8 / 22
咲かなかった恋の話
しおりを挟む
執務室の重厚な扉が開き、部屋の中では相変わらず書類の山に埋もれてディートリヒが仕事をしていた。
「マリ。何か用か? 見ての通り私は今、来期の予算案という名の魔物と戦っている最中なのだが」
「差し入れです。殿下にもらった花が咲いたので」
私が机の上に鉢を置くと、ディートリヒの視線が花に吸い寄せられた。
「ああ、『エリーゼ』だな」
「はい。きれいに咲きました」
「……そうか」
彼は花に手を伸ばしかけて途中で止めた。触れたら壊れると思っているかのような仕草だった。
「エリーゼは、何も気にしていなかっただろう」
不意にディートリヒが呟いた。一瞬意味が分からなくて首を傾げる。どっちのエリーゼの話? 人間のほうか。
ディートリヒがくれたものだとは伝えなかったけれど、エリーゼは確かに一緒に庭仕事をしていても育っていく『エリーゼ』に特別な反応を示さなかったと思う。
他のどんな花とも同じ、花をつけない草木とも同じように、きれいね、と微笑んでいただけで。
「そのはずだ。彼女は私に興味がないからな」
ディートリヒは端的に断じた。私が「なぜ婚約破棄なんかしたのか」と尋ねて「エリーゼは頭が悪いから」と答えた時と同じくらい、率直で絶望的な言葉だった。
「興味がないって。婚約者なのに?」
まして彼は、エリーゼからすれば心変わりによって一方的に婚約破棄を突きつけてきた相手。恨みこそすれ興味がないなんてことはないのじゃないだろうか。
でも私よりもずっとエリーゼのことを理解しているディートリヒは、万年筆を置いて諦観の息を吐いた。
「彼女は私を愛してくれた。だが、それは『婚約者だから』だ。私に恋していたわけではない」
「でもほら、婚約を解消するって言われた時、泣きそうになってたじゃないですか、エリーゼ」
「自分の至らなさによって義務を全うできなかったと勘違いしたからだ。私の裏切りに傷ついたわけではない。……現に、私とすれ違っても彼女は今までと変わりなく接してくれる。“敬愛”すべき王太子として、な」
「え、可哀想」
思わず口に出してしまった。
「同情はやめたまえ。虚しくなるじゃないか」
だからディートリヒは庭を訪ねてくる時もエリーゼを避けているのか。自分に会っても平気な彼女を見るのがつらいから。
これではどっちがフラれたのやら分からない。どっちもフラれてはいないのだけれど。
ディートリヒは椅子の背もたれに体を預けた。整いすぎた美しい顔立ちをしているのに、諦観に満ちた表情がセルギウスよりもよっぽど老成して見える。
「物心つくかつかないかの頃に婚約が決まった。私が五歳、エリーゼが三歳の時だ」
「早いですね」
「王族の婚姻などそんなものだ。オルデンブルク伯爵家との結びつきを強固にするための取り決めだった」
でも、エリーゼは政略結婚だからと我が身の不幸を嘆き暮らして婚約者を愛せないような悲劇のヒロインぶった馬鹿ではないはずだ。政略で結ばれたならそれはそれでいずれ夫となる男を心から愛する、そういう人ではないだろうか? 実際、私が現れるまで二人は仲睦まじさで知られていたというし。
「初めてエリーゼに会った日のことを覚えている。小さくて、泣き虫で、とても優しい子だった。転んだ私に駆け寄って、自分のハンカチが汚れることも気にせず私の傷を拭いてくれた。私の代わりに涙を流しながら」
その声には懐かしさと痛みが複雑に入り混じっていた。
「私は当然のように彼女に恋をした。一人の人間として、男として彼女を愛した」
「一目惚れなんだ」
「君に言われると安っぽく聞こえるな」
「すみません」
だって五歳の子供が三歳の子供に愛だの恋だのちょっと微笑ましすぎる。それだけに結末が、なんというか気の毒だ。
「成長するにつれ、エリーゼは身も心もますます美しくなった。貴賤を問わず分け隔てなく接し、困っている者を見れば決して放っておけない。……エリーゼは誰にでも優しい。民にも、貴族にも、使用人にも、そして私にも」
それはつまり、彼女にとって『特別な男性』などいないということだった。
純粋で善良な博愛の人。だから政略によって結びつけられた婚約者であるディートリヒのことも当たり前に愛してくれた。そして婚約関係が解消されれば、当たり前のようにそれを受け入れた。
まさしく“彼女はディートリヒを愛しているけれど、興味がない”のだ。
「私は何度もエリーゼの気を引こうとした。詩を贈り、花を贈り、共に過ごす時間を作った。彼女に恋してほしかったから」
ディートリヒは十数年もの間、自分を見てくれない相手に対して一方通行の情熱を燃やし続けてきたのだ。ちょっとストーカーじみているくらい純粋に、熱烈に。
「ある時、彼女が街で出会った孤児に自分の宝石を与えたことがあった。私は嫉妬すらできなかった。彼女にとって、私とあの子供は同じだった」
もしも私だったら「愛が重くて鬱陶しい、端的に言ってキモいな」と思うほどだけれど、優しいエリーゼはそうではなかっただろう。彼女ならディートリヒの一途な献身を心から称え、賞賛したに違いない。まるで他人事のように。
なんだか胸が痛くなってきた。確かに切ない。
ディートリヒは『エリーゼ』の花をもう一度見つめた。
「彼女は私がどんな想いでこの種を選んだかも知らない。知ろうとはしない。ただ慈しんでくれる。この花でなくとも、贈ったのが私ではなくとも。それがエリーゼだ」
沈黙が落ちる。重苦しい空気だった。私は何と言えばいいのか分からなくて、とりあえず窓の外を見た。
青い空、白い雲。ああ、平和な光景だなあ……。
リーゼロッテ様に結びつけられ、フェリクスの都合で近づくことになり、王妃の庭でエリーゼと親睦を深めてきた私にもなんとなく分かる。
相手が道端に倒れている浮浪者でも、自分を害そうとする政敵であってさえも、同じように慈愛の微笑みを向けて手を差し伸べる。エリーゼとはそういう娘なのだ。
「愛される王妃にはなれるんだろうけど」
「そうだな。彼女は他者が己と同じだけ善意と誠実さに満ちていると信じている。惜しみなく愛情を与えれば理想が実現されるのだと。私は、私が政治を担えばエリーゼはそのままでいて構わないと思っていた」
しかしあの慈善事業の件が起きてしまった。エリーゼの無思慮な善意が経済に混乱をもたらし、彼女の愛する民を苦しめた。
「エリーゼは心を痛めた。彼女は頭は悪いが愚かではない。自分が人を傷つけたことを理解していた。私と結婚すれば、彼女は何度でもあんな顔をすることになる」
王太子妃なら、じきに王妃として立つならば、非情な判断を迫られて冷静に決断をくだし、時には誰かを切り捨てなければならない。
エリーゼにはそれができない。
一緒に庭仕事をしている時、彼女は雑草を抜くことを嫌がり、害虫を駆除できない。それらすべてが彼女にとっては美しい花と等しく愛すべき生命だから。
だけど政治とは選択の連続だ。限られた資源を誰に配分するか。誰の意見を採用し、誰の意見を却下するか。生かすために適切に殺すことは施政者に求められる資質だった。
「もしエリーゼに裁判なんてさせたら有罪判決一つ出すたびに心が死にそう」
ふと想像したことをそのまま口にした私の言葉がストレートすぎたのか、ディートリヒはナイフで刺されたみたいな顔をする。
「彼女に裁判官は務まらない。原告も被告もどちらも救うべきだと言うだろう」
そして彼は頭を抱えた。
「税の徴収も無理だ。『皆さんに苦労はかけられません』と言って免除してしまう。外交も任せられない。敵国の大使に同情を寄せて機密情報を漏らしかねない」
彼女に恋し、彼女を深く愛してきたからこそ、ディートリヒは分かってしまったのだ。王太子である自分だけは彼女と結婚してはいけないことに。
恋人としては完全に詰んでいる。エリーゼは、素晴らしい人格者であっても王妃に向いていないのだった。
婚約破棄の場で、彼女ならいくらでも次の求婚者は現れるだろうと言ったディートリヒの声の震えを思い出す。
「正直、そんな調子でエリーゼが他の人とくっついても大丈夫なんですか?」
現時点でもフェリクスなんかは相当うまくやっている。身分としては釣り合わないが、オルデンブルク家には彼の出自など問題にならない権威と資産があるようだ。
王太子との婚約関係がなければ本来エリーゼはただ自分の好みだけで結婚相手を選べる身分だった。
ディートリヒの顔があからさまに強張る。
「……耐え難い」
「ですよね」
「だが、彼女が幸せならそれでいい」
「本当に?」
「本当だ。私は彼女を愛している。だからこそ、彼女の幸せを願う。たとえそれが私の手の届かない場所にあったとしても」
不意に大学時代の友人を思い出して切なくなった。推しの熱愛発覚に血涙を流しながらも彼女は歯を食いしばって「幸せならOKです」と祝福していたっけ。
「ちゃんとエリーゼを愛してくれる男なら譲ってやろう、って感じですか」
「違うな。その条件なら私に敵う者はいない」
即答だった。自信満々すぎて笑ってしまう。
「重要なのは彼女に想いを寄せるのが誰かではなく、エリーゼ自身の気持ちだ。彼女を愛さない人間など、どんな世界にも存在しないのだからな」
まあ、うん……そこまで言う? いや、そうかもしれない。嫌うのが難しい人柄であるのは確かだった。
この男、外面はクールな王子様だが、中身は粘着質な情熱の塊だ。
エリーゼの博愛に甘えて「私たちは愛し合っている」という顔で結婚してしまうこともできたのに、あくまでも彼女自身の主体性を尊重したいのだ。たとえ自分が致命的に傷ついてでも。
「私は誰よりもエリーゼを愛している。だが彼女はもっと分かりやすい恋でなければ……甘い恋人を演じられる男にでなければ、彼女は恋をできない」
知性が足りない頭の悪さなら簡単だった。よく「悪気がないからタチが悪い」と言うように、エリーゼの善良な無知は厄介だ。
ディートリヒは国の未来を背負う王太子で、個人的な愛情のために責任を放棄することはできない。施政者としての義務を背景とする王太子の愛に、エリーゼもまた貴族の義務を背景にした婚約者の愛を返してしまう。
彼と結婚したら、エリーゼは自分の望みなど考えずに良き妻、良き国母になろうと努めるだろう。それはディートリヒにとって最も愛しい相手の人生を奪う行為なのだった。
「ちょっと思ってたこと言ってもいいですか」
「なんだ」
「私、あなたを愛してないですけど」
ディートリヒは短く笑った。
「君に愛など求めない。君もそうだろう」
「ええ、まあ」
私はそもそも恋愛に興味がない。どちらかといえばそんな濃くて面倒な人間関係に巻き込まれたくないほうだった。
ディートリヒは有能な経営者であり、ビジネスパートナーとして理想的な相手だ。それ以上にも以下にもなりはしない。
だから甘ったるい愛を求めてこない彼の思惑に乗ること自体に異論はないのだけれど。
ただ王族が白い結婚となると気になることもあるわけだ。
「後継ぎとか大丈夫なんですかね?」
王太子殿下には弟妹がいない。彼と結婚するのはいいとしても子作りはしたくなかった。ディートリヒは、そんなことかと頷いた。
「問題ない。父上が激務から解放された今、私に弟ができる可能性は充分にある。現に最近の父上は妙に若々しい」
「……」
元気だな、国王陛下。でも確かにリーゼロッテ王妃はまだまだ若々しいから、仲睦まじい夫妻にこれから第二子が生まれても不思議ではないかもしれない。
「それに公爵領にいる甥や姪も優秀だ。私が無理に直系を残す必要はないのだ」
じゃあ、まあ、いいか。
聖女としてここにいて、呑気に美味しいものを食べて、のんびりと庭いじりなどして、それだけでこの世界が救われるというなら割のいいお仕事だ。
私は『エリーゼ』の花を指差した。
「大事にしてくださいね。婚約者が育てたんですから」
残念ながらその婚約者は私だけれど。彼は花を見つめて少し淋しそうに微笑んだ。
「ああ」
一方通行の恋。それでもディートリヒは一途にエリーゼの幸せを願い続ける。この先もずっと。
ディートリヒの執務室を出て庭に帰ると、ミリアの隣でエリーゼが花に水をやっていた。
「マリ、今日は遅かったですわね」
「ごめんごめん。ちょっと寄り道してて」
「また何か新しい花を植えますの?」
「花もいいけど、トマトでも育てようかなー」
「よい考えですわ! できた果実で温かいスープを作って、皆さんに振舞いましょう」
「果実……トマトって野菜だっけ、果物だっけ」
なんて些細な疑問をもうスマホで調べることもできないけれど、そんなことすぐに忘れてしまうくらい毎日が色彩豊かに過ぎていく。
ソース・シンクバランス。
エリーゼは愚かではない。もしもディートリヒとの婚約関係が続いていたら、自分で言っていたように「もっと勉強して、もっとがんばって」王太子妃に相応しくなろうとしたに違いない。大局を見て他者を選択するために。
彼女という人間を愛していない無責任な他人はそれを軽々しく成長だなんて称するのだろうが、ディートリヒはそうしなかった。
彼はエリーゼを王太子妃の枠に押し込めて歪めることなく、彼女自身のままでいられるほうを選んだのだ。たとえ自分の恋を捨てることになっても、エリーゼを実らせるために。
心の底から気の毒な、そして最も尊敬に値する婚約者を、末永く見守ってやろうじゃないかという気持ちになっていた。
「マリ。何か用か? 見ての通り私は今、来期の予算案という名の魔物と戦っている最中なのだが」
「差し入れです。殿下にもらった花が咲いたので」
私が机の上に鉢を置くと、ディートリヒの視線が花に吸い寄せられた。
「ああ、『エリーゼ』だな」
「はい。きれいに咲きました」
「……そうか」
彼は花に手を伸ばしかけて途中で止めた。触れたら壊れると思っているかのような仕草だった。
「エリーゼは、何も気にしていなかっただろう」
不意にディートリヒが呟いた。一瞬意味が分からなくて首を傾げる。どっちのエリーゼの話? 人間のほうか。
ディートリヒがくれたものだとは伝えなかったけれど、エリーゼは確かに一緒に庭仕事をしていても育っていく『エリーゼ』に特別な反応を示さなかったと思う。
他のどんな花とも同じ、花をつけない草木とも同じように、きれいね、と微笑んでいただけで。
「そのはずだ。彼女は私に興味がないからな」
ディートリヒは端的に断じた。私が「なぜ婚約破棄なんかしたのか」と尋ねて「エリーゼは頭が悪いから」と答えた時と同じくらい、率直で絶望的な言葉だった。
「興味がないって。婚約者なのに?」
まして彼は、エリーゼからすれば心変わりによって一方的に婚約破棄を突きつけてきた相手。恨みこそすれ興味がないなんてことはないのじゃないだろうか。
でも私よりもずっとエリーゼのことを理解しているディートリヒは、万年筆を置いて諦観の息を吐いた。
「彼女は私を愛してくれた。だが、それは『婚約者だから』だ。私に恋していたわけではない」
「でもほら、婚約を解消するって言われた時、泣きそうになってたじゃないですか、エリーゼ」
「自分の至らなさによって義務を全うできなかったと勘違いしたからだ。私の裏切りに傷ついたわけではない。……現に、私とすれ違っても彼女は今までと変わりなく接してくれる。“敬愛”すべき王太子として、な」
「え、可哀想」
思わず口に出してしまった。
「同情はやめたまえ。虚しくなるじゃないか」
だからディートリヒは庭を訪ねてくる時もエリーゼを避けているのか。自分に会っても平気な彼女を見るのがつらいから。
これではどっちがフラれたのやら分からない。どっちもフラれてはいないのだけれど。
ディートリヒは椅子の背もたれに体を預けた。整いすぎた美しい顔立ちをしているのに、諦観に満ちた表情がセルギウスよりもよっぽど老成して見える。
「物心つくかつかないかの頃に婚約が決まった。私が五歳、エリーゼが三歳の時だ」
「早いですね」
「王族の婚姻などそんなものだ。オルデンブルク伯爵家との結びつきを強固にするための取り決めだった」
でも、エリーゼは政略結婚だからと我が身の不幸を嘆き暮らして婚約者を愛せないような悲劇のヒロインぶった馬鹿ではないはずだ。政略で結ばれたならそれはそれでいずれ夫となる男を心から愛する、そういう人ではないだろうか? 実際、私が現れるまで二人は仲睦まじさで知られていたというし。
「初めてエリーゼに会った日のことを覚えている。小さくて、泣き虫で、とても優しい子だった。転んだ私に駆け寄って、自分のハンカチが汚れることも気にせず私の傷を拭いてくれた。私の代わりに涙を流しながら」
その声には懐かしさと痛みが複雑に入り混じっていた。
「私は当然のように彼女に恋をした。一人の人間として、男として彼女を愛した」
「一目惚れなんだ」
「君に言われると安っぽく聞こえるな」
「すみません」
だって五歳の子供が三歳の子供に愛だの恋だのちょっと微笑ましすぎる。それだけに結末が、なんというか気の毒だ。
「成長するにつれ、エリーゼは身も心もますます美しくなった。貴賤を問わず分け隔てなく接し、困っている者を見れば決して放っておけない。……エリーゼは誰にでも優しい。民にも、貴族にも、使用人にも、そして私にも」
それはつまり、彼女にとって『特別な男性』などいないということだった。
純粋で善良な博愛の人。だから政略によって結びつけられた婚約者であるディートリヒのことも当たり前に愛してくれた。そして婚約関係が解消されれば、当たり前のようにそれを受け入れた。
まさしく“彼女はディートリヒを愛しているけれど、興味がない”のだ。
「私は何度もエリーゼの気を引こうとした。詩を贈り、花を贈り、共に過ごす時間を作った。彼女に恋してほしかったから」
ディートリヒは十数年もの間、自分を見てくれない相手に対して一方通行の情熱を燃やし続けてきたのだ。ちょっとストーカーじみているくらい純粋に、熱烈に。
「ある時、彼女が街で出会った孤児に自分の宝石を与えたことがあった。私は嫉妬すらできなかった。彼女にとって、私とあの子供は同じだった」
もしも私だったら「愛が重くて鬱陶しい、端的に言ってキモいな」と思うほどだけれど、優しいエリーゼはそうではなかっただろう。彼女ならディートリヒの一途な献身を心から称え、賞賛したに違いない。まるで他人事のように。
なんだか胸が痛くなってきた。確かに切ない。
ディートリヒは『エリーゼ』の花をもう一度見つめた。
「彼女は私がどんな想いでこの種を選んだかも知らない。知ろうとはしない。ただ慈しんでくれる。この花でなくとも、贈ったのが私ではなくとも。それがエリーゼだ」
沈黙が落ちる。重苦しい空気だった。私は何と言えばいいのか分からなくて、とりあえず窓の外を見た。
青い空、白い雲。ああ、平和な光景だなあ……。
リーゼロッテ様に結びつけられ、フェリクスの都合で近づくことになり、王妃の庭でエリーゼと親睦を深めてきた私にもなんとなく分かる。
相手が道端に倒れている浮浪者でも、自分を害そうとする政敵であってさえも、同じように慈愛の微笑みを向けて手を差し伸べる。エリーゼとはそういう娘なのだ。
「愛される王妃にはなれるんだろうけど」
「そうだな。彼女は他者が己と同じだけ善意と誠実さに満ちていると信じている。惜しみなく愛情を与えれば理想が実現されるのだと。私は、私が政治を担えばエリーゼはそのままでいて構わないと思っていた」
しかしあの慈善事業の件が起きてしまった。エリーゼの無思慮な善意が経済に混乱をもたらし、彼女の愛する民を苦しめた。
「エリーゼは心を痛めた。彼女は頭は悪いが愚かではない。自分が人を傷つけたことを理解していた。私と結婚すれば、彼女は何度でもあんな顔をすることになる」
王太子妃なら、じきに王妃として立つならば、非情な判断を迫られて冷静に決断をくだし、時には誰かを切り捨てなければならない。
エリーゼにはそれができない。
一緒に庭仕事をしている時、彼女は雑草を抜くことを嫌がり、害虫を駆除できない。それらすべてが彼女にとっては美しい花と等しく愛すべき生命だから。
だけど政治とは選択の連続だ。限られた資源を誰に配分するか。誰の意見を採用し、誰の意見を却下するか。生かすために適切に殺すことは施政者に求められる資質だった。
「もしエリーゼに裁判なんてさせたら有罪判決一つ出すたびに心が死にそう」
ふと想像したことをそのまま口にした私の言葉がストレートすぎたのか、ディートリヒはナイフで刺されたみたいな顔をする。
「彼女に裁判官は務まらない。原告も被告もどちらも救うべきだと言うだろう」
そして彼は頭を抱えた。
「税の徴収も無理だ。『皆さんに苦労はかけられません』と言って免除してしまう。外交も任せられない。敵国の大使に同情を寄せて機密情報を漏らしかねない」
彼女に恋し、彼女を深く愛してきたからこそ、ディートリヒは分かってしまったのだ。王太子である自分だけは彼女と結婚してはいけないことに。
恋人としては完全に詰んでいる。エリーゼは、素晴らしい人格者であっても王妃に向いていないのだった。
婚約破棄の場で、彼女ならいくらでも次の求婚者は現れるだろうと言ったディートリヒの声の震えを思い出す。
「正直、そんな調子でエリーゼが他の人とくっついても大丈夫なんですか?」
現時点でもフェリクスなんかは相当うまくやっている。身分としては釣り合わないが、オルデンブルク家には彼の出自など問題にならない権威と資産があるようだ。
王太子との婚約関係がなければ本来エリーゼはただ自分の好みだけで結婚相手を選べる身分だった。
ディートリヒの顔があからさまに強張る。
「……耐え難い」
「ですよね」
「だが、彼女が幸せならそれでいい」
「本当に?」
「本当だ。私は彼女を愛している。だからこそ、彼女の幸せを願う。たとえそれが私の手の届かない場所にあったとしても」
不意に大学時代の友人を思い出して切なくなった。推しの熱愛発覚に血涙を流しながらも彼女は歯を食いしばって「幸せならOKです」と祝福していたっけ。
「ちゃんとエリーゼを愛してくれる男なら譲ってやろう、って感じですか」
「違うな。その条件なら私に敵う者はいない」
即答だった。自信満々すぎて笑ってしまう。
「重要なのは彼女に想いを寄せるのが誰かではなく、エリーゼ自身の気持ちだ。彼女を愛さない人間など、どんな世界にも存在しないのだからな」
まあ、うん……そこまで言う? いや、そうかもしれない。嫌うのが難しい人柄であるのは確かだった。
この男、外面はクールな王子様だが、中身は粘着質な情熱の塊だ。
エリーゼの博愛に甘えて「私たちは愛し合っている」という顔で結婚してしまうこともできたのに、あくまでも彼女自身の主体性を尊重したいのだ。たとえ自分が致命的に傷ついてでも。
「私は誰よりもエリーゼを愛している。だが彼女はもっと分かりやすい恋でなければ……甘い恋人を演じられる男にでなければ、彼女は恋をできない」
知性が足りない頭の悪さなら簡単だった。よく「悪気がないからタチが悪い」と言うように、エリーゼの善良な無知は厄介だ。
ディートリヒは国の未来を背負う王太子で、個人的な愛情のために責任を放棄することはできない。施政者としての義務を背景とする王太子の愛に、エリーゼもまた貴族の義務を背景にした婚約者の愛を返してしまう。
彼と結婚したら、エリーゼは自分の望みなど考えずに良き妻、良き国母になろうと努めるだろう。それはディートリヒにとって最も愛しい相手の人生を奪う行為なのだった。
「ちょっと思ってたこと言ってもいいですか」
「なんだ」
「私、あなたを愛してないですけど」
ディートリヒは短く笑った。
「君に愛など求めない。君もそうだろう」
「ええ、まあ」
私はそもそも恋愛に興味がない。どちらかといえばそんな濃くて面倒な人間関係に巻き込まれたくないほうだった。
ディートリヒは有能な経営者であり、ビジネスパートナーとして理想的な相手だ。それ以上にも以下にもなりはしない。
だから甘ったるい愛を求めてこない彼の思惑に乗ること自体に異論はないのだけれど。
ただ王族が白い結婚となると気になることもあるわけだ。
「後継ぎとか大丈夫なんですかね?」
王太子殿下には弟妹がいない。彼と結婚するのはいいとしても子作りはしたくなかった。ディートリヒは、そんなことかと頷いた。
「問題ない。父上が激務から解放された今、私に弟ができる可能性は充分にある。現に最近の父上は妙に若々しい」
「……」
元気だな、国王陛下。でも確かにリーゼロッテ王妃はまだまだ若々しいから、仲睦まじい夫妻にこれから第二子が生まれても不思議ではないかもしれない。
「それに公爵領にいる甥や姪も優秀だ。私が無理に直系を残す必要はないのだ」
じゃあ、まあ、いいか。
聖女としてここにいて、呑気に美味しいものを食べて、のんびりと庭いじりなどして、それだけでこの世界が救われるというなら割のいいお仕事だ。
私は『エリーゼ』の花を指差した。
「大事にしてくださいね。婚約者が育てたんですから」
残念ながらその婚約者は私だけれど。彼は花を見つめて少し淋しそうに微笑んだ。
「ああ」
一方通行の恋。それでもディートリヒは一途にエリーゼの幸せを願い続ける。この先もずっと。
ディートリヒの執務室を出て庭に帰ると、ミリアの隣でエリーゼが花に水をやっていた。
「マリ、今日は遅かったですわね」
「ごめんごめん。ちょっと寄り道してて」
「また何か新しい花を植えますの?」
「花もいいけど、トマトでも育てようかなー」
「よい考えですわ! できた果実で温かいスープを作って、皆さんに振舞いましょう」
「果実……トマトって野菜だっけ、果物だっけ」
なんて些細な疑問をもうスマホで調べることもできないけれど、そんなことすぐに忘れてしまうくらい毎日が色彩豊かに過ぎていく。
ソース・シンクバランス。
エリーゼは愚かではない。もしもディートリヒとの婚約関係が続いていたら、自分で言っていたように「もっと勉強して、もっとがんばって」王太子妃に相応しくなろうとしたに違いない。大局を見て他者を選択するために。
彼女という人間を愛していない無責任な他人はそれを軽々しく成長だなんて称するのだろうが、ディートリヒはそうしなかった。
彼はエリーゼを王太子妃の枠に押し込めて歪めることなく、彼女自身のままでいられるほうを選んだのだ。たとえ自分の恋を捨てることになっても、エリーゼを実らせるために。
心の底から気の毒な、そして最も尊敬に値する婚約者を、末永く見守ってやろうじゃないかという気持ちになっていた。
10
あなたにおすすめの小説
私をいじめていた女と一緒に異世界召喚されたけど、無能扱いされた私は実は“本物の聖女”でした。
さら
恋愛
私――ミリアは、クラスで地味で取り柄もない“都合のいい子”だった。
そんな私が、いじめの張本人だった美少女・沙羅と一緒に異世界へ召喚された。
王城で“聖女”として迎えられたのは彼女だけ。
私は「魔力が測定不能の無能」と言われ、冷たく追い出された。
――でも、それは間違いだった。
辺境の村で出会った青年リオネルに助けられ、私は初めて自分の力を信じようと決意する。
やがて傷ついた人々を癒やすうちに、私の“無”と呼ばれた力が、誰にも真似できない“神の光”だと判明して――。
王都での再召喚、偽りの聖女との再会、かつての嘲笑が驚嘆に変わる瞬間。
無能と呼ばれた少女が、“本物の聖女”として世界を救う――優しさと再生のざまぁストーリー。
裏切りから始まる癒しの恋。
厳しくも温かい騎士リオネルとの出会いが、ミリアの運命を優しく変えていく。
転生後はゆっくりと
衣更月
ファンタジー
貧しい集落で生まれたリリは、生まれた瞬間から前世の記憶があった。
日本人特有の”配慮”に徹した赤ん坊を演じていたことで、両親から距離を置かれた挙句、村人からも「不気味な子」として敬遠されることに…。
そして、5才の誕生日に遠くの町に捨てられた。
でも、リリは悲観しない。
前世の知識チートは出来ないけど、大人メンタルで堅実に。
目指すは憧れのスローライフが出来るほど、ほどほどの守銭奴としてリリは異世界人として順応していく。
全25話(予定)
「婚約破棄された転生令嬢ですが、王城のメイド五百人に慕われるメイド長になりました。なお元婚約者は私のメイドに土下座中です」
まさき
恋愛
社畜OLとして過労死した私は、異世界の令嬢・アリア・ヴェルナーに転生した。
目が覚めたら、婚約破棄されていた。
理由は「地味で面白みがない」から。
泣く暇もなかった。翌朝、王城のメイド採用面接に向かった。
最初は鼻で笑われた。雑用係からのスタートだった。
でも——前世で叩き込まれた仕事術と、一人ひとりの話を聞く姿勢で、少しずつメイドたちが集まってきた。
厨房が変わった。リネンが変わった。王城全体が変わっていった。
そして就任スピーチで宣言した。
「500人全員の名前を、覚えます」
冷酷と噂される王太子は、静かに見ていた。
悪役令嬢は妨害を仕掛けてきた。
元婚約者は——後悔し始めていた。
婚約破棄された令嬢が、500人に慕われるメイド長になるまでの物語。
なお元婚約者は、私のメイドたちの前で土下座中です。
もしもゲーム通りになってたら?
クラッベ
恋愛
よくある転生もので悪役令嬢はいい子に、ヒロインが逆ハーレム狙いの悪女だったりしますが
もし、転生者がヒロインだけで、悪役令嬢がゲーム通りの悪人だったなら?
全てがゲーム通りに進んだとしたら?
果たしてヒロインは幸せになれるのか
※3/15 思いついたのが出来たので、おまけとして追加しました。
※9/28 また新しく思いつきましたので掲載します。今後も何か思いつきましたら更新しますが、基本的には「完結」とさせていただいてます。9/29も一話更新する予定です。
※2/8 「パターンその6・おまけ」を更新しました。
※4/14「パターンその7・おまけ」を更新しました。
安らかにお眠りください
くびのほきょう
恋愛
父母兄を馬車の事故で亡くし6歳で天涯孤独になった侯爵令嬢と、その婚約者で、母を愛しているために側室を娶らない自分の父に憧れて自分も父王のように誠実に生きたいと思っていた王子の話。
※突然残酷な描写が入ります。
※視点がコロコロ変わり分かりづらい構成です。
※小説家になろう様へも投稿しています。
はじめまして、私の知らない婚約者様
有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
ファンタジー
ミルドレッド・カーマイン公爵令嬢は突然、学園の食堂で話しかけられる。
見覚えのない男性。傍らには豊満な体型の女性がいる。
けれどその女性から発せられた男性の名前には、聞き覚えがあった。
ミルドレッドの婚約者であるブルーノ王子であることを。
けれどミルドレッドの反応は薄い。なぜなら彼女は……。
この世界を乙女ゲームだと知った人々による、悪役令嬢とヒロイン、魔女の入れ替え話です。
悪役令嬢を救いたかったはずなのに、どうしてこんなことに?
※他サイトにも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる