遥かなる恋人に

ono

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資本主義的儀式

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 土曜日つちようびの朝。ベッドから身を起こして伸びをする。バルコニーから差し込む光が心地よい。
 たとえ明日が日曜日でなくても、今日という日が月曜日から最も遠くはなくても、この世界においても土曜日の気分は最高だった。

 衣食住の保証された聖女という名の快適なニート生活。しかし人間とは贅沢な生き物で、満たされれば満たされたで新たな渇きを覚えるものである。
 無性に、買い物がしたかった。これといって何かほしいものがあるわけではなく、お金を使いたいのだ。
 前の世界では毎日のように電車に乗って出勤、コンビニやスーパーで買い物をして、生活の中には当たり前に消費があった。
 でもこのエルハーフェン王国にきてから、私は一度も収支を体験していない。

 必要なものは何でも用意してもらえて、食事も衣服も娯楽も、すべてが無償で提供される。
 衣類や装飾品は不必要なまでに立派だし、気に入らなければミリアに頼んでおくだけで翌日には改善される。食事だってプロのシェフによる最高傑作が用意され、自分で作るにも材料は厨房に溢れていた。
 水光熱費さえもタダ!
 それはとてもありがたい。でもそうじゃないのだ。私は自分の足で店に入り、値札を見て悩み、自分の財布からお金を出して「これをください」と言いたいのだ。
 消費行動。それこそが現代社会で擦り切れた社畜の魂を癒やす、資本主義的儀式自分へのご褒美なのだった。

「というわけで、街に連れてってほしいの」
 朝の訓練を終えたフェリクスを捕まえてそう頼むと、彼は汗を拭いながら爽やかに微笑んだ。
「お安い御用ですよ、マリ殿。何か必要なものでもおありですか?」
「そういうわけじゃないよ。不自由はしてないんだけど、なんていうか、社会科見学? 実地で経済を学びたいというか、お金を使いたいというか」
「なるほど、素晴らしい深慮です。聖女様自ら市井の経済活動を肌で感じようとは、感服いたしました」
「あ、うん。そんな感じ」
 ただの物欲発散をさも崇高な理念かのように受け取って褒めてくれるフェリクスは、やはりできる男だった。

 ディートリヒから支給された革袋を懐に忍ばせる。中身は銀貨一枚と銅貨二十枚、お小遣いが入っていた。
 この世界の物価水準については書物のうえでしか知らなくて、これが気軽なお出かけに持って行くのに妥当な金額なのかどうかはいまいち実感がない。
 でも金貨を渡されたら普通の店では使いにくそうだし、かといって銀貨があるなら菓子の一つも買ったら終わりという少額でもないだろう。
 おそらくいいところを突いているはずだ。王太子殿下の金銭感覚を信じよう。

 出発の準備を整えて、フェリクスと共に王宮の厩舎に向かう。街までは馬で一時間程度とのことだ。
 艶やかな毛並みに引き締まった筋肉の美しい生き物が並んでいる。どの馬も気品があって美しい。ただ、間近で見ると思ったよりも大きいのがちょっと不安だ。
 これに乗るのか。乗れるのか?
「マリ殿、乗馬のご経験はおありですか。馬車もご用意できますよ」
「うー、せっかくだから馬に乗ってみたい。経験はないんだけど」
「分かりました。厩舎で最も大人しい馬を連れてきましょう」

 フェリクスの指示を受けて厩番が連れてきてくれたのは、白い毛並みの雌馬だった。鼻筋に黒い模様がある。
「この子はガートルード。気配り屋で初心者を乗せ慣れています」
「それは助かる。よろしくね」
 先代聖女様の名前を戴いているとは心強い。恐る恐る首のところを撫でてみると、ガートルードは優しく鼻息を吹きかけてきた。

 しかしフェリクスの手引きで鐙に足をかけて馬上の人となった瞬間、私は後悔した。
「……たっか」
 想像以上に視点が高い。高すぎる。地面から馬の背中までの距離が恐ろしく遠く感じられた。高所恐怖症でなくても血の気が引いてしまう。
 それにめちゃくちゃ揺れるのだ。足元が不安定で、自転車でもバイクでもなく生き物の上に跨っているという生々しい感覚が皮膚から伝わってくる。
 想像したような優雅な乗馬とは程遠い、リアルな恐怖が襲ってきた。

「ちょ、ちょっと、あのー、フェリクス」
「はい」
「今さらやっぱやめて馬車にするって言ったら怒る?」
 へっぴり腰でしがみつくように手綱を握り締めながら尋ねると、フェリクスは涼しい顔で答えた。
「とんでもございません。馬車もすぐにご用意できます。ですが、万が一マリ殿が落馬したとしても必ず無傷でお助けいたしますよ」
「落ちる可能性あるんだ……」
 そりゃあそうだ。柵があるわけでもない、ただ腰かけているだけなのだもの。
 考えたくもないのにいつだったかテレビで見た競馬中継の、鞍から落ちかかったまま足が絡まって引きずり回されていた騎手の映像が脳裏に浮かぶ。

 明らかに不安で蒼白になっている私に気づき、フェリクスが苦笑する。
「マリ殿、そのマントには風の魔法がかかっています。強い衝撃が加わるとそれが守ってくれますよ」
「ほんと?」
 これもディートリヒが持たせてくれたものだけれど、単なる防寒具かと思ったらエアバッグ機能付き装備だったのか。

「ちなみになんだけど、騎士団で馬から落ちて怪我する人って毎年どれくらいいるの? 参考までに」
「落馬で怪我をする者はおりません」
「じゃあ、大丈夫かな」
 魔法で守られ、フェリクスも隣についているわけだし。統計は何よりも信頼できる。
「恐怖心から二度と乗馬ができなくなる者は毎年二人ほど出ますが」
「……じゃあ、やめとこうかな」
 それ物理的なダメージよりも深刻なトラウマを負うってことですよね。ああ、統計が何よりも信頼できてしまう。

 でも、ここで諦めたら一生勇気が出ない気がする。せっかくのファンタジー世界だもの、馬に乗れるようになりたい。
 ここで無事に乗馬を体験しておけば今後の行動範囲も広がるというものだ。
「フェリクス、絶対大丈夫って言って……」
「絶対に大丈夫ですよ。私とガートルードを信頼してください」
「うう……」
 フェリクスの言葉に応えるようにガートルードが目線でちらっと私を振り向いた。はりきって嘶いたりしない辺りに気遣いが感じられる。そのイケメンぶりに絆され、私も覚悟を決めることにした。

「では参りましょう。私が並走しますので、何かあればすぐに手を伸ばしてください」
「はい」
 そう言ってフェリクスは軽々と自分の愛馬に飛び乗った。彼の黒髪と同じ色をした黒馬。あまりにも様になっている。
「手綱はこう持って。足はしっかり鐙に。背筋を伸ばし、馬の動きに任せてください。自信を持って乗っていればあとは彼女がうまくやってくれます」
「は、はい」
 おっかなびっくりの私を乗せて、ガートルードがゆっくりと厩舎を出る。

 最初はただ歩くだけ。高さと揺れに慣れるまで時間がかかった。
 それでも慣れてくるとだんだん楽しくなってきた。高い視点から見る景色は新鮮で、馬の体温と鼓動が伝わってくる感覚も安心感に変わりつつある。
「いい調子です、マリ殿」
「うん、なんとか」
 フェリクスの励ましに支えられて、私は少しずつガートルードとの距離を縮めていった。

 街へと続く道は、なだらかな丘陵地帯をくだっていく。王城が建つのは急峻な断崖の上。そこから街へ降りるにはこの迂回路を通るしかない。
 振り返ると、断崖のてっぺんに聳え立つエルハーフェンの王城が見えた。白亜の城壁、並び立つ尖塔の群れ、王家の旗が風を受けて優雅にはためいている。
 中にいる時は職場であり寮であり、生活の匂いが滲む場場所だけれど、外から見ればそれはファンタジーの景色そのものだった。

「美しいでしょう? 俺もこの景色が好きで、よく遠乗りをするんですよ」
「うん、すごい。……すごいけど」
「けど?」
「お尻が痛い」
「ははは。最初は皆さんそう仰います」

 景色を楽しむ余裕があったのは最初だけだった。
 馬の背中は想像以上に揺れる。上下動に合わせて腰を浮かせるリズムが掴めない。内股に変な力が入って、すでに筋肉痛の予感がしている。
 フェリクスは体幹がしっかりしているおかげで馬と一体化したように微動だにせず優雅に乗っていた。さすがは近衛騎士様だ。

「さて、街を散策して日没前に帰ることを考えると、もう少しペースを上げましょうか」
「え、ちょっと待っ……怖い怖い怖い」
「大丈夫です、私がついています」
「ひええぇ」
 必死でガートルードのたてがみにしがみつく。フェリクスが先導し、こちらの手綱も彼が持っている。私はただ鞍の上で荷物のように揺られるばかりだった。

 言われた通り一時間ほど揺られて、ようやく城下町の入り口に辿り着いた頃には普段使わない筋肉が悲鳴をあげていた。やはり毎日のラジオ体操だけでは下半身の強化が足りないようだ。
「到着しましたね。お疲れさまです」
「……変なところが凝った」
 主に股関節が、とは一応聖女として口に出してはいけない気がした。
「おやおや。帰りは馬車を借りましょうか」
「絶対そうして」
 フェリクスに支えられるようにして鞍から降りて、地面を踏みしめる。大地というのはなんて偉大なのだろう。そして私を振り落とすことなく運んでくれたガートルードもだ。
「ありがとうね、ガートルード」
 もう一度彼女の首を撫でると、そっと頬にすりすりしてくれた。かわいい。股間は凝ったけれどもがんばってみてよかった。

 門を潜ると王都の大通りは活気に満ち溢れていた。
 広々とした石畳の道の両側に商店が並び、露天商が野菜や果物や色とりどりの花、香辛料に焼き菓子、革製品、布地、ありとあらゆるものを売っている。
 行き交う人々の服装は様々で、貴族らしい立派な服の人もいれば、質素な作業着の人もいる。話し声、馬車の車輪の音、雑多な匂い。
 整備の行き届いた王城とは違う、生活という混沌がそこにあった。

 ぶらぶらと歩きながら露店を眺める。焼きたてのパンの香ばしい匂いにそそられて、一軒のパン屋の前で足を止めた。店主の中年女性が私を見て笑顔を浮かべる。
「いらっしゃい! 焼きたてですよ~。こちらはイチジクとクランベリーが入ってます」
「おいしそう。それください」
「毎度あり!」
 パン一つで銅貨二枚。引き換えにほかほかのパンを受け取った。聖女、はじめてのおつかい達成である。

 焼きたてのパンを齧りながら再び街を歩く。王宮で食べるものより歯応えがあって、唾液が分泌されるので一層食欲が湧いてくる。
 もう一つ買えばよかった。こうやって複数の商品を買わせるわけだな。

 あれこれと露店を冷かしながらそれとなく市場の傾向を把握できてきた頃。ふと疑問が湧いて、革袋から銅貨を一枚取り出した。
 丸くて平たいシンプルな造形。銀貨は五百円玉くらいのサイズで、銅貨は十円玉より少し大きい程度。表には王冠の紋章、裏には数字が刻まれているだけ、凝った細工もなくて誰でも簡単に作れそうだと思ってしまう。
「この貨幣って、偽造とか大丈夫なの?」
 フェリクスは一瞬不思議そうにしてから、なるほどと頷いた。偽造という発想自体がなかったようだ。
「エルハーフェンの貨幣はすべて王宮で鋳造されています。その過程で王家の血筋を示す火の魔力が注ぎ込まれるのです」
 個人認証システム内蔵か。血筋由来の魔力そのものは偽造しようがないから、王宮以外で造幣は行えない。ウォーターマーク以上に強いかもしれない。

「でも偽物ってすぐ見分けられるの?」
「はい。商売に携わる者であれば誰しも土の魔法を鍛えていますから。触れれば分かりますよ」
「なるほど。便利だねー」
 貨幣もつまるところは金属。剣や鎧に魔力を走らせて強化するように、土の魔法で貨幣に含まれる成分を読み取れば、贋金なんて鑑定に出すまでもなく一蹴できる。
 どんなにシンプルな構造の貨幣でも偽物が出回ることはない。魔法の存在する世界ならではの技術だった。侮りがたし、ファンタジー。

「鋳造所が襲撃されたりするのがちょっと怖いけど」
「ご安心ください。我々近衛騎士団がいる限りそのようなことは起こり得ません」
「あーそっか、騎士団って……」
 つまるところ武装した銀行員なんだ。だから貴族の次男以降も領地を持たない者たちも平民も、騎士団に入ることができれば領地収入に代わるほどの給与を得ることができる。
 そうか、こいつ銀行員なのか。改めてフェリクスを見る目が変わった気がする。

 レートは銅貨十枚で銀貨一枚、銀貨百枚で金貨一枚。大型の金貨もあるけれどそれは国家単位の取引でしか使われず、庶民の生活に根差しているのは主に銅貨と小型の銀貨。私が持っている知識はその程度だ。
 どんな時間の流れがあり、どんな文化の変遷のもと、どうやって現在があるのかまでは知る由もない。前の世界でのことですら「日本で流通してる硬貨はどこで作られてるでしょう」と聞かれても即答はできなかった。
「フェリクスはちゃんと詳しいね」
「愛していますので」
「……お金を?」
「はい。金はこの世で最も信頼の置ける友人です」
 まあ、分からないでもないけれど、そうきっぱり言い切れるのはなかなか大した根性だ。

 貨幣の価値は生活していれば自然に身につくもの。だからこそ、それ以上になることはあまりない。
 愛しい恋人に注ぐような甘い視線を貨幣に向けるフェリクスは確かに心からお金を「愛している」ようだ。
「パン食べたら本格的にお腹すいちゃったな」
「ではその友人たちの力を借りて、昼食にしましょうか」
「フェリクスの行きつけの店は?」
「いいですね。ご案内しましょう」
 ディートリヒの調査資料によってフェリクスの行動範囲は分かっている。彼に見られて困るような隠し事があるとしたら私を連れては行かないだろう。
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