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純情ストーカー
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雷曜日の午後、雨が降っているので庭仕事は休み、エリーゼと一緒に図書室で勉強会を開くことにした。
「エルハーフェンって、昔はもっと小さかったんだね」
「はい。建国以来しばらくは聖女様をお守りするので手一杯だったのです」
聖女がいても戦争は起きる。そりゃそうか。
神聖魔法だとか予知能力だとか神の御加護だとか、そういう強大な力でも持っているなら抑止力となるけれど、この世界の聖女はただの空気清浄装置。
そしてどうせなら自分の国でこそ力を発揮してほしいと考えるのが国家というものだ。聖女のいるそこが世界の中心になるのだから。
「いつ頃でっかい国になったの?」
「三百年前の戦争で隣国の侵攻を防ぎきり、逆にエルハーフェンの領土を広げたそうですわ」
エリーゼは歴史にも詳しかった。年号や人名、出来事について、お伽噺を語るようにすらすらと答えてくれる。記憶力がよくて知識も豊富だ。
それだけで言えば決して頭が悪いわけではない。それだけで、言えば。
「マリ、あなたは……もしも敵国に攻められたら、あなたなら。あなたが国を守る立場にいたら、どうなさいますか?」
「いきなりだね。一概には言えないけど」
その敵国とのパワーバランス、これまでの外交方針、どこが攻められたのか、なぜ攻められたのか、相手の要求は何なのか。まずはいろいろ想定すべき前提がある。
エリーゼの青い瞳が真剣にこちらを見つめていた。彼女はどう答えてほしいのだろうと考える。
「うーん。一旦、兵力、地形、同盟国の有無とか確認するとして。どうすれば勝ちやすいかを考える」
「はい」
「でも、どう足掻いても勝てなさそうだったら……私なら、うまく負ける方法を探すかな?」
私の言葉にエリーゼはぽかんと口を開けた。淑女らしくありませんぞ、お嬢様。
「うまく、負ける……ですか?」
「うん。たとえば降伏の条件を有利に引き出したり、相手にも何かしらを負わせられるように決着のタイミングを考えたり。領地をとられるにしても、できるだけ被害が少ない場所を選ぶとか。逆にちょっと大事な領地を差し出して国民の安全を保障してもらうとか。あり得ない勝ちを目指した徹底抗戦で全滅するよりはマシでしょ」
「そういう考え方も、あるのですね……」
「もちろんある程度は戦った後ってことになるけどね。簡単に負けたら敵が味を占めて足元を見られるだろうし。それにとられた土地に住んでいる国民は、安全が保障されてたって敵の支配下で奴隷同然の扱いを受けるかも。結局は取引だよね」
「取引……」
エリーゼの表情がみるみる曇っていく。
私がここにきたばかりの頃に聞かされたディートリヒの言葉が、エリーゼと親しくなった今では実感をもって理解できるようになっていた。
『エリーゼは純粋で慈愛に満ちている最高の女性だ。しかし物事の因果関係を理解する能力が欠落している』
歴史として戦争を知っているにもかかわらず、彼女はそれが我が身に降りかかった時、国を預かる者として取引を有利に運ぶ計算ができないのだ。
「……もしエリーゼが国を守る立場にいたらどうするの?」
「わ、わたくしが、身代わりになります」
「へ?」
予想の斜め上の答えに私が呆気にとられていると、エリーゼは真剣な眼差しで続けた。
「わたくしが敵国に行って、平和的な解決を誠心誠意お願いいたします。領土の代わりにわたくしの身柄を、財産を差し出しますわ」
「いやいや……」
国を守る立場、つまり王妃だったとしたら、国民の代わりに自分を差し出すなんて相手に最強のカードを渡すようなものだ。さらに要求を吊り上げられるに決まっている。
それに一人の命で国が救えるほど国際政治は甘くない。そうやって描かれた安い平和の後には何の発言力も持たない敗北者としての未来だけが待っている。
絶句する私を見たエリーゼは顔色を悪くして目を伏せてしまった。
「きっと、良い答えではないのですね。でも……わたくしは、誰かを見捨てることなどできません。捕虜の方々も領土の人々も、兵士たちも、みんな大切な我が国の民ですもの」
「じゃあ、逆に攻め込んで勝つのはどう?」
「勝つ……ということは、相手の国の兵士の方々を倒すということですわよね? あちらにも帰りを待つ家族がいらっしゃいますのに……」
そんな論理が通るのは責任を負わない民衆だけで、国主が「誰も傷つけたくない」なんて言ってたら国を守ることもできない。
そう、理解していても良心の呵責に耐えられずにエリーゼは顔を覆ってしまった。
「だめですわ、マリ。わたくしには正解が見つかりません。負けることは我がエルハーフェンの民が苦しむことで、勝つことは、他国の民が苦しむということです。わたくしには……」
これが彼女の本質だった。敵味方の区別なく、すべての人の不幸を自分の痛みとして感じてしまう。優しく慈しみに満ちて、とてもじゃないが国をやり取りする商売には向かない善人。
「わたくしは愚かなのです。善意だけでは、人は救えないのですわね。ディートリヒ様は正しいことをなさいました」
「エリーゼは愚かじゃないよ。ディートリヒだってそう言ってた」
頭が悪いとは言ってたけれども。要するに彼女の知性は政治の世界で発揮し得る知能となり得なかっただけで、人間性として愚かなわけではまったくない。
「政治に向いてなかったとして、他になんでも向いてることはあるじゃん」
そして先日フェリクスが言ったように、人にはそれぞれ領分がある。
たとえばエリーゼが街のお菓子屋の看板娘だとしたら、彼女は「気立てがよくてお菓子作りも上手、将来有望なお嬢さん」になっただろう。市井において彼女の善良な本質はむしろ「頭がいい」と評価される。
私はきっと彼女のお菓子目当てに通いつめるし、たぶんディートリヒもフェリクスも、他にも大勢の男どもが常連になりそうだ。
「っていうかさ、あんな風に恥をかかされたのにディートリヒのこと恨んだりしないの?」
どうせ考えたこともないんだろうなとは思いつつ聞いてみると、エリーゼは案の定きょとんとしていた。
「恨む理由がありません。わたくしはディートリヒ様を尊敬しておりますわ」
「尊敬かー」
「出会った時から……出会う前から、ずっとです。あの方はわたくしには到底及ばない深遠なお考えをお持ちで、常に国の未来を見据えていらっしゃいます。幼い頃からご自身の感情よりも公務を優先され、立派にお務めを果たしておられます」
その青い瞳には一点の曇りもない敬愛の光だけが宿っていた。
「ディートリヒ様は必ずや名君におなりだと、わたくしは分かっておりますもの」
まるで偉人伝の英雄を語るような口ぶり。あるいは崇拝する神について語る信者のような。
「マリがディートリヒ様のおそばにいらしてくださって、本当に安心いたしました。マリならきっとあの方を支えて差し上げられますわ」
「左様ですか……」
ああ、ディートリヒ、可哀想に。確かに心から敬愛されているのにこれっぽっちも男として見られてはいない。
「マリは運命の伴侶として、ディートリヒ様を愛してらっしゃるのよね」
「え」
「だって『真実の愛』ですもの」
急に言われて今度は私が呆然とする番だった。愛? なにそれ、いくらで売れるの?
「優秀なビジネスパートナーだとは思ってるよ」
「ビジネスパートナーですか?」
「そう。仕事を任されるうえでは、とても頼りになる人だよね」
「息の合った素敵な夫婦、ということですわね!」
「……まあ、そう解釈したいならそれでもいいか」
私はディートリヒを愛していない。でも尊敬はしている。信頼もしている。
ある意味ではエリーゼと同じ色気のない感情だけれど、彼女と違って私の場合は一方通行ではなく、ディートリヒのほうでもお互いに愛がないのが幸いだった。
結局勉強よりもただエリーゼとのおしゃべりを楽しんでしまった翌朝。ラジオ体操の後、私はディートリヒの執務室を訪ねることにした。
王族との会話にもすっかり慣れたもので、始めのような「王太子の部屋! あわわ!」という緊張は跡形もなくなっている。
「おはようございまーす」
「ああ、マリか。おはよう」
ディートリヒは今日も書類の山と格闘していたけれど、私の姿を見ると手を休めた。
間延びした私の挨拶を叱りもしない、それどころか丁寧に挨拶を返してくる。無駄な職務を押しつけず自分の仕事は自分でする。
あちらの世界では見たこともないほどの良き上司だ。
「昨日、エリーゼといろいろ話したんですけど」
私がそう切り出すと、ディートリヒは万年筆を置いて碧い瞳を私に向ける。
「戦争の話、だろう?」
「えっ。なんで知ってるんですか? 盗聴?」
「人聞きが悪いな。図書室の司書から日報が届くだけだ。聖女と王太子の元婚約者が安全保障について議論していたとなれば、耳に入らないはずがない」
そんな大袈裟な話をした覚えはないけれども。
「君が余計なことを尋ねるから、エリーゼが悩んでいただろう」
「それ司書さんの報告じゃないですよね? やっぱり自分で聞いてました?」
「私はいつでもエリーゼを見守っている」
「こわっ。ストーカーだ」
「馬鹿を言うな。彼女を怯えさせるような真似はしない」
じゃあエリーゼが怯えないなら何でもするってことだろう。
仮に物陰からディートリヒが二十四時間見守っていたとしてもあの性善説の権化は怯えない気がする。「さすがはディートリヒ様、職務熱心ですわ!」とか言ってにこにこしていそうだ。
想像したら頭が痛くなってきた。
彼女を愛しすぎているディートリヒ、すべてを善意で解釈しすぎるエリーゼ。彼女の資質がどうこう以前に、この二人は結婚しなくてよかったのかもしれない。
人としての相性が悪い。いや、むしろ良すぎるのか? よく分からないけれど、一緒にしないほうが秩序は保たれる気がした。
互いに互いの暴走を止める役目を果たせそうにない。
「ついでだからあなたのことを恨んでないのか聞いちゃった」
「馬鹿馬鹿しい。エリーゼは誰かを恨んだりなどしない」
「うん。『出会う前から尊敬しています』って言ってましたよ」
「…………尊敬か。……知っていたさ」
「恋心は全然なかったですね。清々しいくらいに」
「言うな。傷口に塩を塗る趣味があるのか、君は」
「ちょっと楽しいです」
ディートリヒは椅子に深くもたれかかり、遠い目をしていた。
「私の苦悩や執着など、エリーゼには想像もつかないのだろうな」
ああ、プライドを守るためにそれを抑えたりしないだけで、ちゃんと執着の自覚はあるらしい。自分の執着心すらも冷静かつ合理的に観察できているわけだ。
「そういえば殿下、フェリクスがエリーゼに近づいてるのは知ってますか?」
「知っている。昨日も彼が獲った兎を捌こうとしてエリーゼが泣きそうになり、彼が慰めたと」
「……」
「なんだ、その目は」
「いや、情報が早すぎて怖いなって」
「王宮内の出来事を把握するのは支配者の義務だ」
「じゃあ、あの後のフェリクスの動向は?」
「そんなことまで私が把握する必要はない」
秒で破綻した。結局エリーゼしか見てないのじゃないか、この純情一途ストーカー。
「エリーゼが結婚する日が怖いなあ」
「彼女が誰と結ばれようと、それが彼女の意志である限り私は手出ししない」
「そうですか。まあ、フェリクスなら大丈夫でしょ。理想的な騎士様だし」
「……エリーゼが、選んだのならな……」
そう言いつつディートリヒはめちゃくちゃ歯を食いしばっていた。なんて面倒くさい男なのだろう。こんな調子で本当にエリーゼの恋を大人しく見守っていられるのか。
「まあいいや。報告もしたし、そろそろお昼ごはんを食べに行こうかな」
「ああ。私も通商条約の見直しに戻るとしよう」
そう言うとディートリヒは再び書類に向き直った。
「たまには休憩してくださいよ、未来の名君様」
私が皮肉交じりに言うと、彼はふんと鼻を鳴らす。エリーゼに対するのとは大違いの態度だけれど私にとってはこのほうが心地よい。
「なら時々は手伝ってくれ、未来の王妃殿。君の働きには期待している」
「魔力の浄化はしてますよ。自覚ないけど」
「それは分かっている。そうではなく、せっかくの知性を行使しろということだ。そのために図書室に通って勉学に励んでいるのではないのか? もちろん嫌なら無理にとは言わないが」
「はい?」
ちょっと呆気にとられてしまった。
確かに最低限の知識をつけるべく勉強しているわけだが、それは本当にあくまでも最低限の話であって、知性なんて高尚なものを持ち合わせているつもりはない。
首を傾げる私にディートリヒはなぜだかとても意外そうな顔をした。
「自覚がなかったのか? 私は一目見た時から君の適正を分かっていた。自尊心を押し隠して遜り、情を持ちながらも現実のために無視できる冷静な眼差しを」
「なんか褒められてるのか貶されてるのか分からない言い様ですね……」
「君は王妃に向いているのだよ、マリ」
何を言っているのだろうか、この人は。有能で合理的でエリーゼに対してだけ異常に解像度が高いディートリヒも、異世界人への見積もりは甘いらしい。
私ができるのは精々、言われた通りの仕事をやるだけ。どこまでいっても社畜なのだから。
厨房で腹ごしらえをして庭へ向かうと、すでに到着していたエリーゼが嬉しそうに並べられた植木鉢を指した。
「マリ! 見てくださいませ。増えすぎた花を鉢植えにしたのです。これなら、この子は他の子たちの栄養を奪うことなく、ここで咲いていられますわ!」
「おー、いいじゃない。……せっかくだから果物とか増やしてみようか。焼き菓子に合いそうなやつ」
「素敵ですね。一生懸命に生きた証ですもの、わたくし、その果実も感謝していただきます」
土に塗れながら他愛ない話をして笑い合う、いつもの時間。
当初は厄介に思われた業務提携も今のところ私を煩わせることはなく、ただ心地よい、穏やかな午後が続いている。
毎日がこのままゆっくりと過ぎていけばいいな。
「エルハーフェンって、昔はもっと小さかったんだね」
「はい。建国以来しばらくは聖女様をお守りするので手一杯だったのです」
聖女がいても戦争は起きる。そりゃそうか。
神聖魔法だとか予知能力だとか神の御加護だとか、そういう強大な力でも持っているなら抑止力となるけれど、この世界の聖女はただの空気清浄装置。
そしてどうせなら自分の国でこそ力を発揮してほしいと考えるのが国家というものだ。聖女のいるそこが世界の中心になるのだから。
「いつ頃でっかい国になったの?」
「三百年前の戦争で隣国の侵攻を防ぎきり、逆にエルハーフェンの領土を広げたそうですわ」
エリーゼは歴史にも詳しかった。年号や人名、出来事について、お伽噺を語るようにすらすらと答えてくれる。記憶力がよくて知識も豊富だ。
それだけで言えば決して頭が悪いわけではない。それだけで、言えば。
「マリ、あなたは……もしも敵国に攻められたら、あなたなら。あなたが国を守る立場にいたら、どうなさいますか?」
「いきなりだね。一概には言えないけど」
その敵国とのパワーバランス、これまでの外交方針、どこが攻められたのか、なぜ攻められたのか、相手の要求は何なのか。まずはいろいろ想定すべき前提がある。
エリーゼの青い瞳が真剣にこちらを見つめていた。彼女はどう答えてほしいのだろうと考える。
「うーん。一旦、兵力、地形、同盟国の有無とか確認するとして。どうすれば勝ちやすいかを考える」
「はい」
「でも、どう足掻いても勝てなさそうだったら……私なら、うまく負ける方法を探すかな?」
私の言葉にエリーゼはぽかんと口を開けた。淑女らしくありませんぞ、お嬢様。
「うまく、負ける……ですか?」
「うん。たとえば降伏の条件を有利に引き出したり、相手にも何かしらを負わせられるように決着のタイミングを考えたり。領地をとられるにしても、できるだけ被害が少ない場所を選ぶとか。逆にちょっと大事な領地を差し出して国民の安全を保障してもらうとか。あり得ない勝ちを目指した徹底抗戦で全滅するよりはマシでしょ」
「そういう考え方も、あるのですね……」
「もちろんある程度は戦った後ってことになるけどね。簡単に負けたら敵が味を占めて足元を見られるだろうし。それにとられた土地に住んでいる国民は、安全が保障されてたって敵の支配下で奴隷同然の扱いを受けるかも。結局は取引だよね」
「取引……」
エリーゼの表情がみるみる曇っていく。
私がここにきたばかりの頃に聞かされたディートリヒの言葉が、エリーゼと親しくなった今では実感をもって理解できるようになっていた。
『エリーゼは純粋で慈愛に満ちている最高の女性だ。しかし物事の因果関係を理解する能力が欠落している』
歴史として戦争を知っているにもかかわらず、彼女はそれが我が身に降りかかった時、国を預かる者として取引を有利に運ぶ計算ができないのだ。
「……もしエリーゼが国を守る立場にいたらどうするの?」
「わ、わたくしが、身代わりになります」
「へ?」
予想の斜め上の答えに私が呆気にとられていると、エリーゼは真剣な眼差しで続けた。
「わたくしが敵国に行って、平和的な解決を誠心誠意お願いいたします。領土の代わりにわたくしの身柄を、財産を差し出しますわ」
「いやいや……」
国を守る立場、つまり王妃だったとしたら、国民の代わりに自分を差し出すなんて相手に最強のカードを渡すようなものだ。さらに要求を吊り上げられるに決まっている。
それに一人の命で国が救えるほど国際政治は甘くない。そうやって描かれた安い平和の後には何の発言力も持たない敗北者としての未来だけが待っている。
絶句する私を見たエリーゼは顔色を悪くして目を伏せてしまった。
「きっと、良い答えではないのですね。でも……わたくしは、誰かを見捨てることなどできません。捕虜の方々も領土の人々も、兵士たちも、みんな大切な我が国の民ですもの」
「じゃあ、逆に攻め込んで勝つのはどう?」
「勝つ……ということは、相手の国の兵士の方々を倒すということですわよね? あちらにも帰りを待つ家族がいらっしゃいますのに……」
そんな論理が通るのは責任を負わない民衆だけで、国主が「誰も傷つけたくない」なんて言ってたら国を守ることもできない。
そう、理解していても良心の呵責に耐えられずにエリーゼは顔を覆ってしまった。
「だめですわ、マリ。わたくしには正解が見つかりません。負けることは我がエルハーフェンの民が苦しむことで、勝つことは、他国の民が苦しむということです。わたくしには……」
これが彼女の本質だった。敵味方の区別なく、すべての人の不幸を自分の痛みとして感じてしまう。優しく慈しみに満ちて、とてもじゃないが国をやり取りする商売には向かない善人。
「わたくしは愚かなのです。善意だけでは、人は救えないのですわね。ディートリヒ様は正しいことをなさいました」
「エリーゼは愚かじゃないよ。ディートリヒだってそう言ってた」
頭が悪いとは言ってたけれども。要するに彼女の知性は政治の世界で発揮し得る知能となり得なかっただけで、人間性として愚かなわけではまったくない。
「政治に向いてなかったとして、他になんでも向いてることはあるじゃん」
そして先日フェリクスが言ったように、人にはそれぞれ領分がある。
たとえばエリーゼが街のお菓子屋の看板娘だとしたら、彼女は「気立てがよくてお菓子作りも上手、将来有望なお嬢さん」になっただろう。市井において彼女の善良な本質はむしろ「頭がいい」と評価される。
私はきっと彼女のお菓子目当てに通いつめるし、たぶんディートリヒもフェリクスも、他にも大勢の男どもが常連になりそうだ。
「っていうかさ、あんな風に恥をかかされたのにディートリヒのこと恨んだりしないの?」
どうせ考えたこともないんだろうなとは思いつつ聞いてみると、エリーゼは案の定きょとんとしていた。
「恨む理由がありません。わたくしはディートリヒ様を尊敬しておりますわ」
「尊敬かー」
「出会った時から……出会う前から、ずっとです。あの方はわたくしには到底及ばない深遠なお考えをお持ちで、常に国の未来を見据えていらっしゃいます。幼い頃からご自身の感情よりも公務を優先され、立派にお務めを果たしておられます」
その青い瞳には一点の曇りもない敬愛の光だけが宿っていた。
「ディートリヒ様は必ずや名君におなりだと、わたくしは分かっておりますもの」
まるで偉人伝の英雄を語るような口ぶり。あるいは崇拝する神について語る信者のような。
「マリがディートリヒ様のおそばにいらしてくださって、本当に安心いたしました。マリならきっとあの方を支えて差し上げられますわ」
「左様ですか……」
ああ、ディートリヒ、可哀想に。確かに心から敬愛されているのにこれっぽっちも男として見られてはいない。
「マリは運命の伴侶として、ディートリヒ様を愛してらっしゃるのよね」
「え」
「だって『真実の愛』ですもの」
急に言われて今度は私が呆然とする番だった。愛? なにそれ、いくらで売れるの?
「優秀なビジネスパートナーだとは思ってるよ」
「ビジネスパートナーですか?」
「そう。仕事を任されるうえでは、とても頼りになる人だよね」
「息の合った素敵な夫婦、ということですわね!」
「……まあ、そう解釈したいならそれでもいいか」
私はディートリヒを愛していない。でも尊敬はしている。信頼もしている。
ある意味ではエリーゼと同じ色気のない感情だけれど、彼女と違って私の場合は一方通行ではなく、ディートリヒのほうでもお互いに愛がないのが幸いだった。
結局勉強よりもただエリーゼとのおしゃべりを楽しんでしまった翌朝。ラジオ体操の後、私はディートリヒの執務室を訪ねることにした。
王族との会話にもすっかり慣れたもので、始めのような「王太子の部屋! あわわ!」という緊張は跡形もなくなっている。
「おはようございまーす」
「ああ、マリか。おはよう」
ディートリヒは今日も書類の山と格闘していたけれど、私の姿を見ると手を休めた。
間延びした私の挨拶を叱りもしない、それどころか丁寧に挨拶を返してくる。無駄な職務を押しつけず自分の仕事は自分でする。
あちらの世界では見たこともないほどの良き上司だ。
「昨日、エリーゼといろいろ話したんですけど」
私がそう切り出すと、ディートリヒは万年筆を置いて碧い瞳を私に向ける。
「戦争の話、だろう?」
「えっ。なんで知ってるんですか? 盗聴?」
「人聞きが悪いな。図書室の司書から日報が届くだけだ。聖女と王太子の元婚約者が安全保障について議論していたとなれば、耳に入らないはずがない」
そんな大袈裟な話をした覚えはないけれども。
「君が余計なことを尋ねるから、エリーゼが悩んでいただろう」
「それ司書さんの報告じゃないですよね? やっぱり自分で聞いてました?」
「私はいつでもエリーゼを見守っている」
「こわっ。ストーカーだ」
「馬鹿を言うな。彼女を怯えさせるような真似はしない」
じゃあエリーゼが怯えないなら何でもするってことだろう。
仮に物陰からディートリヒが二十四時間見守っていたとしてもあの性善説の権化は怯えない気がする。「さすがはディートリヒ様、職務熱心ですわ!」とか言ってにこにこしていそうだ。
想像したら頭が痛くなってきた。
彼女を愛しすぎているディートリヒ、すべてを善意で解釈しすぎるエリーゼ。彼女の資質がどうこう以前に、この二人は結婚しなくてよかったのかもしれない。
人としての相性が悪い。いや、むしろ良すぎるのか? よく分からないけれど、一緒にしないほうが秩序は保たれる気がした。
互いに互いの暴走を止める役目を果たせそうにない。
「ついでだからあなたのことを恨んでないのか聞いちゃった」
「馬鹿馬鹿しい。エリーゼは誰かを恨んだりなどしない」
「うん。『出会う前から尊敬しています』って言ってましたよ」
「…………尊敬か。……知っていたさ」
「恋心は全然なかったですね。清々しいくらいに」
「言うな。傷口に塩を塗る趣味があるのか、君は」
「ちょっと楽しいです」
ディートリヒは椅子に深くもたれかかり、遠い目をしていた。
「私の苦悩や執着など、エリーゼには想像もつかないのだろうな」
ああ、プライドを守るためにそれを抑えたりしないだけで、ちゃんと執着の自覚はあるらしい。自分の執着心すらも冷静かつ合理的に観察できているわけだ。
「そういえば殿下、フェリクスがエリーゼに近づいてるのは知ってますか?」
「知っている。昨日も彼が獲った兎を捌こうとしてエリーゼが泣きそうになり、彼が慰めたと」
「……」
「なんだ、その目は」
「いや、情報が早すぎて怖いなって」
「王宮内の出来事を把握するのは支配者の義務だ」
「じゃあ、あの後のフェリクスの動向は?」
「そんなことまで私が把握する必要はない」
秒で破綻した。結局エリーゼしか見てないのじゃないか、この純情一途ストーカー。
「エリーゼが結婚する日が怖いなあ」
「彼女が誰と結ばれようと、それが彼女の意志である限り私は手出ししない」
「そうですか。まあ、フェリクスなら大丈夫でしょ。理想的な騎士様だし」
「……エリーゼが、選んだのならな……」
そう言いつつディートリヒはめちゃくちゃ歯を食いしばっていた。なんて面倒くさい男なのだろう。こんな調子で本当にエリーゼの恋を大人しく見守っていられるのか。
「まあいいや。報告もしたし、そろそろお昼ごはんを食べに行こうかな」
「ああ。私も通商条約の見直しに戻るとしよう」
そう言うとディートリヒは再び書類に向き直った。
「たまには休憩してくださいよ、未来の名君様」
私が皮肉交じりに言うと、彼はふんと鼻を鳴らす。エリーゼに対するのとは大違いの態度だけれど私にとってはこのほうが心地よい。
「なら時々は手伝ってくれ、未来の王妃殿。君の働きには期待している」
「魔力の浄化はしてますよ。自覚ないけど」
「それは分かっている。そうではなく、せっかくの知性を行使しろということだ。そのために図書室に通って勉学に励んでいるのではないのか? もちろん嫌なら無理にとは言わないが」
「はい?」
ちょっと呆気にとられてしまった。
確かに最低限の知識をつけるべく勉強しているわけだが、それは本当にあくまでも最低限の話であって、知性なんて高尚なものを持ち合わせているつもりはない。
首を傾げる私にディートリヒはなぜだかとても意外そうな顔をした。
「自覚がなかったのか? 私は一目見た時から君の適正を分かっていた。自尊心を押し隠して遜り、情を持ちながらも現実のために無視できる冷静な眼差しを」
「なんか褒められてるのか貶されてるのか分からない言い様ですね……」
「君は王妃に向いているのだよ、マリ」
何を言っているのだろうか、この人は。有能で合理的でエリーゼに対してだけ異常に解像度が高いディートリヒも、異世界人への見積もりは甘いらしい。
私ができるのは精々、言われた通りの仕事をやるだけ。どこまでいっても社畜なのだから。
厨房で腹ごしらえをして庭へ向かうと、すでに到着していたエリーゼが嬉しそうに並べられた植木鉢を指した。
「マリ! 見てくださいませ。増えすぎた花を鉢植えにしたのです。これなら、この子は他の子たちの栄養を奪うことなく、ここで咲いていられますわ!」
「おー、いいじゃない。……せっかくだから果物とか増やしてみようか。焼き菓子に合いそうなやつ」
「素敵ですね。一生懸命に生きた証ですもの、わたくし、その果実も感謝していただきます」
土に塗れながら他愛ない話をして笑い合う、いつもの時間。
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それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
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