遥かなる恋人に

ono

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聖女召喚

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 日曜日の午後十一時。この世で最も忌まわしい時間帯に平べったい布団の中から天井を見上げる私は、きっと死んだ魚のような目をしていただろう。
 あと一時間もすれば世界が明日に切り替わる。月曜日という地獄に強制トリップ、ラストダンジョンたる職場に足を踏み入れることになる。
 また悪夢のような一週間が始まってしまう。
 朝五時に起きて満員電車に揺られて出荷、もとい出社、六時半には業務を始めてタイムカードを切るのは規定である七時、ゾンビみたいに働いて終電で帰宅できれば御の字。
 土曜日は疲れて一日中惰眠を貪り夜になってようやく次の一週間の準備を整える。そして日曜日は憂鬱で一ミリも動けない。
 これが二十三歳の私の人生、そのすべてだった。

 肌はボロボロ、心は砂漠。私が夢見た社会人生活って、どんなものだったっけ。
 大学時代の友人たちはそれぞれ充実した日々を送っているらしい。SNSには楽しそうな写真がずらりと並んでいる。
 あんなものはただ表向きのイミテーションだ。実際のところみんな私と似たような生活を送っているに違いない。そう考えながらもタイムラインを見ることをやめられない。
 比較して、惨めになって、不幸を噛みしめて自分を憐れむ。だって私以外の誰が私を憐れんでくれるのか。
「……仕事辞めたい。明日、隕石とか落ちて会社が滅びないかな……」
 ワンルームのアパートでそんな運動会前の小学生みたいなことを呟いてみる。

 でも、会社がなくなったら困るのは私のほうだ。次の仕事の当てもないし、けちのついた履歴書を手に転職活動を行うのが怖かった。
 何をする気力もない。気力がないから体力が落ちる。体力がないから気力がすり減る。悪循環。
 布団に包まったままスマートフォンの画面を見る。LINEの未読はゼロ。受信トレイには迷惑メールしか届いていない。誰とも連絡を取っていないから当然だった。虚無みたいな日常の繰り返し、誰にも話したいことがないんだもの。

 ふと、アイスが食べたくなった。甘くて冷たいものがほしい。それだけが今の私を布団から引きずり出す唯一の動機だ。
 のろのろと重たい体を無理やり起こして冷蔵庫を開けると、中には使いかけのドレッシングと期限の切れた納豆が一パック。小さな冷凍庫を埋めるのは来週いっぱいの夕飯にする冷凍食品。
 せめて何かおいしいものを食べれば少しは満たされた気持ちになるはず、近所のコンビニで、ちょっとお高いプレミアムなアイスでも買って、自分を慰めてあげましょう。
 時間も時間で人目を気にせず部屋着のまま、スマートフォンだけを持って玄関を旅立つ。上下左右に騒音トラブルを抱えた三階建てのアパートの、二階の部屋に背を向けて。

 古いアパートだから外階段はすっかり錆びている。サンダルで転ばないように一段、また一段と慎重に降りた。つもりだった。
 私は明日の朝の会議のことを考えていた。あのクソハゲ野郎……部長にどうすれば怒鳴られずに済むのかな。そんなネガティブな思考に没頭していたのがいけなかった。
 夜の湿気を含んだコンクリートの上でサンダルは無力に滑り、三段目で私は足を滑らせた。
「あ」
 悲鳴にも満たないまぬけな声を残して体が宙に浮いた。

 視界がぐるりと回る。手すりを掴もうとした指先が虚しく空を搔いて、時間が恐ろしいほどゆっくりに感じられる。
 これはまずいと頭の片隅で思った。打ちどころが悪ければ死ぬかもしれない。
 死んだら明日は会社に行かなくてもいいんじゃないか。休みますの電話連絡を入れなくたって、死んでいるのだから仕方ないと世界は許してくれるだろう。
 部長は「死んだなら死んだと報告しろ、それでも社会人か!」と怒鳴るかもしれないけれど。

 衝撃を覚悟して目を閉じる。けれどいつまで経っても硬いコンクリートの感触はやってこなかった。
 手のひらに触れた地面がやけに滑らかでひんやりしている。
 アパートの階段から落ちた衝撃とは明らかに違う。もっと柔らかい、まるで何か見えない力に受け止められたかのような感覚だった。

 おそるおそる目を開けると、視界のどこにもアパートが見当たらない。
 高い天井にどうやって電球を替えるのかと首を傾げたくなる巨大なシャンデリアが吊り下げられている。絶対に掃除が面倒であろう見事な彫刻が施された壁を、精巧なステンドグラスから差し込む七色の光が照らす。
 顔が映りこむほど磨き上げられた大理石の床には私を取り囲むようにおかしな紋様が書き込まれていた。まるで外国の宮殿か、大聖堂のような場所。でなければ天国だ。

「……おお……!」
「光が……! ついに、ついに現れたのだ!」
「聖女様!」
 気づけば十人ほどの見知らぬ男女が私の周りに集まっていた。みんな中世ヨーロッパの貴族みたいな服装、男性は華美な制服や礼服を着込み、女性は足首まで覆う長いドレスを纏っている。
 その全員が私を見つめ、恭しく膝をつく。
「お待ちしておりました、聖女様」
 豊かな白い髭を蓄えた老人が震える声でそう告げる。辺りを見回したけれど聖女らしき人は見当たらず、どうやら私に言っているらしい。
「えっ、と……待ってた? 私を?」
「どうか、我々をお救いください」

 老人が涙を流しながら深々と頭を下げる姿は見ていてあまり気分のいいものではなかった。
 思わず自分の格好を見直してしまう。くたびれたスウェットは上下バラバラ、穴あき靴下に底が外れそうなサンダル。
 たとえ目的地が近所のコンビニだとしても二十三歳の女として終わっている姿のこんな人間を、世界がひっくり返っても聖女なんて呼んではいけない。
「あのー、よく分からないけどなんか間違ってると思います」
 弊社で鍛えたできる限りの下から目線でそう言ったら、老人はまっすぐにこちらを見つめ返してきた。
 あ、だめだこれは。絶対に意見を曲げない目をしていらっしゃる。
「間違いではございません。あなた様こそが我々の聖なる乙女。世界を救う、ただ一人の聖女なのです」

 目眩がする。階段から落ちたという事実を私の体が今さら思い出したみたいに。
 でも、景色が違っている。ここは明らかに慣れ親しんだ安アパートではなく、どうやら日本ではない。もしかしたら地球ですらないのかもしれない。
 嫌な予感を裏づけるかのように私の尻の下に描かれていた奇妙な紋様、魔方陣とでも呼ぶべきそれが仄かに発光して、もう用は果たしたとばかりに消え失せた。
「あー、ここって、どこですか?」
「エルハーフェン王国の王宮、召喚の間です、聖女様」
 今度は騎士のような甲冑を身につけた若い男性が答える。その聖女様っていうのやめてください。
「聖女様、どうか我々の願いをお聞き届けください」
 本当にやめてください、こちらこそお願いします。

 近くにいた紳士が差し出てくれた手に引かれて、操り人形のように立ち上がった。
 まるで現実感がない。夢でも見ているんじゃないかと疑っている。だけど夢にしてはリアルすぎる。
 床の冷たさ、田舎の無人駅に似た風の匂い、人々の熱い視線、何よりもその中心にいる無防備な私の姿があまりにも生々しい現実そのものだ。
 これが夢だったらもっと、突拍子のない展開に相応しい格好をしていたと思う。

「聖女様、こちらへ」
「はい……」
 やけに荘厳な光が射し込む廊下を通って、さっきの広間よりさらに巨大な部屋へと連れて行かれる。もう部屋と呼ぶのも失礼なくらい広い。
 コンサートホールかと思うようなその場所には、さらに多くの人々が集まっていた。貴族、騎士、神官、そんな何かしらの高価な肩書を持っていそうな全員が私を見て、希望に満ちた輝きを瞳に浮かべている。
 ……やめてほしい。気絶してしまいたかった。

 聖女って何だ。どうして私なんだ。私はただの社畜だ。特別な力も才能もない、熱意もない、惰性で毎日をやり過ごしていければそれで満足するだけの。
 朝起きるのが辛くて、日曜日は憂鬱で、月曜日が世界で一番怖い。そんなどこにでもいる冴えない女だ。
 私を聖女なんて呼ばないで。救世主だとか希望の光だとか、重すぎて背負いたくない。
 敬われることに慣れていない自分に気づいて、ちょっとだけ悲しかった。

 こんなにも期待されるのは人生で初めてだったかもしれない。
 家庭でも学校でも取りたてて長所も短所もなく、大袈裟に叱られも褒められもせず生きてきた。
 会社では一転していつも怒られてばかりいた。上司には無能呼ばわりされ、同僚には面倒な仕事を押しつけられ、後輩には陰口を叩かれ、それをつらいとすら感じなかった。その程度が私にはちょうどよかったのだ。
 期待されなければ応えずに済む。それが今、見知らぬ世界で見知らぬ人々から熱烈に求められている。
 落ち着かないどころか申し訳なさで死にそうになる。

 その後、立ったまま気絶していた私は何が起きたのかよく分からないまま別室へと運ばれていた。
 気づけばメイド服を着たきれいなお姉さんたちに社長室よりも立派なドローイングルームへと連れ込まれ、あれよあれよと湯浴みに着替えに化粧まで施される。
 カッサカサだった肌が内側から発光するかのように艶めいて、目の下の隈もフォトショップの加工よろしく消えてしまった。メイドさんの技術おそるべし。
 上っ面だけはこの美しい城の端っこにいても許されそうな外見を装ったことで、ほんの少しだけ気持ちが落ち着いた。

 作業の傍らメイドさんたちが教えてくれたところによると、ここはやっぱり私がいたのとは異なる世界であるらしい。魔法が存在し、魔物が蔓延り、人々は剣を手に戦う、そんなファンタジー世界。
 この地では聖女と呼ばれる存在が人類の命綱だ。
 聖女とは世界の魔力を安定させるもの、社会基盤となるシステム。逆に言えば聖女が不在の時、世界の魔力は暴走し、魔物が馬鹿みたいに増えて人類の社会が崩壊する。
 先代の聖女が亡くなってからすでに十年。このエル……エル……なんだっけ。王国はもはや風前の灯火なのだった。

 もう聖女の誕生を待っているだけでは間に合わない。
 そこで、召喚魔法によって新たな聖女を自らの手で呼び寄せる。それが彼らの計画だった。
 そして召喚されたのが私だった。

「なんで私?」
 不相応に着飾らされた私の前に戻ってきた老人、神官長セルギウスと名乗った彼に素直な疑問をぶつけてみる。
「申し訳ございません」
 セルギウスさんは再び頭を下げた。この老人は強そうな名前に相応しく精神的にも強かな気がする。頭を下げているのは向こうなのに謝罪というより命令を受けているような気分にさせられる。
「我々には他に方法がなかったのです。このままでは、我が国どころか世界が滅びてしまう」
 いきなり召喚されて「魔王を倒してこい」と言われないだけありがたいと思え、と聞こえるのはさすがに私の被害妄想なのだろうけれど。

「私、帰れるんでしょうか?」
 セルギウスさんが、そしてメイドさんたちが一斉に沈黙した。その沈黙がすべてを物語っていた。
 異世界転生だとか異世界転移だとかのお話では大抵そうだ。簡単には帰れない。一生帰れないことのほうが多い。
 ここが私の新しい現実だ。ここで新しい一週間を迎えるのだ。日本はもう遠く離れて、憎んでも余りある弊社も、慣れだけあって愛着のない安アパートも、遥か彼方に。
 そう考えたら、べつにいいんじゃない? と思えてきた。大して帰りたい故郷でもないじゃないか。
 つまりもうあの地獄のような日々を送らなくていいってことだ。月曜日の朝、重い足を引きずってラッシュに押し潰されてまで行きたくもない会社に行かなくて済む。部長の怒鳴り声ともおさらばできる。

 でもその代わりに「聖女」という重い責任を負わされるのだ。世界を救うとかいう途方もない使命を。
 そんな大それたことをしたくなかった。責任を負いたくなかった。私はただ肩書きのない怠惰な平社員でいたいのに。
「帰りたいなあ……」
 それは元の世界にではなく、お布団の中に、という意味だった。できればアイスクリームつきでお願いする。

 セルギウスさんは悲しそうな顔をしてみせた。周りのメイドさんたちも落胆したように目を伏せるから胸がきゅっとなる。
「お帰りになれる方法は私が責任を持って探しましょう。ですからそれまでの間、どうか我々に力をお貸しください。聖女様がいらっしゃるだけで世界は安定するのです」
「はあ……。特に何かしなきゃいけないわけじゃないんですね?」
「はい。聖女様の存在そのものが世界にとっての祝福なのです」
 帰る方法が見つかるまで大人しくしていればいい。それだけなら、まあ。でもやっぱり言葉の重さがずっしりのしかかってくる。

 黙って了承の判子をつくのは怖いので拒絶の意志は見せつつ念を押しておくことにしよう。
「帰る方法、本当にちゃんと探してくださいね。それまでは一応ここにいますけど」
「ありがとうございます、聖女様!」
 メイドさんたちの表情が明るく輝いたのでほっとした。それを見てセルギウスさんがにやりと笑った気がした。
 ……私の良心を刺激するためにメイドさんたちを部屋に残したのだろうか。

 ともかく、こうして私の働かない異世界新生活が始まったのだ。
 まだ本当の波乱が王宮の奥で待ち構えていることにも気づかないまま。
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