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二章
(四)アサンの服と九識助
しおりを挟むライヒは目が覚めたその瞬間から機嫌が悪かった。心なしか、身体も重く怠い。今日は勉強をしない日にしようと決めこんで、しばらく布団を被っていたが、早朝の寮館の中はやけにうるさい。普段は気持ち良いはずの布団も、今日は肌触りが悪くていらいらする。
ああ、と嘆息して、ライヒは外套に手を伸ばした。幼い頃は自覚がなかったが、紫錦学院のトートン先生によると、ライヒは時たま聴覚や触覚が過敏になりすぎることがあるという。おそらく今日はそれだ。
重い身体を引きずって、ライヒはよたよたと寮館の裏に出た。足を引きずるように奥へ奥へと進めば、思った通り兄は畑に立っていた。アサンは根っからの農師で、たとえ休日であっても朝は大抵この場所で過ごしている。
「兄ちゃん」
あまり大きな声を出せなかったが、アサンはすぐにライヒを見つけた。
アサンの家は学院の中にあっても、寮館よりずっと静かだ。ライヒはようやく安堵し、兄が用意してくれた布団に潜り込み、目を瞑る。
途中、アサンに声をかけられ、朦朧としたまま布団の隙間から顔を出すと、しゃがんだエルメがこちらを見ていた。
「いい、起きないで。わたしも今日はここに泊まらせてもらうから」
ライヒはうん、とだけ言って、またぎゅっと目を瞑る。布団の外は眩しくて目を開けているのが辛かったし、漠然とした苦痛を伴う眠気にも抗えなかった。アサンとエルメが部屋から出ていく足音はほとんど聞こえず、ライヒの耳に届いたのはわずかに衣擦れの音だけである。
ああ、またやった。
わざわざエルメがここまで来てくれたのに「うん」だって。機嫌の悪そうな声で。いくら身体が辛いからって、あたし、もっとましな挨拶くらいできればよかったのに。でもエルメは兄ちゃんたちと同じで、こんなあたしのことを怒らない。
いつものように、エルメはライヒが起き上がれるようになるまで待っていてくれるだろう。今日がだめでもまた別の日、あるいは別の別の日に。
そう思うと、ライヒは少しだけ息をするのが楽になった気がした。
* * *
「出かけた先で怖い思いをしたから疲れちゃったんだろうね。ここ数日は良かったり悪かったりで、トートン先生の九識助の魔法もずっと使ってないみたいだった」
そう言いながらユッセは、静かな湖を思わせる薄青色の『流れ星』を切って皿に盛り、エルメの前に出してくれた。本来、流れ星は手紙のような役割を果たす道具だが、伝達の用が済むと「おやつ」となって食卓へ出される。
しかしユッセがエルメにふるまったのは、貰いものではなく流す前の流れ星だ。ユッセが自ら作った流れ星はいつも同じような色形をしていて、彼をよく知る者なら大体判別がつく。
アサンは先ほどまでエルメの後ろで飲み物を用意していたが、今は湯がぐつぐつと煮える音がするのみで、姿が見えない。
「アサンは?」
「何か取りに行ったよ。ああ、あの煮てるやつは気にしないで。何か作ってるんだって」
ユッセにそう言われ、エルメは以前アサンが作ってくれた果物の煮込み汁のようなものを思い出した。茶色っぽく濁っていて泥水のようだったのに、見た目に反して驚くほど美味しかったのでよく覚えている。
エルメがユッセと話をしながら流れ星を齧っていると、どこからかアサンも居間へ戻ってきた。両手に何枚も衣服を抱え、ほら、とそれをエルメに差し出す。
「まだ繕ってないから大きいが、好きなのを持っていけ」
「やだよ。アサンのお下がりは派手なのばっかりだ」
「ぼくもエルメちゃんに賛成。アサン、それ、ちゃんと見たのか?」
ユッセはそう言いながら、アサンから衣類の山をひったくる。納得がいかないかのようにアサンは少し首を傾げたが、空いた左手で自らの両の目の表面をすっと横に撫でた。
「……おや、本当だ。すまない、柄しか見ていなかった。すぐ戻る」
アサンは言葉通り、すぐに別の着物をたんまりと持って戻ってきた。こんどのものは意匠や模様こそ様々だが、エルメの好きな翠色や薄墨色が多いように見える。
「ほら見ろ、にいやはちゃんと覚えていただろう」
エルメはしばし着物の山を眺めていたが、すぐにユッセも混じって衣服の選別が始まった。ああでもない、こうでもない、と服を選び、合わせて、羽織ってみる。普段は野良着ばかり着ているアサンだが、彼の私服は奇抜な柄や派手な色のものも多く、面白い組み合わせを思いつくのも得意だ。
ユッセはアサンの私服を気障だとからかうが、本人は
「このおれが、おまえみたいな地味で色気のない服を着て控えめにしていたら、わざとらしくてかえって気障だろう」
と言って憚らない。
ユッセへの嫌味ではなく、案外本当にそういうものかもしれない、と、エルメは兄貴分の言い分を聞いて少しばかり思案した。
「じゃあアサンは、ユッセ先生に似合う着物はこの中のどれだと思う?」
エルメは、そう言えばアサンは張り切って服を選び始めるだろうと予想していた。しかし意外にも、アサンは「ない」と即答する。
「ユッセは自分の服を自分で選べる」
「そうだね。ぼくもこの中から選べって言われたら、裸で出歩くしかないかな」
ユッセがそう応えると、二人は声を上げて笑ったが、エルメは首をかしげる。
「じゃあ、にいやはわたしが服を選ぶのが下手くそだからいつもあてがってくれてるのか?」
「下手くそとまでは言わないが、エルメはよく迷うだろう。新しい服をやると必ず『変じゃないか』と聞く。だが無頓着と言うには好き嫌いが多い。どうしたらいいのかわからないようだから、少しばかり手伝うつもりで分けているのだ」
ふうん、とエルメは曖昧に頷きながら、横によけられた別の着物の山を見た。そちらはアサンがメルに用意した衣服である。その中には「ピンク色」のものも多い。幼い頃からずっとエルメが嫌いな色だ。しかしアサンには好みの色らしく、彼が最初に間違えて持ってきた衣服はほとんどすべてが「ピンク色」だった。
おそらくその色を嫌うエルメのために、わざわざ避けておいたのを誤って持ってきてしまったのだろう。
アサンは普段、あまり色がわからない。正確に言えば、区別をするのが難しい色があるのだという。
アサンがまだ理天にいた頃、彼はユノンから色を判別するための「九識助の魔法」を習った。だが着物を選んだり化粧を施して遊ぶとき、あるいは作物の色を確認するとき以外、彼はほとんどその魔法を使わずに過ごしているので、たまにああして間違える。
エルメは翠色の大きな着物を広げながら、ぽつりと漏らすように囁いた。
「九識助って、なんで九識助って言うんだろうな」
やや唐突な独り言だったが、アサンは「おや」と面白そうに反応した。
「それはユッセ先生に聞いてちょうだい」
エルメは思わず破顔する。理天学院ではシャートが「それはユノン先生に聞いてちょうだい」と毎日のように言っているが、アサンの口ぶりや仕草はシャートにそっくりだった。
青龍区出身のユッセは理天学院にさほど馴染みがないが、アサンのこの手の悪ふざけには慣れているらしい。彼も「そうだねぇ」と少し間延びしたユノンの話し方を真似したので、エルメはまたにやりと笑った。彼はもともとの相貌がユノンに似ているので、エルメにはその一言だけでも可笑しく感じる。
「九は、化粧師の道具箱が九彩箱と呼ばれているのと同じだよ。八より更に多い九つ、つまり『沢山の色』が詰まっている箱って意味だね。九識助、ただ九識ということもあるけど、これの場合は何が沢山なのかというと、知っていること、かな」
「知っていること?」
「うん。アサンの目で例えるなら、ぼくやエルメちゃんには見えていない見えかたを知っているということ。なにしろアサンの目に映るものはぼくらとはだいぶ違うみたいだからね」
「わたしとは違うふうに見えているから、そのぶんだけアサンはわたしより知っていることが多い……ということか」
「そう。でも別の意味の『九識』もある。例えばまったく目が見えない人は、こういう家は住みにくいとか、こういう仕組みは不便だとか、こういうものがあったら便利だとか、そういうことがよくわかる。案外そういうのって、当事者じゃないぼくらには想像もつかなくて驚くことが多いんだよ。だけど目の見えない人が見つけた便利なものが、まわりまわって様々な病気の人や足の悪い人の助けになったりするわけだけど、まあ、それはともかく。この場合は、ぼくらにはわからないし知らない困難や不便、痛みや苦労を知っているということだね。『九識』にはいくつか意味があるけど『九識助』は『困難を助ける』というそのままの意味だと思っていいはずだよ」
「それも白虎大学で習ったのか」
「玄武大だってば。若秋の頃はなんとなく主都に憧れたもんでね」
ユッセは謙遜するように苦笑いしているが、彼は非常に優秀な大学生だったとエルメは聞いている。だからわざわざ玄武の都からこの黒海学院に招かれ、あの珍妙な畑を緻密に管理しているのだ。
紫錦区北部、主に沿岸部は、昔から作物が育ちにくいとされる土壌である。そのため古くからそこそこ広大な土地が野放しにされていたが、それをいよいよ使えるようにしようという話になった。
そこで声をかけられたのが、当時玄武大学で地質を研究していたユッセだ。他にも適任者はいただろうが、青の国の者の伝手を辿ったため、自然とユッセに行きついたらしい。
紫錦の人々の念願は、紫錦北部を農師が活用できる土地にすること、あるいはかの地でも育つ作物を見つけることだ。そのため農師の立場からユッセを補助する者として、同じく黒海学院へと招かれたのがアサンである。
当時土質の良い理天の山で、家族とともに農師の仕事を大いに楽しんでいたアサンだったが、意外なことにこの誘いにはすぐ乗った。黒海学院には九識助の魔法が得意な先生がいるらしい、と以前から聞いていたためである。アサンは年の離れた妹のライヒを連れ、五年前に理天を離れた。
ライヒはアサンと違い、九識助の魔法を使っても使わなくても疲れるようで、よく具合を悪くする。また、九職助の魔法を使うと少し性格が変わり、どこか別人のようになってしまう。ライヒ本人も魔法を使うべきか否か、どちらが自分の魂のために良いのかを決めかねている節があった。
冥裏郷であればライヒを悩ませる様々な症状は平たく「なんとか障害」と呼ぶのだろうが、彼らの抱える困難はとても病名で一括りにできるものではない気がする。少なくとも、十年間理天学院で様々な人々を見てきたエルメにはそう感じられた。
生まれたときから持っているなんとか障害のあるほうが本来のライヒなのか、それを魔法で矯正したほうがより本来のライヒに近いのか。魂を健やかにするということは、その二択に答えを出すということだ。
生まれつき目が見えない人や耳が聞こえない人も、よほどのことがない限りは九識助を使わず生活していることがあると、エルメは聞いたことがある。不便でも疎ましくても、その状態のほうが自分にとって自然であるから仕方ないのだという。もしかすると、アサンが普段九識助を使わないのも同じような感覚からなのかもしれない。
しかしライヒの場合、矯正するのは手足でも目や耳でもなく、脳だ。魔法を使えば性格も、話し方も、表情すらも変わってしまう。そうやって不便を無くすことと引き換えに別人になってしまうことを良しとするかどうか、ライヒはここ数年ずっと悩んでいる。
少し前、エルメは「九識助の魔法を使うのはどれほど疲れるのか」とアサンに尋ねたことがある。アサンは、少し考えてから、ゆるく首を振った。
「おれの場合はそうでもない。今のところはな」
「じゃあ、一日中魔法を使ったまま過ごすこともできるのか?」
「できる。昔はそうしていた。エルメが来る前のことだから、本当に昔だが」
そう答えたあと、アサンは少し遠くを見つめるように目を細めていたが、腕を組みなおすと、ぽつりぽつりと言葉を続けた。
「シャート先生が理天学院に来てすぐ、おれの両親はおれの目のことを先生に相談したらしい。だから、ユノン先生からおれでも使える九識助の魔法を習うまでは、ずっとシャート先生に目を治してもらっていたんだが、あるときシャート先生に、自分の目のことを変な見えかたの目だと言ったら、おれの目も見ているものも変ではないと叱られた。おれが確かにそのように見ているのだから、おかしいと言うほうがおかしいのだそうだ。そのときは、なるほどそうかとしか思わなかったが、今でもときどき、ふと思い出すことがあるな」
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