凱歌のロッテ 《エルメハヤ戦記》

初雪

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一章 エルメの冬

(六)嘘つきと星読み

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 怒りに任せてメルを叩いたあと、エルメはメルと引き離され、ライヒの家で数日を過ごした。

 ライヒは学院でもそうだが、家でも両親や兄によく甘える子だった。彼女にとって甘えることはではないようで、エルメが見ていようがいまいが関係ないらしい。

 メルもよく人に甘える。エルメはかつて、勉強や塾の宿題をしているときに限って甘えてくるメルのことを鬱陶しがっていたが、どんなに邪険に扱っても懲りずにまとわりついてくるのがとても不思議だった。自分の弟はばかなのだろうか、とさえ思っていた。

 七歳のエルメの目から見ても、ライヒはとても気持ち良さそうに甘える。ライヒは「くっついて」とか「このお人形に可愛いって言ってあげて」とか、どうしてほしいかを具体的に言うので、甘やかすほうも楽そうだな、などと思いながら、エルメは彼女の様子を眺めていた。

 それに引き替え、メルは大声で「ねえねえ」と気を引こうとするくせに、うるさい、なんだ、と返せば、黙ったままニヤニヤしていたりする。やはりばかなのかもしれない。

 夕食後少し遊んでから布団へ入り、ライヒが寝てしまったあと、エルメはユノンや学院のことを思い出して少しだけ泣いた。

 ひとしきり泣いたあと、メルのことでひとつ思い出したことがある。
 メルはいつも、わざと母を怒らせるようなことばかりしていた。母がメルを叱りつける声がエルメは苦手で、メルが軽率なことをするたび、エルメは自分も怒られるのではないかと怯える羽目になる。だから幼い頃のエルメは弟を好きになれなかった。

 あるとき、母はメルをエルメと同じバレエ教室に通わせようとした。ところがメルはこれをひどく嫌がって、身をよじって泣き叫び、エルメが呆然とするほどそれはそれは激しく暴れたのである。さすがに母も諦めたのか、メルはそれ以後、バレエも水泳もピアノも、どんなお稽古へも行かないことを許された。

 エルメは急に不思議に思う。なぜ自分は、嫌なことを嫌だと思いながら何年も続けていたのだったか。

 怒られるのが怖い。怒られたくない。エルメはただそれだけを考えていた。何か言えば怒られると思ったから「やりたくない」と言わなかったし、「やめたい」とも言わなかった。

 だがメルは違う。神にも等しい存在であった母に向かって毅然と主張し、そして母に勝った。
 考えてみればとても単純なことである。がおかしいのは、エルメのほうではなかったか。

 メルを叩いたのは、やはり理不尽だった。
 そう悔いて、エルメは再び涙をこぼしたが、のちに学院で再会したメルはやはりへらへらと笑ってエルメにまとわりついてきて、少し鬱陶しかった、と記憶している。


  * * *


 ひどい頭痛でエルメは夢から覚めた。どうやら頭の先まですっぽりと布団を被って寝ていたようで、少し暑い。もぞもぞと顔を出すと、寮館内にある自室の寝台で眠っていたようだとわかる。ふと、傍らであぐらをかいている人物が目に入った。

 一瞬、ロッカだ、と思ったが、よく見るとメルだった。

「うわ……おにいそっくり……」

 思わずぼそりと呟いてしまう。
 体格もそっくりだが、手を動かす作業に没頭しているときの口を尖らせた横顔が、いっそ不気味なほどロッカによく似ていたのである。メルはその声でエルメが起きたことに気づき振り返ったが、安堵するような呆れるような、絶妙な表情をして見せた。

「おまえ、他に言うことがあるだろ。おれに聞きたいこととか、山ほどあるだろ」

 それは確かに、そうかもしれない。なにせ、エルメの記憶はおぼろげで、どこからどうやって自室へ戻ってきたのかまったく覚えていなかったのだ。結局、雨の中をロッカに背負われてきたのだったか。それさえも曖昧だ。一体いつから寝ていたのだろうか。

「メル、ガレア先生は?」
「元気だよ。歩けるし、熱もないし」

 言いながら、メルはシャートが用意した熱冷ましの薬と、小さく刻まれた果物が載った皿を取り出して見せた。なるほど、この頭痛やのどの渇きは熱のせいか、とエルメは得心する。

 木皿にどっさりと盛られた果物は白虎枇杷びゃっこびわという。皮も実も白っぽく、まるで桃や柿のように大きい。冥裏郷めいりきょうで枇杷と呼ばれるものとは似ても似つかないが、エルメはどこか洋梨を思わせるこの果物が昔から好きだった。
 すぐにシャートの薬が効いて頭痛は和らいだが、薬は空腹感までは治してくれない。

 甘くて柔らかい果肉を口に含みながら、エルメは幽霊雲ゆうれいぐもから逃げてきた経緯をメルに話した。途中、エルメの様子を見に来たユノンも加わり、改めて逢瀬橋おうせばしまでの道のりを語って聞かせる。

 しかし、そこから先は夢だったのか現実だったのか、どうも判然としない。なかでももっとも不可解なのは、ロッカがエルメたちを迎えに来た際、どこかそう遠くない場所で大勢の人々が歌っていたことである。

 まったくもってわからない、というのがなんだか少し悔しくて、エルメはやや拗ねたような口調でユノンに問う。

「あれはなんだったんだ? わたしたちは誰の魔法に助けられたの」

 エルメの問いには答えず、どこか楽しそうにユノンは両手の人差し指を左右に振っている。エルメが怪訝な顔で首をかしげると、ユノンもつられたように首をかしげた。

「あれ、わからなかった? あれは『クワイア』だよ」

「クワイア」は、かつてユノンが発明した魔法である。
『指揮者』が人の歌声を魔力に転換し、強力な魔法を使うことをいう。歌う人間が多ければ多いほど良いが、指揮者も歌い手もほとんど魔力を消費しない。ユノンはその点に着目し、魔力の弱い者、つまり幼い子どもの声を研究してクワイアを大成した。

 学院の子どもたちがクワイアを面白がるので、普段は正門に提灯ランタンを灯すなどの雑事にもこれを利用する。
 かつて、あの逢瀬橋の建設の際も、理天学院は少しばかりの手伝いを申し出た。
 そのときは指揮者が大工ではなくユノンであったため、ごく単純な作業しかできなかったのだが、それでもたった十数名の子どもたちが馬一頭分より重い木材や鉄を運搬したのである。

 当初この魔法は『歌楽能かがくのう』といったが、エルメとメルが合唱を指して「クワイア」と言ったのをユノンが気に入り、今やすっかりその呼称が定着している。

「なら、わたしたちはあの歌声に助けられたのか」
 それでもエルメはまだ納得がいかない。いるべきはずの群衆が、影も形も見えなかったからである。それに、学院の中にいる人間をすべてかき集めたよりも、さらに多い人数でなければあれほどの声量にはならないだろう。

 エルメが眉根を寄せて唸っていると、シャートが二杯目の白虎枇杷を持って部屋へ入ってきた。

「お薬効いてる? お腹が空くでしょう。はいこれ、おかわり。まだまだあるから、たくさんお食べなさい」
「お腹は空いてるけど、なんだってこんなに沢山……」

 そこまで言って、エルメはシャートから受け取った皿を持ったまま固まった。
 自分たちをあの無慈悲な悪霊から守ったものというのは、まさか。

「あれは……この枇杷か?」

 メルとユノンはすぐには答えなかったが、目を合わせ、悪戯っぽく笑った。


  * * *


 少し前の夏頃のことである。調理場で姉弟が夕食の片付けをしているとき、突然エルメが妙なことを言い始めた。

慈慈果じじかで合唱隊を作ったら、クワイアが使えるかな」
「なんだって?」
 メルは素っ頓狂な声をあげてエルメを振り返った。本当に意味がわからない、という顔をしている。

「声を吹き込むだけなんだから、慈慈果を歌わせることはできるだろ。それを並べて置いて指揮者を用意したら……でも慈慈果には指揮者が見えないし、やっぱり人の声みたいにはいかないかな」

「それ、面白そうだねえ」

 食堂のほうからユノンが口を挟む。この頃には、エルメとメルが夕飯の後片付けをし、ロッカを含む常駐教師らに労わりを込め、飲み物や果物を用意してから退がるのが日課となっていた。

「慈慈果は鳥が喋るのと同じでね、吹き込んだときとちょっと違ったふうに喋るんだよ。今のをもう一回言ってみてって言われても、毎回ぴったり同じ声にはならないでしょ。それと同じなの。
 それに、見えないとか聞こえないとかは、クワイアにあんまり関係ないみたい。声が出ない人が歌い手の場合でも、同じ目的を共有して歌おうとすればクワイアが機能したことがあったからね」

「じゃあ、できるかもしれない?」
「できるかもしれない。やってみないとわからないけど、それはぼくも考えたことがなかったし、いつか試してみたいな。慈慈果は声を吹き込んだ本人の一部みたいなものだから。すごく人に近いものなんだよ。だから『慈しむ心を持つもの』という名前なの」


   * * *


 メルたちに包丁を差し出したユノンは、張りつめた糸が切れる直前のような、鬼気迫った表情をしていた。彼の瞳を見て、不思議とメルはあの夏の夜の会話を思い出したのである。

 そう、慈慈果を作ればいい。幸いにも、ここは食料庫ではないか。
 そしてトキノがいる。かつて、彼の歌声には数人分の力があるかもしれない、とユノンは言っていたのでないか。

 トキノの歌は、朱雀すざくで学ぶようになってから劇的に変化したが、本質は昔から変わらない。彼の歌を聴くと、誰もが目に見えないものを見る。感じないはずの匂いを想起し、経験したことのない感情が湧きあがってくることさえあった。

 想像の力は魔法使いにとっての『肝』だ。トキノの歌は多くの人間の魂を揺さぶる。しかし実は、このときトキノ自身も想像しているのだ。彼自身が誰よりも歌に思いを馳せ、声を用いて細密に歌を描いてやらなければ、他の誰かにその歌の姿を見せてやることはできない。

 だからトキノの声は、他の誰より強いのだ。メルの歌声を小さな火と例えるなら、トキノの歌声は燃料を内包した炎であるという。彼の歌は想像の力そのものであり、指揮者へも、周囲の人々へも影響を及ぼし、周囲の人間を巻き込んで大きく燃え上がる。

 慈慈果が人に近いというなら、そして慈しみの心を届けるものならば、トキノの歌声で作った慈慈果のクワイアは、甚大な力を発揮する可能性が高い。

 メルたちは倉庫にあった果物をすべて床に出した。固すぎたり小さすぎて使えないものもあったが、それでも八十個以上の慈慈果が作れそうだった。

 それらすべてに包丁で傷を入れ、トキノが歌を吹き込む。彼は神へ祈る歌ではなく、昔から馴染みのある理天の童歌を選んだ。しかし、何十回も歌っている暇はない。だからユノンは強引にトキノの歌を
 どうやったのかメルにはよくわからなかったが、とにかく、ユノンは力技で十数個、最後には三十個以上もの果物にトキノの歌を吹き込んだのである。

 クワイアはもともと魔力がほとんどない人間が使うことを想定しているため、決して難しくはない。指揮者に関しては専門的な知識が求められる場合があるが、歌い手はその限りではなかった。しかし、指揮者と歌い手が明確な目的を共有して協力すれば、クワイアの威力を増長させることができる。

 今回の目的は、エルメとガレアを守ることと、二人を学院まで連れてくることの二つである。特定の手段も段取りもない曖昧な目的だが、それでもトキノは二人を想って歌ってくれた。

 問題は指揮者の方だ。
 メルは、ユノンがこの大量の慈慈果を二人のもとへ運ぼうとしているのかと思ったが、それも少し無謀なように感じる。指揮をどうするのか、と問うと、あっとトキノが声を上げて青ざめた。

「なんだ、どうしたんだ?」
「ぼく、うっかりして……ごめんなさい」

 トキノはうろたえながら何度もユノンに謝る。
「どうしたの、トキノ。何がだめだと思ったの?」
「目的のことは頭にあったんだけど、エルメたちを助ける様子をはっきりと想像しようとして」

 トキノは少し口ごもり、申し訳なさそうに背を丸める。

「それでぼく、エルメたちが助かる様子じゃなくて、助けられてる様子を想像してしまったの。つまり、ぼくの頭の中では……ロッカがエルメたちを迎えに行って助けていたんだたった一人で、勇敢に雨の中を走っていくの。歌劇みたいに」

ユノンは頬に手を当てながら、なるほど、と軽い調子で呟いた。
「じゃあ、そうすればいいよ。トキノの想像したほうに合わせよう。さあ、慈慈果に名前を書こうか。半分に分けて」

 トキノはすっかりしょぼくれている。トキノの身長はとっくにロッカを追い越していたが、ロッカには、まるで幼かった頃のようにとても小さく頼りなく見えた。
「ごめんロッカ、本当にごめん」
「いや、いいけど……」
 そうは言ったものの、やはり気になる。

「なんでおれなんだよ」

「なんでってことはないけど、ロッカっていつもそうだから」

 そんなことはなかった、と言いそうになったのを、ロッカはぐっと堪える。どう考えても自分には荷が重いが、ここまでお膳立てされては肚を括るしかない。この慈慈果がすべて無駄になることなど、ロッカも望んではいないのだから。

「じゃあロッカ、この半分を持って行って。何回かに分けて開けながら進むといい。メルたちに残り半分を任せて、ぼくはロッカの持っているぶんをここから指揮するから。あとはよろしく! 、行っておいで」

 ユノンはお遣いを見送るときのような声音でそう言うと、どんとロッカの両肩を押した。


  * * *


「誰かーもっと柿食べたいひと~。枇杷もまだあるぞ~」
「死屍累々だな。慈慈果のジゴクみたい」

 エルメがユノンたちとともに食堂へ入ると、長卓の上にどっさりと慈慈果が載っていた。全部で三十個近くはあるだろうか。ロッカはエルメに気づくと、いつもとまったく同じ微笑みを向けて片手を上げた。

「お、おはよ。こんな時間に目が覚めたんじゃ、このあと寝れないんじゃないか」
 確かに、外はもうとっぷりと暗い。雨はまだ降っているが、エルメが寝込んでいる間に弱まり始めたという。このまま長雨になる可能性はあるが、見知った顔が一つ屋根の下に揃っているということが、皆の恐怖心を和らげている。

 怖いからなるべくみんな一箇所に集まろう、と提案したのはライヒだという。エルメも悪くない案だと思った。寮館住まいの子らも、雨が弱くなったときを見計らって移動してきたらしい。賑やかな食堂の中には、ガレアの姿もあった。

 ガレアはどこか恭しく、そっとエルメを椅子へ座らせた。何度も名前を呼び「ありがとう」と繰り返しながら、エルメの両頬をそっと撫でる。

「そうだ。きみに大切なものを返さないとね」

 そう言って、ガレアは山中でエルメから預かった手鏡を取り出して見せる。
「あ、それ」
 ユノンが声を上げたので、ガレアはうんうんと頷きながら、嬉しそうにユノンに説明をし始めた。
「これはサンがエルメのために用意した魔除けの鏡なんだって」

「あたしが? そんなのやったっけ」

 少し離れた場所に座っていたサンがそう呟くのを聞いて、ガレアは「えっ」と驚いて目を見開いた。

「見せてよ……ああ、これね。ユノン先生が持たせたやつじゃない。これって魔除けなの」
「魔除けじゃないですよ、防犯です。ないよりいいでしょ」
 ガレアはさらに困惑した。すっかり困り果てた様子で、手に持った小さな鏡を見つめている。

「じゃあ、この黒い髪は?」
「髪じゃないですよ。ほら、あの『からくないおいしい鹿しかカレー藤京とうけいちゃん』の遺髪……いや、というのかな」
「遺たてがみ」
「あんた、一体なんだと思ってたの?」
「いや、きみがエルメに魂を分けたとか、知狎ちこうが……ええ?」

 ガレアは混乱しきった様子で、問うようにエルメを見た。サンとユノンもそれに倣い、怪訝そうにエルメの顔を見つめる。
 じりじりと詰め寄られているような気はしたが、エルメは悪びれない。他人事のように澄ました顔のまま、べっと舌だけを出した。

「嘘も方便」


  * * *


 第二月十一日、メルの誕生日は昼頃から天候が回復し、人々は歓喜に湧いた。代わりにかなり冷え込んだが、雪崩の恐れがある理天区では、変に暖かいより都合が良いと考える人が多いようだった。寒さも『恵み』のうちである。

 ロッカは当初、夕飯とともに特製の甜甜華ケーキを用意する心算こころづもりであったが、トキノとライヒが今夜は家族のいる家へ行きたいというので、それに合わせて少し早めのお披露目となった。

 薄紫のような、淡紅のような美しい色のチーズをまとったケーキは皆を喜ばせたが、特にメルの喜びようは凄まじい。食前と食後、踊ってくる、と外へ出てしばらく帰ってこなかったほどである。

 しかし、エルメはその場に居合わせなかった。
 昨日の晩、一度は起きたものの、夕食後、再び寝込んでしまったのである。シャートの見立てでは、やはり魔力の消耗が原因だという。エルメはもともと魔力の強い方ではないが、魔法を使いすぎて体調を崩すのは初めての経験だった。

 熱はないし、風邪のような苦痛はない。しかしなぜか身体を起こす気にはなれず、それでいて頭がやけに鈍くなったような、妙な感じがする。

 トキノとライヒは帰り際、少しだけエルメの部屋に顔を見せてくれた。

「あたし、またすぐに来るね。エルメが元気になった頃に」
「ぼくも……少ししか会えなくたって、もっと来るようにする。今年も来年も、何度だって会いに来るから。一回だめになったぶんを取り返すのなんてすぐだよ」

 再会の約束を交わし、二人はそれぞれの帰路についた。彼らの家族も、これでようやく安堵できるだろう。そう思いはしたものの、部屋に一人残されたエルメは、やはり寂しさを感じてしまう。が、それを見計らったように、今度はユノンが部屋を訪れた。

「あんまり話ができなくて残念だったね」
 そう言いながら、ユノンは脚を放り投げ、床の上に適当に座った。そうすると、寝台に寝転んだエルメとちょうど目線の高さが同じくらいになる。エルメは寝そべったまま「うん」と頷く。

「寝込んじゃうなんて、本当に頑張ったんだね」
「うん、結構」
「ぼくは、エルメの魔法の腕も、機転の利くところも今では結構信頼してるんだ。だから他のみんなよりは心配してなかったよ」
「うん、わかってる」
「でも昨日はエルメ一人じゃなかったから、無茶をするかもしれないと思うと、ちょっとだけ心配だった」

 そう言われると、なんと返したらいいものか困る。エルメはどこかで選択を間違えただろうか。

「ごめん。本当は、無茶をしてくれてありがとうって言わなきゃいけないんだけど。エルメはいつも自分よりひとのために頑張ろうとするから」

 エルメは心外そうにユノンをねめつける。
「わたしはそんなにお人好しじゃない。ユノン先生だって、ガレア先生のためにだったら多少の無茶はするだろ」
 それには反論する気がないようで、ユノンは子どもっぽく口を尖らせて黙り込む。

 そう、エルメはあの時、単なる『お人好し』ではなかった。

「……いつもはあんなに頑張れない」
「うん」

 今度はユノンが相槌を打つ。

「死ぬ気で無茶したわけじゃない。死なないために頑張ったんだ」
「うん」
「それに、ガレア先生のためだけじゃなかったんだ。こう、もっと……」
 エルメは考える。あのとき何を想ったのだったか。なぜ、あんなにも、エルメは魂を奮わせたのだったか。
 そういえば珍しく、普段使わない青の国の呪号じゅごうを叫びもした。「魄奮ハヤ」の響きは理天の風景にとてもよく似合う。

「……そう。研究士になったら、わたしでも少しは法師たちのお役に立てるかもしれないと思っていたんだ。少なくとも。それがただ楽しみだった」
 ユノンは何も言わなかった。エルメの言葉を待っているのか、微動だにせず、背を丸めてエルメの顔をじっと覗き込んでいる。

「昨日はどうしてか、今までのことを色々思い出した。その中で、何かが腑に落ちた感じがした。なんだか急に、東世とうぜが好きだと思ったんだ。あのときわたしは……気持ちだけは、ガレア先生を守るのじゃなくて、東世の人たちを守るんだって、ばかみたいに志が高かった」

 そう言って、エルメは少し笑った。

「追い詰められておかしくなってたのかもしれない。でも、やっぱりわたしは、研究士になろうと思う。昨日からぼんやりと考えてたんだ。わたしが研究士の仕事を頑張れば、東世の人を助けられるかもしれない。わたしはそういう仕事がしたいな。ハイデの言葉を借りるなら、今はちゃんと

 ユノンはそろそろとエルメに近づくと、やや遠慮がちに、その頬をつまんだ。

「……それを今やるか? どういうムウムウなんだ、それ」

 文句を言いながら、エルメは邪魔くさそうにユノンの手を振り払う。
「だめだった?」
「だめじゃないよ、全然。だめじゃないけど、ぼくは前から言ってたでしょ。エルメは『嘘つき』だって……小さい頃からずっとそう。

 特にぼくには嘘をついてばかりだった。エルメはお腹が空いてても、疲れていても、めそめそ泣いてるときでも平気、平気、ってそればっかり。
 食べたいものも、欲しいものも、何を聞いても嘘ばっかりだった。ぼくにだってそれくらいわかってたよ」

 エルメは、顔から血の気が引いたような感覚がした。

 そうか。やりたくないことを我慢してやっていた、それだけではなかったのだ。
 大人の顔色を窺って、昔からエルメは『嘘』ばかりついていた。幼い時分のみならず、つい最近、今この瞬間まで、エルメはそのようにして生きてきた。情けない。自分のことを心底愚かしいと思ってしまう。

 本当のことを言う、ということが、エルメにはずっと恐ろしかった。
 怒られることも、嫌われるかもしれないこともどちらも怖い。ならば言わなければいいのだ、と、それを繰り返しているうちに、いつの間にか本心を隠して誰にも見せないことが、エルメにとって当たり前になってしまったのである。

 のような何かが溢れて出てきそうになるたび、エルメはそれを頑丈な鉄の箱に詰め、何度も何度も閉じ込めた。思えば、もはやエルメの本心は、エルメ自身にさえよく見えていなかったかもしれない。

 ユノンはどこか独り言のように、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。

「でも、エルメはもう嘘つきじゃなくなってたんだね。さっきはなんだか、エルメがぼくに魂を見せてくれたような、そんな感じがして、嬉しかった」
「うん」
「エルメが嘘つきだった理由も、ぼくは、なんとなくわかってたのに、ずっと役立たずだった。ごめん」
「いい」
「エルメはもう、これからどんな大人にだってなれる。きっとすごく素敵なひとになるよ。でも、自分の魂のことは、うんと大切にしてあげて」

 エルメは布団に顔をうずめたまま、うん、と答えた。


  * * *


「あ、星が出てる」
 部屋の風通しを良くしようと窓を開けたユノンが、瞳を輝かせてエルメを振り返った。上半身を起こして窓の外を見ると、普段より少し数は少ないが、確かに色とりどりの星が揚げられていた。
 ユノンは星を読むのがとても好きで、放っておくと朝まで外に立っている。

 月も太陽もない東世には、本来であれば星もない。ユノンが星と呼ぶものの正体は、星売りたちが空高く揚げた提灯である。それら一つ一つに星売りたちが様々な情報を書き込み、夜になるとそれを読むのが東世の人の日課であった。

 初めてエルメがそう聞いたときは新聞のようなものかと思ったが、紙製の新聞は別にあるし、最近はインターネットのSNSのほうが似ている、と感じる。

 エルメは身体がまだ重たく感じ、星を読む気になかったので、代わりにユノンに尋ねた。
「今夜は、災害の話題が多いんだろうな」
「うん、そうみたい。何か楽しそうな話は……あっ」
 何か大事なことを思い出したらしいユノンは、弾けたように両手で口を押さえる。

「エルメに、これをまだ言ってなかった! サン先生とガレア先生が、近いうちに結婚式するって」

 エルメは一瞬、唖然としてしまった。
「今までずっと、してなかったのか? 何十年もずっと?」
「してなかったんだねえ。でも、いつ死んでも悔いがないように、結婚式でも何でもやってみようって、二人とも今すごく張り切ってるよ。日取りが決まったら、星を揚げて報せるかもしれないね」

 エルメには、それはとても素晴らしい案のように思える。ガレアとサンの結婚式なら、お祝いに訪れる人々が溢れかえるに違いない。祝いの歌と踊りも絶えず、さぞ賑やかなことだろう。
 ロッカはまた大きくて美しいケーキを彼らのために作るだろうか。
 今度はエルメも、何か綺麗なものを作って彼らに贈りたかった。

「ねえ、良い報せだったでしょ」
「うん、最高の報せだ」
 エルメは晴れやかに笑い、ユノンの片頬にぺたりと手を添えた。


(二章へ続く)
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