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二章
少憩 ―玄武体術―
しおりを挟む「それ、喧嘩じゃないでしょうね」
「違うったら」
迎賓舎から出てくるなりそう問うフィオロンに、姉弟は口を揃えて否定をする。しかし、青の国発祥の『青龍体術』は、罪人同士の喧嘩から生まれた体術だというのだから見間違えるのも仕方ない。
東世で体術といえば玄武体術を指すことが多い。
玄武体術は弱者のための護身術である。おおよそ五百年前、黒の国で初めて体術に水の魔法が組み合わせられると『玄武発祥の体術』として、それは爆発的に東世全体へと広まった。
水は東世のどの地域にも豊富にあり、誰もがよく知るものだ。故に想像の力で生み出すことも容易い。知識と想像の力は魔法使いの要である。たとえ不安定で少量の魔力しか持たない者であっても、自在に操ることができる強力な『武器』として、水は最適のものだった。そのため、文字を習うより先に親から玄武体術を教え込まれる子も多い。
最初は水をぶつけ合うだけだった玄武体術は、時代が経つにつれ少しずつ洗練されていった。魔力の強い者も弱い者も、それぞれに有利な戦術を編み出すべく試行錯誤を重ね、それは今もなお続いている。
一方青龍体術を好む者は、卑屈なのか平明なのか「ばかでも勝てる」と謳っている。東世では、神に裁かれた者は瑕僧となり寺院に集められるが、彼らは罪を犯した罰として魂に瑕をつけられるため、身体が弱くなり一切の魔法が使えない。だから、瑕僧同士の喧嘩は純粋な力比べに近かった。
今日の青龍体術は、魔法で多少の細工を加えることが多い。身体の隅々へ巧く魔力を行き渡らせると、筋力を強め、瞬発力や腕力を向上させることができる。どんな体術でもまずはこれを徹底的に叩き込むのだが、青龍体術でもこの魔法のみ使用を認める場合が多い。が、両者合意の上、一切の魔法を禁じることもあるし、勝敗についての申し合わせも必ず最初に行う。
エルメとメルも、ろくに魔法を扱えないうちからユノンらに護身としての体術を教わった。
玄武体術が巧みな者は、総じて魔法そのものが巧い。自身の四肢や指先までもを自在に、そして細やかに操るということ自体が高度な魔法だから、自然とそうなる。
理天学院の教師曰く、玄武体術の訓練は「複雑で繊細な魔法を扱うための練習」なのだ。
しかし教師たち以上に「玄武体術や青龍体術の練習を日々疎かにするな」と姉弟へ口酸っぱく言うのは、冥裏郷と東世を行き来する研究士たちだった。
東世の人々にとって『未知の世界』である冥裏郷へ渡る研究士を務めるには、魔力が強く健康で、多種多様な魔法を扱える者が理想的である。新たな魔法を習得するため、彼らもまたそれぞれに努力を怠ってはいない。
「ところで、今年はジュゼ法師が大会に出られないそうですね」
姉弟の体術の訓練を見物しながら、フィオロンはやや唐突にそう呟いた。額や鼻に滲んだ汗をそれぞれ手で拭い、メルはエルメに軽い調子で尋ねる。
「そうなの? お忙しいのかな」
「それもあるかもしれないけど、去年は出場されたから、もともと今年は禁場のはずだ」
「ああ、そういうことか」
通常、玄武体術大会は各国で一回ずつ、一年に計四回行われる。同年にすべての国で武王の称号を得た天上武王は、翌年からは隔年での出場しか認められない。
「良いのか悪いのか、青の国ではジュゼ法師が出場されない年のほうが大会が盛り上がるのです」
「それはそうだよ。青武王になりたいなら法師が出ない年を狙わないと。おれだったら絶対そうする」
「うん。わざわざ十年以上負けなしのジュゼ法師と勝負して青武王になるなんて、文字通り骨が折れる」
姉弟はそう言って笑ったが、フィオロンは苦い顔をしている。
「おまえたちのような若い人たちがそう言って盛り上がるだけなら、可愛らしいことと言って済みますがね。いい年の学院派がやたらと元気になるのには頭が痛いですよ」
「フィオロン先生は寺院派じゃないの?」
「どちらかと言えば、という程度です。いずれ教え子たちが大会で活躍するようになれば、学院派に転向するかもしれませんねぇ」
東世にはいがみ合う派閥のようなものがあまり存在しないが、唯一あるとすれば学院派と寺院派の関係がそれだ。根底は「学院育ち」と「寺院育ち」の成人同士の対立であるため、学院内や寺院内でもそれは起こりえる。
近年、東世の人間は家や血筋に縛られなくなったため、生まれ育った地からあっさりとよその国へと移ってしまう。白の国で生まれ育ったユノンが青の国に居を移したのがまさにそれだ。
これは東世の人々が「国」と呼んでいるものが単なる地名にすぎず、実際に国家としては機能していないためでもある。一切制限を受けず、どこでも不自由なく住まえるから、人の流動が激しい。そのため『地域差』が薄まり、言葉も現在のアルカディア語へ統一されていった。土地ごとによる特色のようなものは、今や各地にほんの僅かしか残っていない。
もともと知狎を神と信仰している者同士、良くも悪くも『アルカディア人』には差異がない。おそらくは、わざわざ差異を設けて対立を煽ろうというとき、幼い頃に学院と寺院どちらで育ったかくらいでしか人を二分できなかったのだろう、とエルメは推測している。
大半の子どもは乳児の頃から学院の世話になり、やがて春学生となるが、学院へ通いながら何らかのお稽古や小遣い稼ぎのため寺院へ出入りする者も多く、寺院派のほうが数では若干勝るらしい。代わりに、大学の教壇に立つ者と大学生は問答無用で学院派となる、という奇妙な制約もあった。
「ジュゼ法師は出場されませんが、今年は二年ぶりにソンテ法師が出場されます。武王の代表格であるこのお二人は、どちらも寺院育ちですからねぇ。今はお二人と肩を並べられるような学院育ちの武王がいないのです。だからそろそろ、学院派武王の華やかな誕生が待ち望まれている、というわけです」
「そりゃ無理だな」
メルは屈託なく笑った。
「今年の大会は朱の国から始まって青の国が最後だもん。各国で出揃った武王が青の国で決戦する形になる。それでたまたまどこかの学院派の武王が勝てばいいけど」
メルの言葉にエルメも頷く。
「ソンテ法師が出場されるならそれは絶対にない。四つ国すべての大会には出場できないかもしれないが、調整して最後の大会にあたる青の国には必ず来る」
「さっと勝ってさっと帰っていくのが目に浮かぶよ」
「それでも天上武王に立ち向かうよりはまし、と青の国の学院派は言うのですよ」
フィオロンはやれやれと首を振った。
黒の国の武王ソンテはこれまで一度も大会でジュゼに勝ったことがない。ジュゼと同年代の者は俗に「不遇の世代」と呼ばれるが、これは黒武王ソンテの別称のようにも使われる。ソンテにとってジュゼは目の上のたんこぶで、彼女が天上武王として君臨している限りは二番手のままだろう、というのが世間の総意らしい。
しかし当人らに話を聞くと、意外なことにジュゼのほうもソンテとは「相性が悪い」と言う。
ソンテはジュゼが苦手な部類の戦術を用いるが、ジュゼは圧倒的な魔力でそれを圧し潰して勝つ。いつもそれの繰り返しなのだという。
だから互いに「やりあっても楽しくない相手」と認識しているようで、ジュゼはソンテが好んで出場する黒の国と白の国の大会へはあまり出場しない。
玄武体術で不思議と国ごとの個性が出るのは、呪号の差と考えられている。
例えば白の国の呪号「ニエ」は、発音しにくく大きな声で叫ぶのが難しい。四つの呪号の中で最も玄武体術に適さないと考えられてる。
そのため白の国は「玄武体術が弱い国」と多くの人々から思われているが、少なくともソンテは「そんなことはない」と主張している。むしろ彼にとっては好みの術士が多いようで、黒の国での大会を自主的に禁場する年は、代わりに白の国の大会へ赴くほどだ。恐れているのか嫌がっているのか、エルメたちはよく知らないが、白の国ではソンテのことを「白虎潰し」と呼ぶらしい。
白の国の伝統的な呪号である「ニエ」に字を当てると『魄沈』となる。
光を探してわざと闇の深いほうへ潜っていくように、より精巧な想像を目指すための呪号だ。集中や洗練を目指すこの考え方は黒の国と最も近い。ソンテが白の国の術士を好む要因の一つかもしれない。
白の国出身のユノンは青の国の玄武体術大会には出たことがないが、出てはいけないという決まりはない。かつて玄武大学に通っていたユッセは黒の国の大会へ出場したし、トキノも朱の国の大会へ出場したことがある。
彼らの場合は学院派の大人たちに促されるまま出場したに過ぎないが、高みを目指す者たちは「どの国の武王になりたいか」を基準に出場国を決めることが多いという。そうすると、自らの得意な呪号ともおのずと合致するのだ。
「おまえたちは同じおうちで育ったのに、得意な呪号が違うのですねぇ。エルメがニエで、メルはハヤを使っていますね」
二人の手合わせを眺めていたフィオロンが感心したふうに指摘すると、エルメが軽く首を振った。
「メルは、ニエもハヤもどっちも使う」
フィオロンは「おや」と眉尻を下げた。
「メルは、ハヤのほうが得意なのではないでしょうかねぇ。ただ、エルメがニエと言うと、それにつられてしまうのではないですか」
「えっ、そうかな?」
メルは思わず両手で口を押えた。兄貴分のロッカからも、以前同じことを言われたことがあったのだ。その上、体格でも魔力でも劣勢のエルメのほうが、メルよりも勝ち点が少し多い。
「でもそれなら、なんでエルメはおれのハヤの呪号につられないんだよ」
「あまり馴染みがないからじゃないのか。昔からほとんど使ったことがないしな」
「呪号にも性質のようなものがありますからねぇ。きっとエルメの魂には魄沈がとても合っているのですよ。ですが、もっと大きくなって住む場所や心が変われば、得意な呪号が変わることもあります。自分の魂にぴったりの呪号を使えば、魔法も玄武体術ももっと上手になりますよ」
「でも、どっちがぴったりかなんて場合によるし」
メルが難しそうに溜息をつくのを聞きながら、エルメは足元を見つめ、いつかの大雨の日のことを思い出した。
水の魔法で大きな馬を作り、ガレアを乗せて山道を走らせたときだ。あのときエルメはがむしゃらな気持ちで、滅多に使わない青の国の呪号を何度も唱えた。
だが、あれは魔法そのものとはあまり関係がなかった気もする。
「ニエ」は昔からエルメにとって使いやすい呪号だが、特にユノンが魔法を使っている姿や声をありありと思い出せるのが良かった。ユノンが戸惑いながら魔法を使っている姿を、エルメはほとんど見たことがない。彼のようにニエと唱えれば、魔法はこう使うのだと自信を持てたし、どれほど難しくとも挑戦しようと思えた。
だがハヤは、エルメが理天で暮らした十年の中で最もよく耳にしてきた呪号だ。それはシャートやサン、ハイデやアサンたち、さらには声変わりをする前のロッカの声までもを思い起させる。
「魄奮には魄奮の使いどきがあるんだよな」
「おや、エルメは器用なことを言いますねぇ」
フィオロンの声音は妙に楽しげで、嫌味なのか褒めているのかエルメにはよくわからなかった。しかし近頃ずっと、フィオロンは機嫌が良いように見える。
以前の心配性がましになった、と言うべきだろうか。
――まあ、面倒臭いし余計なことは言わないでおこう。
エルメは黙ったまま、フィオロンに向かい両手を重ねて礼をした。フィオロンはそれを見てにやりとしながら礼を返す。
寺院では玄武体術の手合わせを申し込むときそうするのだと、以前フィオロンから聞いた。
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