弊していた。幸いにも神経が昂ぶり、今のところ苦痛は感じずに済んでいるが、疲労が蓄積していることはなぜかわかる。
 これほど集中することはそうそうないからだろうか。いや、そんなことはない。鹿カレーちゃんをかたどり、操ることに消耗しているのだ。やっていることは単純だが、扱うものが大きすぎた。だから体力も魔力もこれほど消耗している。
 しかしエルメは自らの疲弊感を無視した。エルメの想像が、あるいは集中が途切れた途端、鹿カレーちゃんは一瞬で崩れて消えてしまう。ガレアを乗せているのだ、どうしてもこのまま先へ進みたい。

「橋! 少し先に逢瀬橋おうせばしみたいなのが見える! もう、あと少しだ!」
 エルメは金切り声でそう叫んだが、ガレアにその声が届いたかはわからない。雨はいよいよ凶暴さを増し、エルメには水の音以外何も聞こえなかった。先ほどまでは多少木々が二人を守る役割をしてくれていたが、森の中をいっきに駆け抜けて、もはやここはただの高原である。しかしそれは、理天学院の敷地がもう目と鼻の先であるという証でもあった。

『逢瀬橋』は河川を渡るための橋ではない。数年前に地滑りを起こして道が削れたため、これからは安全に歩けるように、と、くぼみ、ひび割れてしまった地面の上に橋を渡したのだ。
 エルメは少し安堵したが、まだ気を抜くわけにはいかない。

「ハヤ!ハヤ!」

 わざと普段使わない呪号を叫び、エルメは自らを鼓舞こぶした。
 青の国あおのくにの呪号は大声を張り上げて魔法を使う漁師や羊飼いが発展させたという。魂を奮い立たせる情熱の言葉だ。

 鹿カレーちゃんは流星のごとく逢瀬橋を疾走した。
 もう少し、あともう少しで帰り着く。
 エルメはそれまで決して気を抜かなかったが、気持ちが逸ったせいか、ひとつだけ間違いを犯してしまった。
 橋のたもとに、大きな水溜まりがあるのが見える。疲れ果てて、もうまともに考えることができなくなっていたのかもしれない。

「鹿カレーちゃんは水溜まりが大嫌いだった。無理に跳び越えさせようとすると、ちょっと悲しそうにしてたな」

 つい、そう思ってしまったのである。
 エルメがしまったと気づいたときにはもう遅かった。鹿カレーちゃんは水溜まりの前で脚を止めると、かつてそうしていたように、大きく身をよじる。

 エルメとガレアは暴れる鹿カレーちゃんから振り落とされないよう彼にしがみつこうとしたが、水の中に指が食い込むばかりでなすすべがない。
 怯え、橋の外へ飛び出そうとする鹿カレーちゃんを、すぐにただの水へと戻してしまえば良かったのに、エルメは動揺し、鹿カレーちゃんをついいつものようになだめようとしてしまった。

 エルメの集中はそこで切れた。鹿カレーちゃんはただの水流と化し、落ちるようにざっと流れて、その姿を失う。エルメとガレアも水に押される形で橋の下へと放り出された。
 エルメはそこでようやく、苦痛を伴うほどの強い疲労感を思い出す。体力も、気力も、もはや限界に近い。
 雨水が目に入るせいか、それとも疲労のせいか、目も満足に見えず、自分とガレアが今どのような状態になっているのか、もはや正確に判断することはできなかった。

「南瓜のスープ」

 なぜか、エルメのすぐ近くでガレアがそう呟いたのが聞こえた。小さな声だったはずなのに、やけに明瞭に聞き取ることができたのがおかしくて、今すぐ眠ってしまいそうなほど疲れているというのに笑ってしまう。
 常々東世の人を暢気だと思っていたが、自分も案外、同じくらい暢気なのかもしれない。ずぶ濡れになってあれほど重たく感じていた衣服や靴が、不意に軽く、暖かくなったように感じる。眠気がとても心地良く感じて、エルメはそのまま目を瞑った。

「こら! ここで寝るな!」

 誰かに首根っこを掴まれて無理やり揺さぶられ、エルメは少しだけ眠りから覚醒した。
 こんな雨の中だというのに、なぜかすぐそばで大勢の人々が歌っているのが聞こえる。理天の童歌だ。もしかすると、五十人近くが歌っているかもしれない。
 一体、どうして。いや、どこにそんな群衆がいるというのか。

 ようやく周囲の様子がおかしいことに気づき、エルメは我に返って目を開けた。

「エルメ、大丈夫かい」
 心配そうにそう言いながら、エルメの口の周りに付いた泥を服の袖で拭ってくれたのはガレアだった。では、今エルメの身体を背負って歩いているのは、誰だ?

 ユノンだろうか。いや、違う気がする。

「こんなに近くまで来ているとは思ってなかった。よく頑張ったな」

 どうやら褒められたらしい、と、エルメは少し遅れて理解した。

 そういえば、この声に褒められると、エルメは無性に胸を張りたいような誇らしい気分になるのだ。ああ、そうだ、ロッカの声だ。そうか、ロッカが迎えに来てくれたのか。

 それがわかった途端、こんどは安堵の涙で視界がぼやけた。
 大勢の人々の歌声は未だ鳴り止まず、まるでエルメたちの帰還を祝福するように響き渡っている。

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